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竜星の流れ人  作者: null
一部 一章 侍になれなかった女
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一刀両断 参

 少年の無邪気な大声が薄闇を突き抜け天に響いたことで、どこにいたのか沢山の鳥たちが一斉に飛び去り、一瞬だけ月の光を遮った。


 少年が質問に質問で返したことにも強い苛立ちを感じたが、それ以上に、どこに先程のような危険が潜んでいるとも分からないこの森の中で、不用意に大声を上げたことが腹立たしかった。


 そのため、燐子が、「静かにしろ」と吐き捨てた言葉には明らかな怒りが込められていた。


 厳しく命じられた彼は、多少申し訳無さそうに頭を掻きながら謝罪を口にしたのだが、直ぐに明るい表情に戻ると、「とにかく僕たちの村においでよ!」とこちらの話を聞いていなかったかのような声の大きさで提案した。


「近くに村があるのか?」


「うん、そんなに立派な村じゃないけど」


 どうやらここで子ども相手に質問を繰り返していても、埒が明かないようだ。


 村となれば大人もいよう。ならばそいつらに全てを問い質すのが一番手っ取り早い。


 そう結論づけた彼女は、少年に向けて小さく頷くと、早く案内するように素っ気なく告げた。


 だが少年はそれに応じず、燐子が屠った獣の方へと近づくと、恐る恐るといった様子でその死体に触れた。


 もう死後の痙攣も止まり、今やただの骸に成り果てた獣相手へ、しきりに何か呟いている。


「おい、何をしている」と尋ねるが、これに関しても彼は聞こえていないのかまともに返事をしない。


 痺れを切らした彼女が直ぐ側まで近づき声をかけようとすると、まるでそれに反応したかのように勢いよく体を捻って燐子に向け、相変わらず必要以上の声量で声を発した。


「お姉さん、これ村まで持って帰りたいんだけど」


 燐子はそれを聞いて、驚きを隠せない調子で「これとは、この獣のことか?」と彼につられるように大きな声を出した。


 先程は犬だなどと口にしたが、実際は犬の二倍以上の大きさがある。そうそう容易く運ぶことは難しいサイズだ。

 引きずるには道具も無いし、担ぐとなれば人手が足りない。


 彼女は困ったような、あるいは怒ったような顔つきのままで首を左右にゆっくりと振る。


「無理を言うな。だいたい、どうやって運ぶつもりだ」


「それなら大丈夫」と少年は明るく口にすると、いそいそと腰に巻いていた麻縄のようなものを取り外し、獣の体に巻き付け固定し始めた。


 おい、と口にしかけたが、少年の手際があまりにも良かったため思わず無言のまま観察してしまう。


 瞬く間に獣の体は、真っ直ぐ正面に垂れた縄を引けば効率よく運搬できるソリのようなものに変貌していた。


 幼い子どもなのに見事なものだ。きっと日頃からこうした作業を手伝っているのだろう、と燐子は口元をかすかに綻ばせて考えた。


 真面目でストイックな彼女は、同じように勤勉そうな人間を見るとついつい応援したくなってしまう性分で、努力するという行為に、並々ならぬ美徳を感じてしまう人間だった。


 そんな彼女だったからこそ、少年が何か頼みを口にする前に、輪になった縄の先端を握ったのだ。


 燐子は不機嫌そうな顔つきで「行くぞ」と小さく呟いたが、それが照れ隠しなのは、人生経験の浅い少年から見ても明らかであった。


 少年は心の底から嬉しそうな返事をして、獣の体を引きずろうとする彼女の先に立って道案内を始めた。


「ありがとう、僕の力じゃ絶対最後まで運べないからさ!」


「ならばそれができるように鍛えておけ」


 冷たく言い放つ彼女の言葉に、少年はこれまた快く返事をすると時折振り返りながら燐子に事の経緯を話し出した。


 食糧難に陥っている村のためにキノコや野草、木の実を集めに森に入ったものの、小さな獣を見つけてしまい、それを追いかけているうちに森の奥へ迷い込んでしまったこと。


 何とか知っている道に出た頃には日が沈みきってしまい、そうこうしている間に件の獣に襲われてしまったこと。今燐子が引きずっている獣の肉は美味であること。


 少年が口にする名詞のほとんどが自分の知らない言葉ばかりであったが、きっと日の本の言葉に置き換える術を知らず、そうした箇所は母国の単語で補っているのであろうと予測した。


 すると、少年は足を止め、燐子が追いつくのを待ってから、「命の恩人なのに、まだ名前を名乗っていなかったね」と微笑んだ。


 確かにいつまでも、お前、とかお姉さん、ではあまりにも不便ではあるし、正直お姉さんと呼ばれるのは些かむず痒い。


 不意に、ばさりと音を立てて茂みの中から黒い生き物が飛び出てきた。


 木の影に入ってじっとこちらを見つめるその姿は、今まで見たことのない生き物だったが、翼のようなものが生えているようにも見えた。


 鳥なのか、と目を凝らすと少年が「何だろ、変な生き物」と声を上げた拍子に森の中に消えていった。


 訝しんだ表情で首を傾けた少年は、気を取り直したように自己紹介を始める。


「僕はエミリオ」


 燐子は一度口の中で、エミリオ、と呟く。それから、ここで黙っていては武士の名折れであると眉に力を入れて、凛とした声で名前を名乗った。


「私は燐子だ」


「リンコ?変な名前だね」


「何だと?」


「やだなぁ、怒らないでよ。でもそっちの方が流れ人っぽくて良いと思うよ」


「またそれか、何なのだ、その『流れ人』というのは」


「んー、それはお祖父ちゃんの方が詳しいと思うんだけど・・・」


 煮え切らない返しをするエミリオに冷たい口調で答えを催促するが、結局彼はまともに語らなかった。


 異国の人間だとでも言いたげな説明だったが、そんなはずはない。

 ここが地獄でなければ日の本のどこかであるはずだ。異邦人はエミリオのほうなのだから。

 他愛もない話を繰り返すエミリオに適当な相槌を打ちながら燐子は足を進めていた。

 彼が指差した丘を越えた先に、ようやくエミリオの住んでいる村があるらしい。


 さすがにこの巨体を引きずりながら森を抜けるのは中々骨の折る作業で、彼女はかすかな疲労感を滲ませた表情で斜面を黙々と上がっていた。


 東の空が次第に明るくなってきた。


 こうして歩き始めてしばらく経っているが、周囲はほとんどの間、名も知らぬ木々に囲まれており、燐子は少なからず気が滅入っていた。


 だが、森を抜けて丘の上に登り切った辺りで、彼女の頭の中からそんな些事は消え去ってしまった。


 小高い丘から見下ろすことのできる広大な平野に、幾筋にも分かれた細い川が蜘蛛の巣のように張り巡らされていて、それらの全てが東の空から顔を出した太陽に照らされ朝露の玉の如く輝いていた。


 その間に浮島のようにぽつんと立てられた集落が見える。


 小規模だが、あちらこちらに水田が敷かれていて、そこには始めて見知った植物が植えられていた。稲である。


 そして精の出る農民が、日が昇る前から働いているのはどこでも同じらしかった。


 天が近く、雲や霧も近いこの場所から見える景色に、燐子の頭は『異国』という文字を思い浮かべずにはいられなかった。


 このように美しい地が、自分の国にあったとは、と彼女は心打つ光景に魅入ったまましばらくの間じっとしていた。それは、エミリオが全く動かない燐子を不審がって引き返してくるまで続いていた。


「燐子、もうすぐそこだけど、休憩する?」


 疲れ切って動けないのだと勘違いしたエミリオは、彼女を思いやり柔和な顔つきで声をかけていたのだが、我に返った燐子は彼の顔を一瞥すると静かに首を振った。


 彼女は「エミリオ」と、今までとは異なりとても優しい口調で彼の名を呼んだ。


 初めて口にした異人の名は、不思議な風と共にあった。


 見知らぬ土地に、見知らぬ獣、自分を取り囲む草木すらも随分と他人行儀なまま数刻が経っている。しかも自分の隣には異人の少年ときた。


 暁に染まる空だけが何も変わっていないことにひどく落ち着きを覚える。


「美しい場所だな」


 相手を疑う心をすっかり奪い去る無邪気な笑みが、その言葉を聞いてまた爛々と光を放った。


「でしょ、燐子もそう思ってくれるのは、何だか嬉しいな」


 ここが仮に死者の国だとしたら、僧の語るあの世も、あるいは古から語り継がれてきた伝承も、随分と派手に嘘を吐いていたものだ。


 もう五分、十分も歩けば辿り着けそうな集落のあちこちから、朝の煙が上がっているのを見て、燃え尽きる城を思い出した。


 自分はあの場所で死んだのだろうか、それとも未だに炎に包まれて、夢か幻の中なのか…。それにしても精巧過ぎる作りをしている。


「エミリオ」と次はきちんと彼に視線を向けて名を呼ぶ。


「どうしたの?」


 故郷のことを聞かれるとでも思っていたのか、相変わらず人好きのする笑みを浮かべたままで彼はこちらを見上げた。


「私の名を呼び捨てにするな」


 燐子の無愛想な言葉に、彼が苦笑を浮かべて返事をしてから、二人は丘を下り始めるのだった。

 



読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!


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