一騎打ち 弐
今の状況も忘れて、ぼうっと魂が抜けたように佇んでいた燐子だったが、男が不意に彼女に声をかけたことで、はっと我に返ったように肩を揺らした。
「どうだ、会ってみたいと思わないか?」
「…どういうことだ」
すると男は、今までの飄々とした口調がまるで嘘だったかのように真面目腐った様子で続けた。
その重々しく低い声音には、一種の威厳を感じざるを得ない。
「帝国軍に入るんだよ、いいか、降るんじゃない、僕たちの仲間になるんだ。君の腕なら誰も文句は言わない。安心しろ、君が斬ったのはどうせチンピラと変わりない、辺境警備隊の、恥知らずな連中さ、野盗みたいなのが死んでも、誰も困らない」
男の言っている言葉の意味は分かるものの、それを現実として受け止めるのに多少の時間がかかりそうで、何とか燐子は皮肉を呟いて冷静になろうと努めた。
「恥知らずな連中の頭領がよく言う」
「あ?いやいや、違うよ。僕は別件で、たまたま彼らの指揮を務めているだけ。本当の部隊長は君がもう殺しちゃったからね」
正直、そんなことは言われなくとも分かっていた。
どう考えても、彼らとこの男の間には越えようもない壁がある。
「村の安全も保障する、もちろん村人の命と尊厳もだ。悪い話じゃないだろう」
確かに、破格の条件だ。
それが真実ならば。
「ふざけるな、貴様らが約束を守る保障などないだろう」
「おいおい、それならお前と話す必要はないだろう。略奪がしたいなら、こんな死にかけの小娘なんざ相手にせず、さっさと殺して突破すると思わないか」
「…それもそうか」
燐子が俯きがちになって漏らす。
「そうだろ、さ、村の連中に話を通してくれ」
そう言うと男は立ち上がり、燐子の肩に手を乗せた。
気安い真似だったが、先ほどから奇妙な親近感をさらけ出して語りかけて来る男に、自然と燐子は好意的なものを抱いていた。
この男は、私に近しいものを持っている。
真の私に近しいものだ。
名誉、誇り、仲間。どれも大事だ。
しかし、それ以上に大事なものに、私は気づいてしまった。
強くなりたいという純粋で、狂信的なまでの意志。
自分の力をぶつけるに足る相手や、状況を欲する意思。
しがらみから逃れ、自由に生きたいという想い。
燐子は、ゆっくりと瞬きをした。
三回ほど、世界と自分を隔てる幕が上下した後、深く息を吸い込む。
「確かに、会ってみたい」
その言葉に、男が嬉しそうに何度か頷く。
しかし、次に燐子が言い放った言葉を聞いてから、潮が引くようにゆっくりと確実に目の色を変えた。
「だが、それは貴様を斬ってからそうさせてもらう」
じぃっと、男は瞬き一つせずこちらを見据える。
風が強く吹き、とうとう最後の燃えかすのような炎を消し去った。
それによって、火の明かりが無くても周囲が十分明るくなり始めていることに気が付く。
夜明けが近いのだ。
もしかすれば、もう少し会話を引き延ばせば、騎士団の救援が間に合うかもしれない。
しかし、それでは困ることが一つだけあるのだ。
ふうっ、と男がため息を吐いて肩を竦め、やれやれとでも言いたいふうに、両手を天に向けて持ち上げた。
それからくるりと背を向けると、口調だけは軽々とした重みの無い調子で言った。
「よぉく考えろよ、お前の選択は、救える命全部を溝に流し込むようなつまらない選択だ。お前の下らない意地と、本来守るべき命と村、きちんと天秤に掛けるんだ」
ここまで言う以上、きっとこの提案には何の裏もないのだろう。
実際男の言う通り、騙すくらいなら、初めから力で征服したほうが手っ取り早かったはずだ。
「下らない、か」
男の背中に呟きかける。心なしか、初めよりその体躯が大きく見えた。
「本当にそう思うか」
くるりと、男が振り向く。
その顔つきには、先ほどまでの気安さはない。
最早、鋼鉄の仮面だ。
「ここで私が『はい、そうですか』と従って、貴様はそれでいいのか」
「どういう意味だい」
その問いに答えずに、燐子は淡々と付け足した。
「私には分かる。良くないはずだ」
太刀を引き抜く。
死の間合いには、まだ半歩ほど遠い。
体力は随分と回復した。万全の状態とは言い難いが、それでも退屈させない自信はある。
男は少し顎を持ち上げ、自分を見下ろすような姿勢になって、燐子の話を興味深そうに聞いていた。
「強い者と戦う、その機会を、貴様も喉から手が出るほどに待ち望んでいる」
その言葉は、まるで自分に向けて言っているように思えた。
生まれ変わった自分への、誕生を祝福する祈りの言葉だ。
「下らない意地で命を捨てられる私と、刃を交えずに終わっていいと思っているはずがない」
男は燐子の言葉を黙って聞いていたかと思うと、唐突に破顔し、大きな笑い声を上げた。
低く、獣の唸り声のような笑い方だが、どことなく気品がある豪胆さだった。
「ますます気に入った。どうしてもお前を、僕の隊に入れたくなったよ」
男はそう告げると、一度だけ後ろを振り返り、他の者たちに絶対に手出ししないように伝えて、腰の剣を抜いた。
「お前、名前は?」
「知ってどうする」
「お前たちの国のしきたりじゃ、一騎討ちのときは、名を名乗るものなんだろう?」
なるほど、その流れ人とやらに聞いたのか。
頷き、名前を口にする。
「燐子だ」
男は、燐子か、と興味深そうに呟くと、思い出したように自らの名前を唱えた。
「帝国軍特師団所属、ジルバーだ。腕の一本ぐらい無くてもお前は強いだろう、そうしてから国に持ち帰らせていただく」
「やってみろ…。首を置いていく覚悟があるならな」
冗談のつもりはなかったのだが、彼はそれを耳にすると小さく気の抜けたように笑った。




