一握りの安寧 弐
これまた妙な風習だ、と燐子は感心したように頷く。
女性が髪を結わせただけで求婚の受け入れになるとは…。ロマンチックというか、馬鹿らしいというか…。
自分の元居た場所では、女性が女性の髪を整えるなど、日常的な風景であったというのに。
しかし、郷に入りては郷に従えだ。
知らなかったとはいえ、自分の行動が軽率であったために、ミルフィに恥をかかせたのであれば、形だけでも謝罪が必要だろう。
こう見えても嫁入り前の生娘だ。そういう恥で苦しめるのはこちらとしても心苦しい。
まだギャーギャーうるさいミルフィのほうを向き直る。怒りで顔が茹でられたように真っ赤だ。
それでも、顔以上に赤い彼女の髪がやはり目を引いた。
一先ず謝罪をしようと口を開きかけたが、不意に引っかかることがあって、口を閉ざす。
こいつ、先ほどから被害者意識全開だが、確か、昨晩私の髪を自分の髪留めで結わなかったか?
記憶の底をさらう必要もなく、そのときの情景がまざまざと思い起こされる。
疑いようもない事実であったことを確信すると、今度は段々とミルフィの態度に腹が立ってきた。
好き放題言っているが、そもそも彼女が先にした行為ではないか。
「これだから流れ人は嫌なのよ、ほんと、常識ってのがなってないんだから」
そう考え始めたら、いよいよ一言言ってやらなくては気が済まないという気持ちになり、執拗にこちらのせいにするミルフィを睨みつけた。
「おい、黙って聞いていれば、随分と好き勝手に言うな。そもそも、昨日お前が自分の髪飾りで私の髪を結ったのだろう」
彼女はその事実に今更思い至ったのか、口をぽかんと開けてこちらを見ていたのだが、直ぐに挙動不審に瞳を右往左往させると、燐子の上から立ち上がった。
何か都合のいい言い訳を探しているのか、ミルフィは繰り返し瞬きをして、口を開いたり、閉じたりしていたが、結局、諦めて無言を貫いた。
どうやら謝罪する余裕もないらしいが、だからといって、はいそうですか、では済まされない。
耳まで真っ赤に染まった彼女の顔を、下から見上げる。
星の瞬く夜空を背景に、純な少女を描き出したようなミルフィの姿が、弾けた花火のように印象的だ。
そんな彼女に向けて、エミリオが燐子の言葉を代弁するかのように告げた。
「お姉ちゃん…さすがに謝ったほうがいいよ。控えめに言っても、正直最低だよ」
「う、うるさい」
いつも正論で叱っている弟に、正論で返されてしまったのが余程悔しいのか、反論するも、目が潤んでいる。
しかし、ドリトンがいよいよ真剣な調子でミルフィを責めたので、萎れ始めた花のように小さくなって、燐子を一瞥した。
「何よ…完全に私が悪者じゃない」
「ミルフィ」今まで聞いたこともない厳しい声音で、ドリトンが名を呼ぶ。「分かった、分かったから」
「ご、ごめんなさい」
分かればいいのだが、と喉まで出かかったが、まだその目に反抗的な光が灯っているのに気が付いた燐子は、一つこれ見よがしにため息を吐いた。
「まあ、それだけ強気なほうが、戦いに向いているか」
皮肉じみた言葉のせいで眉間に皺を寄せつつも、黙って聞いているミルフィへ、さらに燐子が続ける。
「分かっているとは思うが、別にお前に求婚したわけではない」
「馬鹿!そんなことは言われなくとも、分かってるわよ!」
やはり反省の色などないようだ。
大げさに肩を落とすドリトンと、大笑いしているエミリオを一瞥して、軽く首を振った。
申し訳なさそうに頭を下げるドリトンに、良いのだと一言告げる。
ふと、鳥の嘶きが聞こえた気がして、燐子は遠くの空を見据えて、それから口元を緩めた。
風が、吹いている。
世界共通で駆け抜けるらしいこの一陣の風に対して、自分の心は冷めきったように凪いでいた。
燐子はゆっくりと瞳を閉ざしながら、漠然と考えていた。
やはり私は、生まれついての戦人なのかもしれない。
この予感を外したことはない。
私の細胞が、戦火の予兆を感じて眠りから覚めるようにできているように。
全身の細胞が沸騰しないでいられていることが、不思議でならないほどに体が熱くなっていく。
「もう、こんなの返すわよ!ほら!」
最後になるかもしれない会話がこれは嫌だな、と多少感傷的になり、燐子は静かな声で言った。
「いいから持っていろ」
「だから、いらないって!」
「全てが終わったとき、改めて返してくれ」そう言って、梯子を使わずに高台から飛び降りる。「汚すなよ」
何の前触れもなく行われた危険行為に、一同が揃って声を上げた。
それから下に身を躍らせた燐子が無事なのか、みんなで体を乗り出して覗き込んだのだが、燐子は飄々とした動きで立ち上がり、遠く丘の上を見ていた。
それにつられるようにして、みんながその視線の先を追った。
丘の上に、数本の旗印が見える。
旗には十字架が描き出されており、その中に黒い星が輝いている。
あれが帝国の旗印か。
洗練された美しいデザインを意識したのだろうが、どこか禍々しいモノに見える。
一頭の馬が、斜面を流星のように駆け下りてくる。
丘の上に群れを成す、黒々と、人の形をした影から必死で逃げてくるようだ。
東の夜空を振り返る。
夜明けは、まだ遥か彼方だ。




