小さな勇気と、希望 壱
状況は緊迫し、硬直状態が続いていた。
遠くのほうで遠吠えを上げているハイウルフの声をかき消すほどの大きさで、男が延々と怒鳴り散らしていた。
男が人質を取って、だいぶ時間が経過していたが、幸いまだ誰も死人は出ていない。
時折男が、人質に取っている女を叩いたりして、村中の恐怖心と怒りを増幅させていたこと以外は、現状は平行線の一途を辿っていた。
間違いない、自分が突き落とした帝国兵だ、とエミリオは草むらの陰から、その粗野で、不衛生な装いをした男の顔を観察した。
自分のせいだ、自分がちゃんと殺せなかったから、皆に迷惑がかかっているんだ。
エミリオは、ぎゅっと歯を食いしばって、心の中で何度も唱えた。
(僕が、何とかしなくちゃ)
まだ、距離がある。
腰の後ろに差したナイフが、やけに重く感じられ、エミリオは過剰に緩慢な動きになって、草むらの間を獣みたいに這った。
カタカタと指先が震えているのを誤魔化すように、土を掴む。
指の跡が残った土を自分の体が平らにする。
先刻ようやく、蝋燭のような山の頂に、朝日が炎を灯したわけだが、まだ騎士団の蹄の音は聞こえないままだ。
少しずつ、少しずつ影から影へと渡り、男の背後に回る。
茂みの中にいた虫たちが、朝日と共に住処を踏み荒らしてきた人間を厭うように飛び去って行く。
普段ならちょっと追いかけたくなるエミリオだったが、今は目もくれずに、ひたすら帝国兵のほうを凝視していた。
自分の背後に流れる川の音がやけに大きく耳に響いて、叫び声を上げる心臓の音に重なっている。
エミリオが何となく高台のほうを見ると、取り乱したように周囲をキョロキョロと見回しているミルフィの姿があって、きっと自分を探しているに違いないと確信した。
とても心配しているだろうと、胸が痛くなったエミリオであったが、それでも自分も何かしなければ、という使命感のほうが強く、今更後戻りする気にはなれないとますます気炎を上げた。
燐子を助けに行った姉の姿を思い出し、少年は少し大人びた様相で微笑んだ。
燐子が来てから、姉は楽しそうだ。きっと馬が合う、というやつなのだろう、と彼は確信していた。
自分のお願いを蹴って、他の人のために動くなんて、初めてかもしれないと考えつつも、ちょっとシスコン気味な発想だったと反省して苦笑を漏らす。
男は気でも狂ったのか、ひたすら何事かを喚き散らしているが、何かを要求する様子はなかった。
だが、逆にそれが恐ろしい。
合理性を欠いた人間の行動ほど、恐ろしいものは無い。
エミリオも、幼いながらそれが自然と理解できていた。
だからこそ、慎重に近付いていた。そして、やっと四メートル、といったところまで距離まで来ている。
掌を、背中を冷たい汗がつたっている。
ついに指先だけではなく、歯までカタカタと鳴り始めた。
怖い、この間突き落としたときとは違って、ナイフで刺すというのが、こんなにも恐ろしいなんて思いもしなかった。
燐子は、いつもこんなことをしているのか。
失敗すれば、自分が殺される、人質も殺される。
もっと自分は勇気がある人間だと思い込んでいたのだが、結局臆病者なのかもしれない。
まだ、様子を見るべきだろうか。
突如、男が一際大きな声を出して、剣を女性の首に当てた。
(殺されちゃう)
ふと、燐子が自分を叱ったときの言葉が脳裏をよぎった。
――大義の為、誇りのために殺めれば、戦士である。
自分は、ただの人殺しじゃない。
村の為に、戦う、戦士なんだ。
気が付いたら、走り出していた。
絶叫を上げそうになったが、自分の中のありったけの勇気をかき集めて、必死に喉の奥に押し込んだ。
後一メートルといったところで男が振り返るも、エミリオは気にも留めず、スピードも緩めず、男の腰のあたりに両手でナイフを突き立てた。
「エミリオ!」ミルフィの声が高台から響く。
そのままの勢いで三人揃って地面に転がり込む。
巻きあがった砂煙が朝日に反射して、白っぽく見える。
みんなが一様に息を飲んで見守る中、最初に立ち上がったのは、大柄の男だった。
エミリオのナイフは、腰の防具に阻まれてしまっていたのだ。
再び大きな声で、ミルフィが叫び、弓矢を構える。
しかし、凄まじい勢いで迫る焦燥感で手先が震え、矢を落としてしまう。
「お、お前、俺を突き落としたガキだろう!」
男が般若の形相で立ち上がろうとしたエミリオを見下ろし、蹴りつけた。
その背後では人質になっていた女が悲鳴を出して、門のほうへと走り去っていくところだった。
「うっ」と悲痛な声を漏らし、エミリオが門とは反対の方向へ転がっていく。
酷く痛い。肋が折れたのかも知れない。
自分の体がこんなにも脆く、軽いことに情けなさを感じる。
もっとご飯を食べて、筋肉もつけたほうが良かったみたいだ。
転がる小さな体を、地を踏み鳴らして追いかける男の背中目掛けて矢が飛来するが、距離がありすぎて届かない。
「コイツ、殺してやるからな!」
男の黄色く血走った目を咳き込みながら睨みつけたエミリオは、人質の女性は何とか助けられたんだ、と達成感を感じ昂揚していたのだが、直ぐに体を踏みつけられて悲鳴を上げた。
息が詰まっていく苦悶と、骨が軋む痛みに目元から涙が滲む。
怖い、死にたくない。
エミリオは必死で息を吸うが、どんなに酸素を吸い込んでも痛みは消えないし、足をどかそうと体をよじっても何も解決しない。
先ほどとは比較にならないぐらいの速さで手足が震え、歯が鳴る。
いよいよ男が剣を構えて、足元のエミリオに振りかぶった時、ふっと、朝日を覆う影が二人の上に姿を落とした。




