一騎打ち 参
山の頂から、朝日が顔を覗かせ始めたのを合図にすると決めていたかのように、二人は一瞬で距離を詰めた。
ジルバ―の胴薙ぎを、体を地面擦れ擦れまで屈めて躱し、起き上がる勢いで下から斬り上げるが、いとも容易く身を引いて避けられる。
左足を一歩前に出して袈裟斬り。
剣で防がれて、後退。
その動きに合わせたような深い当て身に、体勢が崩れる。
よろめいた体に目掛けて、ジルバ―が袈裟斬り。
すんでのところで体を後ろに逸らして避ける。
それを追い打つように、右から左への切り払いが迫って来る。
燐子は、ジルバ―の想像以上の切れの良さに、冷や汗をかきながら、同時に言葉にしようもない興奮を覚えていた。
防御は危険、かといってこのまま躱すのは至難の業だ。
ならば、と燐子は体を逸らしたままで、太刀の角度を変え、相手の剣の流れに合わせてすっと刃を差し込んだ。
受け止めることもせず、躱すこともしない。
ただ相手の剣筋だけを逸らして、ギリギリ自分の胸先三寸へと軌道を変える。
自分の丹田あたりを切り裂くはずだった一撃は、凄まじい風圧と共に、ミルフィから借りた白シャツだけを引き裂いて通り過ぎていく。
ジルバ―の瞳が驚愕に見開かれる中、燐子の太刀が、しならせた竹を戻すかのような勢いで相手の胴体を狙った。
斬り裂け、そう意思を込めながら振りぬいた一撃に、思考が追い付いていなかったジルバ―は反応できず、まともに脇腹に食らう。
しかし、鎧の継ぎ目を狙ったわけでもない一太刀では、相手の肉体に傷を与えることはできなかっただけではなく、かえって自分の振るった刀にヒビが入ってしまうこととなった。
無理もない、あれだけの敵を斬り、攻撃をいなしてきたのだ。
いくら業物で、腕の立つ職人に整備してもらった後だとしても限界は来よう。
今のは、明らかに自分が悪かった。
分厚い鎧に向かって斬りつけても、こうなることは目に見えていたはずだ。
刀が悪いのではない、冷静さを保てていなかった自分が悪い。
素早く気持ちを切り替え、太刀を鞘に納め小太刀を抜いた燐子に、ジルバ―は未だ驚いたような眼差しを向けていたが、ややあってニヤリと笑った。
「同じ条件だったら、僕はもう死んでるなぁ」
何が嬉しいのかとも不思議に思ったが、多少こちらを過小評価していたのだろう。手痛い反撃に、目が覚めたということだ。
「本当に、日本の侍はどうかしている。命が要らないとかそういう次元ではないんだ。そう、一つしかない命を、目的を果たすための手段とか、武器とかにでも思ってるんだよ」
そう言いながら、剣を地面に突き刺すと、彼はおもむろに鎧を脱ぎ始めた。
あまりにも急に不審な真似をしたため、反射的に燐子も素に戻って尋ねた。
「おい、何をしている。一騎打ちの途中だぞ」
「悪い、悪い」と大して悪びれもせずに言うと、鍛え上げられた筋肉質な肉体を惜しみなく晒して言った。「これで対等だろ」
それを聞いて、思わず燐子は笑ってしまった。
馬鹿だ、こいつは大馬鹿者だ。
対等に戦って勝つ、それ自体に一体何の意味があろうか。
そう考えながら、その意味を理解できるものが一体どれだけこの世界にいるのかと想像した。
間違いない、この世界にも侍と同様の者はいる。
目の前のこいつがそうだ。形と名前は違えども、本質は同じ存在。
形式や、精神的な充足にこだわり、合理性や実益を度外視した生き方をする生き物。
「おっと、君は脱がなくていいぞ。娘程の女に柔肌を晒させるのは趣味じゃない」
「ぬかせ」減らず口を、と不敵に笑う。
互いが黙った刹那、燐子が駆けだす。
朝日を受けた小太刀を煌めかせ、先ほどとは倍近く早い太刀筋でジルバ―に襲い掛かる。
彼はその重そうな体で機敏に動き、その連撃を難なく躱した。
力もあって、動きも速い。
間違いなく、今までの相手の中で最強の男だ。
父に匹敵、いや凌駕するかもしれない。
だが、だからといって敵わないわけではない。
確かに、父には一度も勝ったことがないが、そこに微塵も忖度がなかったといえば嘘になる。
勝ってはならないことも分かっていた。
突けるのに突かなかった隙もあったのだ。
自分が父に勝てたのか、ずっと気になっていたそれが今、父亡き後でも確認できる。
こんなにも嬉しいことはなかった。
息つく暇も与えない、攻撃を繰り返していれば必ず隙ができるはずだ。
それが例えどんなに狭苦しい隙間であっても、捩じ込んで見せる。
「そんなに、飛ばして大丈夫か!」
挑発するようにジルバーが言うが、その口元には息切れが見られ、決して余裕というわけではないことが透けていた。
こちらの体力が尽きるのが先か、それとも相手が捌ききれなくなるのが先か。
全身の皮膚が焼け付くようにひりつく、最高の一瞬だ。
自分の全てを賭した大勝負。
絶対に、目を逸らしたりはしない、逸らさせはしない。
この目に焼き付ける、そして――。
焼き付けろ…!
目も止まらぬ連撃をひたすらに叩き込む、少しずつジルバーの顔色に焦りが滲み出てくる。
明らかに剣で受ける回数が段々と増えていき、最終的にはほとんどが剣で防ぎ始める。
「この、化け物か、君は…!」
自分の中に蜘蛛の巣のように張り巡らされている神経が、ただ一点のことにのみ向けられているような感覚を覚えている一方で、頭のほうは、一騎討ちに集中している自分の他に、それらを遠くから俯瞰しているような自分の存在も確認できた。
くるくる回る、風車。
この世界にも、風車はあるのだな。
キラキラと朝日を反射して輝く、水面。
本当に、この辺りの水源は澄んでいる。
剣と刀がぶつかる際に時折光る、火花。
バチバチと弾ける、花火みたいだ。
瞬間、確かに見えた気がした。
周囲の風景を切り取って、片っ端から入れ替えているような視界の隅に、この異世界で待つ新しく、刺激に満ち溢れた日々。
思い出じみた印象だったけれど、はっきりと。
きっと、この世界にはまだ色んなものがあって。
もっと、自分を高められる相手がいて。
そうだ、思い出みたいに、光る。
綺麗なもの。
それが何であれ構わない。
戦って勝つこと、美味い飯を食うこと。
新しい剣術に触れること。
感嘆の息が漏れるような風景に出会うこと。
自分より強い者と刃を交えること、過去の自分から解き放たれること。
親友を作ったり、人を好きになったりしても、面白いかもしれない。
あぁ、そうか。
本当はやっぱり、まだしたいことがたくさんあったんだ。
私の人生は、あんな古めかしい城と共に燃え尽きて終わるものだとか、父と共に自刃することで簡単にケリをつけていいものではない、と心のどこかで、誰かに訴えていたのだ。
それを知っていたから、父はあのとき逃げ落ちろと言ったのだ。
親の心子知らず、とはよく言ったものだ。
だから、こちらの世界に来てから、あれこれと理由をつけて腹を切ることから逃げていたのか。
命を懸けて戦う自分も、生きて新しいものに触れたいと願う自分も、どちらも本物だ。
いつ死んでもいいと思いながら生きられる自分は、きっと豊かで、幸せなのだろう。
不意に、自分の体が深く沈んだ。
何が起こったのかと不思議だったが、どうやらその辺に転がっていた死体に躓いたらしい。
もう集中も途切れ、体力も尽きている、そんなことにも気づけなかったのか。
それを好機と、ジルバ―がかすかに下がり、突きの構えをとる。
大丈夫だ、死ぬのなんて怖くはない。
倒れそうになった姿勢のまま小太刀を構え、距離の目測を立てる。
自分の正中線の中央に目掛けて、刺突が飛んでくる。
何だ、ちゃんと殺す気ではないか。
真っすぐ向かってくる剣先にタイミングを合わせて、小太刀を当てる。
スライドする、剣。
だが、考えていた以上に、剣先が逸れない。
それはもう見た、と誰かが言っている気がした。
最初の感覚は、熱い、だった。
まるで誰かが、自分の左肩に火を放ったのではないかと錯覚してしまうほどの、熱量。
それから続いて、痺れ。
ジンジンと、斬られたとき特有の鼓動を打つような痺れが、肩に大きく広がっていた。
斬られたのか、とそのときになってようやく燐子は気が付いた。
そのまま地面に倒れ込む。
立ち上がろうとしても、どうにも体が言うことを聞かない。
――…負けた。
一騎討ちで負けるのは初めてだ。
悔しいなぁ、と短く笑ったつもりだったが、もう声も出なかった。
疲労と、度重なる小さな切創、そしてトドメの一撃。
血を流しすぎたのが、自分でもよく分かるぐらい意識が朦朧としている。
先ほどの攻撃について、次はこう斬り返すとか、こう躱すとか、自分でもおかしいくらい、来るはずもない次のことばかり考えていた。
誰かがそばに立ち、話している声が遠くに聞こえる。
「あちゃぁ、ついムキになっちまった。大丈夫か?」
まるで本当に心配しているみたいだ。
「すまんな、ちょっと怪我させるぐらいのつもりだったんだが、思いのほか熱くなってな」
手加減していたのか、馬鹿にされたものだ。
よくよく見れば、もう息も整っている。
きっと父上もこんな感じだったのだろう。あえて隙を作ったりして、私の成長を促していたのだ。
そんなことも分からず、余計な気を遣っていた私に、父は落胆しただろうか。
「おい、さっさと燐子を治療しろ。大至急だ、死なせたら殺すぞ!」
手遅れだろう、どう考えても。
傷は急に塞がらないし、流れ出た血をすくって流し込むこともできない。
体が少しずつ、少しずつ熱を感じなくなってきて、とうとう寒ささえ感じ始めた。
死ぬ、というのも、存外落ち着くものだ。
それもそうか。
元いた場所に帰る、というだけの話に過ぎないのだから。
自分たちが、生まれる前にいた場所。
暗い、安らかな場所。
そこにはきっと、こんな天使がいて…。
天使?
眼球だけを動かして、自分の前にふわりと舞い降りた天の遣いを見つめた。
あぁ、やはり、この世界は美しい。
いつ死んでもいいとは言ったものの、もう少しだけ、生きていたかった。




