一握りの安寧 壱
ばちばちと弾ける篝火の音が、作業を一段落終えた者たちの間に流れて、その疲弊した愚痴をかき消していた。
あまり愚痴のようなものは好きではない燐子であったが、今回ばかりは仕方がないだろうと判断し、労いの言葉をかけながら村の出口まで進んでいく。
見事なものだ、と数日前まではただ門構えがあっただけの場所を見上げ、感嘆の声を漏らした。
川が両側に流れている隙間に作られたこの門は、最早城門、と表現してもいいほどに堅牢なものと化しており、木材でできていることさえ除けば上出来であった。
もちろん両側の川を抜けられれば意味はないが、そうさせないための策も考えてある。
川岸に近づいてみると、確かにそれなりの深さがあり、とても馬や鎧を着た状態で泳いで渡るには厳しすぎることが分かる。
例え泳いで渡ったとしても、防護柵で隔てているので、そう簡単に浅瀬のほうへは出られない。
さらには、門の先、丘から下ってくる道中に簡易的な木の柵を作っていて、鋭利な先端を丘の方へ向かって突き出すように設置している。
別にそれで相手を仕留めることが目的ではなく、相手の侵攻を遅らせ、なおかつ通る道を狭く、一点に絞ることが目的なのだ。
これだけしていれば、そうそう安々とは通過できまい。
もしかすると、丘の上からこちらの設備を見ただけで、一度仕切り直す可能性もある。
慎重な相手なら決してありえない話ではないだろう。
後は帝国の侵攻と、騎士団到着までの時間差に全てがかかっている。
騎士団が先に到着すれば、こちらは一切何もせずに済むだろうし、逆に向こうが先に到着しても、時間次第では耐えきることもできるだろう。
まあ余程の手練がいればそれも叶わないが、昨日の帝国兵を見た限り、大した練度ではあるまい。
ただ、随分と到着時間に差ができてしまったそのときは…。
天のみぞ知る、というやつだ。
明日の夜明けのことを考えて、ぞわりとした感覚を背筋に感じてしまう。
当然恐怖ではない。
武者震いというものは、どんな戦いの前にも起こるもののようだ。
次に日が昇る頃には、戦地のど真ん中にいるかもしれないのだから、戦いの中で生きる人間の人生とは予測が難しく、面白い。
「燐子」
物思いに耽っていた燐子の頭上から、自分の名前を呼ぶ声が響いてくる。
聞き覚えのあるその声の先には、燐子が想像していたとおりの顔があった。
「ミルフィか」
梯子を使って城門の高台に上がり、そこで丘の上を監視していたらしいミルフィとドリトン、それからエミリオに声をかける。
ミルフィは普段とは違って、矢筒を複数腰に括り付けていた。その他にもベルトに、何本かナイフらしきものを差している。
どうやら戦いのための装備のようだ。
すると、ミルフィが明らかに正気を疑った様子で「まさか、今まで寝てたんじゃないでしょうねぇ?」と尋ねた。
まさかも何もそのとおりだが、一体何の問題があるのか燐子には分からなかった。
そう素直に返した自分に、その場に居たエミリオ以外の全ての人間が苦笑いを浮かべた。ミルフィに至っては眉間に皺を寄せて小言を呟いている。
「さすが燐子さん、肝っ玉が大きいね!」
「変な言葉を知っているな、エミリオ」と得意げなエミリオを見やる。
「こいつは度胸があるとかじゃなくて、ただネジが飛んでるのよ、二、三本ね。そうじゃなかったら、普通いつ攻めてくるかも分からないのに、こんなに爆睡できないわよ」
まあまあ、とドリトンが苛立たしそうなミルフィをなだめるが、彼女の文句は留まることを知らないようで、エミリオが加わってようやく静かになった。
しかし、何だか二人のなだめ方が、自分が能天気だと言われているような感じだったので、自分の面子を保つためにも、一言告げておく必要があると燐子は思った。
「案ずるな、私は戦に寝過ごしたことはない。自慢ではないが、戦いに対する嗅覚は人並み外れている」
「本当に自慢にならないわね…」
高台の上から丘のほうを見つめると、遠く草木が揺れていることだけが分かった。
まだ帝国の気配はない。
するとミルフィは、思い出した、というふうな口調でポケットに手を突っ込んで、固く握りしめたまま拳を燐子の前に突き出した。
まさか、また何か怒らせたのだろうか。
というよりも、基本的にいつも彼女が勝手に怒っているだけなのだが。
燐子がずっとその拳を見つめていると、さっさと手を出すように言われ、何かを渡そうとしているのかと合点がいった。
ぽんと自分の掌に落ちたのは、昨日千切れた髪留めの紐だった。
千切れていた部分は、似たような緑色の糸で結び直されており、前の物と見劣りしないどころか、かえって上質な髪留めに仕上がっていた。
「もう完成したのか、早いな」と燐子が感心したように唸ると、ミルフィは何でもない様子で「別に普通よ」と答えた。
軽くお礼を告げて、早速直してもらった紐で結び直そうと後頭部に手を伸ばしたのだが、はたと思いつき手を止めた。
「ミルフィ」
「ん、何?お礼ならいいわよ」
「少し後ろを向いてくれ」
燐子がそう言うと、ミルフィは訝しんだ様子を見せながらも、大人しく背中を向けた。
この辺りか、とミルフィの濃い赤の三編みを優しく掴むと、彼女は燐子が何をしようとしているのか分かったらしく、大きな声を出して身をよじって逃れようとした。
しかし、暴れられると面倒だと考え、その肩を手前に引き寄せ、抱きかかえる恰好になって、さらに、余った片手で作業を進めた。
「ちょ、ちょっと!待って、待ってってば!」
「そんな大声を出すな、直ぐ終わる」
なおも意味不明な言葉を喚き散らすミルフィを無視して、あまり必要とも思えない髪の毛先を改めて結び直した。
よし、出来上がりだ。まぁまぁの手際だったのではないだろうか。
いや、凄まじく簡単な作業ではあるのだから、当たり前ではあるのだが。
「ち、違う、違うってば!本当にそういうんじゃなくて!」
必死で何かを否定し始めたミルフィを、今度は燐子が正気を疑うように見つめる。
どうやら彼女は自分ではなく、二人の目の前にいるドリトン等に対して、意思表示をしているようだった。
一体何をそんなに必死になっているのか…。
状況が飲み込めない燐子は横に一歩移動して、何とも言えない顔をしているドリトンに視線を送った。
しかし、彼は表情を変えずに目を逸しただけで、何も答えはしなかった。
そんな中、エミリオだけがニヤニヤと笑っている。
「へぇ、燐子さんとお姉ちゃんってば、そういう感じなんだぁ」
「何だ、そういう感じとは」まるで分からない。「もう少し、私にも分かるように話せ」
エミリオを叱るような口調で咎めた燐子だったが、突然、隣で体を硬直させていたミルフィが大声を上げたことで、燐子は目を丸くした。
「アンタのせいよ!アンタ、よくもこんな、こんなこと!」
わけも分からぬうちに激昂を始めたミルフィに、一歩後ずさりした燐子は、その理由を問いかけたのだが、顔を真赤にした彼女には馬耳東風であった。
髪を振り乱し、目くじらを立てたミルフィは、昨晩見た母のような慈愛に満ちた女ではなかった。
掴みかかってきたミルフィの手を受け止めるが、やはり、彼女の馬鹿力には叶わず押し倒される。
「おい、戦いの前に燐子さんが怪我したらどうするんだ」
ドリトンが慌ててミルフィを制止したことで、ようやく彼女は動きを止めた。
酷く息の荒いミルフィは、動きこそ止めたものの、その両手の力とこちらを睨みつける瞳の力は一向に緩める気配はなかった。
「おい、いい加減私にも分かるように話せ!いや、それよりもどけ!馬鹿力め、余計な力を浪費させるな」
声にならない声をひたすらに上げ続けていたミルフィは、じっとこちらを睨み続けていたものの、エミリオが陽気に挙手したことで、ばっと素早くそちらを振り返った。
何でもいいから、とにかくどいてほしい。
「あのね、女の人が髪を結ばせるってのはね、『貴方の愛を受け入れます』ってことなんだぁ」
「アンタは黙ってなさい!」




