赤く照る、夜の帳 参
「燐子さん!またたくさん下りて来るよ!」
「ようやくか、遅いくらいだ…!」
空元気ではあるが、言葉のほうは本音であった。
どうやら相手の指揮官は慎重なタイプのようだ。
まだ何か策があるのかもしれないと勘ぐっているのだろう。
体力的にはありがたい反面、小娘一人相手でも冷静に戦を進める手法には、少しばかり嫌な狡猾さを感じる。
一気に突撃して、何らかの策で全滅するわずかなリスクよりも、石橋を叩きながら、確実に、ゆるやかに相手を磨り潰すほうを選んだというわけだ。
「もうっ!夜明けに来るんじゃなかったの?」
「そうそう、予想通りいくまい」
「じゃあ、何のために準備したのよ!騎士団が間に合わなかったらどうするの?」
「そんなもの、知るか!」次に備えて、血と脂を拭き取る。
「準備や予想が全て思い通りに行くなら、私も今頃は土の下だ!」
「ああそう!アンタって、そういう奴よね!」
「喧嘩してる場合じゃないよ!」エミリオが怒鳴る。怒った時の声はミルフィにそっくりだ。
エミリオの忠告通り、火の弱まった部分と、その右手から再び兵士がなだれ込んできた。
挟み撃ちされるのも辛いが、こうして真正面からぶつかられるのも辛い。
自分がしたいのは、反応速度に頼った電撃戦だ。
こうも距離があると、向こうにも心の準備ができてしまう。
不意を突きたいわけではないが、多対一の戦いではこれが一番避けたかった。
だが、今出来ることは良くも悪くも突貫しかない。
自分には、これしかないのだ。
幸い援護射撃によって、先頭に続いていた数人の足並みが乱れた。
三人同時に斬りかかって来られなければ、何とかなるはずだ。
万全の体勢でぶつかってくる兵士の縦振りを避け、返す刃で胴を左から右へと薙ぐ。しかし、初段を剣の腹で防がれ、その衝撃で体が後ろに押し戻される。
不味い、とゆったり流れる時の中で燐子が考えていると、後方から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
もう一度攻撃を、いや、それでは間に合わない。
一旦下がるか、馬鹿な、それも無理だ。
不意に、燃え盛る炎が落城の日を思い出させ、左手の甲に焼き付いた火傷を疼かせる。
全てが終わると信じ込んでいた、あの日の煙が目に染みた。
死ぬ、そうか。
死ぬかもしれない。
眼前の男が、剣を横に構え直すその背後に、矢傷を受けた男たち二人が見える。
その後方からだって、何十人といった数の敵兵が迫っているのだ。
誰かが、笑うように息を漏らした。
炎を反射しているのか、火傷の痕が、灼熱を帯びて輝きを放っている。
それを、不自然なほど冷静な自分が遠くから観察していた。
歪んだ喜びに満ちたその薄笑いが自分のものだと察したとき、燐子の右手が腰に佩いた小太刀に伸びた。
それは決して、自分で意図して起こした行動ではなかった。
ただ単に、燐子の中の生命としての本能が、迫りくる死に反撃して起こした、いわば獣同然の反射的行為であったのだ。
自分の胴体目掛けて振り抜かれた一撃を、小太刀の抜刀に合わせて受け流す。
驚愕に目を見開いた男の、頭蓋骨のど真ん中に、逆手に持ったままの小太刀で風穴を空ける。
続いて後方から同時に斬りかかってきた二人の刃を、左手の太刀と、右手の小太刀で逸らし、受けたほうとは逆の手で喉元を切り裂く。
生きている…。
ぞっとするほど、私は生きているのだ。
一つしかない命を、擦り減らすようにしてこの場所で生きている。
ずっとそうしてきた。
私にとって本当の『生』とは、誇りや誉れなどとは遠く離れた場所にあったのだ。
気づいてしまった、違う、気づいていた。
父の口にする言葉が、侍にはなれない娘への優しさと慈悲、そして残酷に満ちた詭弁だということに。
もう、誤魔化しはいらない。
憎悪や怒りで戦うのが獣?
誇りや信念のために戦うのが戦士?
私は、そのどちらでもない。否、本当はそんなものどうでもいい。
戦うために戦っている。
正確には、戦いの中で、自分を感じるために戦っている。
女だからといった理由で、夢を黙殺された自分が求めた最後の居場所。
強くなるため、ただ、強く。
そうすれば、侍には成れずとも、何かには成れた。
村を守るため、人を守るため、この美しい景色を守るため。それも確かに嘘ではない。
だがそれ以上に、そうすることで自分が満たされていくのを既に知っていたのだ。
だから、命懸けだろうが何だろうが、無謀な戦いの矢面に立てた。
そうだ…。
もう、誤魔化しはいらない。
自分の中の本当の衝動を受け入れた時、今度は見間違いなどではなく、確かに左手の火傷の痕が燦々と輝いた。
不可思議な力が脳の皺の一筋、一筋に行き渡っていくようだ。
強く、両手の太刀を握りしめる。
ああ、そうだ。
私は今日、初めて望む私になれるのだ。




