黎明は遥か遠く 弐
ミルフィは、自分がここで引き下がっては駄目だと強く感じて、決然と立ち上がった。
それから、燐子の肩を強く掴んで後方に押しのける。
「問題大有りでしょうが、馬鹿。アンタの腕一つに、みんなの命がかかってるのよ」
素早く矢を番え、ろくに狙いをつけないまま、目の前の兵士に一射放つ。
不意を打つ形で放たれた矢は、思いのほか綺麗な直線を描いて、相手の体に突き刺さった。
それを驚いた顔つきで見ていた燐子は、次第に普段の彼女らしい顔つきに戻って、「こんな技も持っているのか」と尋ねた。
「ええ、驚いた?早撃ちだって得意なのよ」
本当は嘘である。獣相手に近距離の早撃ちなど試すわけもない。
しかし今は、少しでも燐子の体力を回復させるために、ハッタリでも何でもかまして時間を稼ぎ、敵兵の動きを鈍らせておく必要がある。
少し前のほうで燃え盛る炎が、徐々に弱まっていくのを見て、ミルフィはこのままでは不味いと唇を噛んだ。
正面から全軍で当たられては、兵力に劣るこちらは直ぐに圧殺されてしまうだろう。
つい先程まで、獣じみた形相を四方に向けていた燐子だったが、ようやく落ち着きを取り戻したようで、一度両手の太刀を振り払うと、その鞘にゆっくりと納めた。
それから静かな足取りで弓矢を構えた自分の元へと近寄ってくると、小さな声で謝罪を告げた。
未だに周囲には、こちらへ襲いかかろうと様子を窺っている兵士が、十人近くいるものの、ミルフィの精緻な射撃への警戒と、それを阻止しようとすれば、自然と間合いに入らなければならない燐子の剣術を恐れて、硬直状態が続いていた。
風の向きが変わり、煙が瞬く間にその場にいた全員の姿を覆い隠した瞬間、ミルフィが最初に動き出した。
構えていた矢を放ち、鋭い音が響いて相手に当たったことを察すると、聴覚を研ぎ澄まして、人の気配が感じられるほうへ続いて矢を連射した。
同時に誰かの呻き声が響き、またもや命中したことを確信する。
森で燐子は不思議に思っていたようだが、自分は夜目も多少は効くが、それよりも耳が良い。だから、視界が悪くても相手の動きを予測することができるのだ。
逆に音を立てないタイプの、例えばあの大トカゲのような相手には先手を取られてしまうが、そうでないなら、まず確実に先制攻撃を仕掛けられる。
「燐子、右!」
先程から全く動かないまま静止している燐子に伝える。
すると彼女は一切何の迷いもなく、左手で太刀を抜刀し、その鎧ごと相手の胴体を斬りつけた。
「次、後ろ!」
ミルフィの声に反射するように体の向きを回転させて、逆袈裟に大振りで太刀を一閃させる。
その風圧で煙が流れ、こちらに向かってきていた二人の兵士の姿がはっきりと目視できた。
見える敵は、燐子に優先的に任せる。
そう判断したミルフィはやや距離のある気配に向けて、音を頼りに狙いを澄まし、勢いよく矢を放つ。直撃だ。
普通なら、敵味方入り乱れての乱戦になってしまうはずの煙が、逆に自分たちに幸運を運んできている。
自身の耳の良さがこんなところで役に立つなんて、ミルフィは夢にも思っていなかった。
煙に向かって飛び込むように太刀を振るう燐子の死角に弓を構えて、放つ、といった同じ作業を繰り返す。
見えないのだから避けようも、防ぎようもない彼らは、ミルフィにとっては止まっている的に等しかった。
燐子が二人片付けたのが分かり、今度は自分の目の前に迫っている音の主に神経を集中させる。
しかし、想像していたよりもずっと近くにいたらしく、男の振り回した両刃の刃先が飛び退いた自分の衣類を表面だけ切り裂いた。
それにゾッとして慌てすぎたため、構えていた弓を落としてしまう。
「くっ…!」
「貴様、よくも!」と激情に身を任せた兵士がもう一薙ぎ、剣を横に奮ったが何とか腰から抜いたナイフで身を守り、もう一度後退する。
だが歩幅の違う相手では、踏み込みと飛び退きの距離にも差がついてしまい、あっという間に懐に飛び込まれてしまった。
こんな狩猟用のナイフでは、あの両刃剣を受け止めることは絶対に不可能だ。
エミリオの泣き顔が走馬灯のように浮かぶ。
まだ、死ねない。
体勢をさらに低くして、ほとんど倒れ込むような形でその一撃を躱すが、トドメの一撃で男が両手で高々と剣を掲げた。
「あ…」
これは避けられない。
その瞬間、彼女と男の間にさっと人影が割り込む。
振り下ろされた一撃を斜めに構えた太刀でいなし、さっと横に動くと、男の下がった首を狙って太刀を振り下ろし、両断した。
男に背を向けた姿勢でそのまま血振るいし、眼前に鞘と太刀を構えて納刀する。
物語のワンシーンみたいだと思った。
「無事か」と燐子がすました顔で言う。
本当に、ムカつくくらい整った顔立ちだ。
「無事よ」
燐子が強がる自分に手を伸ばしてきたので、躊躇なく握り返して立ち上がる。
示し合わせたかのように、強くもう一度風が吹き、辺りの煙を霧散させた。
キラキラと輝く星空が見える。
今になって思えば、この村から見えるものなんて、水と、古い建築様式の住居と、森と、この星空ぐらいしかない気がする。
緻密に並べ立てたような、ほとんどいつもと変わらない星々は変化を遠ざけているようだ。
何も変わらないままのほうがいい、自分はそう思っていた。
そうすれば、これ以上誰もいなくならない。
エミリオも祖父も、村の知人たちも。
そんな毎日の中、突然空から星が落ちてきたみたいに、彼女が現れた。
私の周りをズタズタにかき乱したその星は、夜の濃い闇よりも黒い星だった。
それなのに、その輝きはどんな恒星よりも強く、激しく、見上げるしか能のない私の瞳に眩しく刺さった。
その刺激性の高い光に、一時は顔を背けたけれど、やはり暗闇で光を放つものは人を魅了するもので、私もそれから逃れることはできなかったようだ。
「燐子」とその星の名前を呼ぶ。
彼女は不思議そうに首を傾げ、少し高い位置から私を見下ろした。




