髪結の儀 弐
草の上に落ちた夜緑色の紐を片手に拾い上げて、じっと視線を落とした燐子の横顔をミルフィが驚いたような表情で見つめた。
「大事なものだったの?」
ミルフィがやたらにゆったりとした唇の動きでそう尋ねる。
何故そんなふうに思ったのか聞くと、そういう顔をしている、と心配そうな目つきで返された。
意味もなく掌を閉じて紐を握りしめ、それをすり潰すかのように震わせた燐子は、長息を吐き、ぽつりぽつりと返事をした。
「どんどん、私が、元の世界から切り離されていく、そんな感じがして…」
不安なのだ、という言葉は飲み込む。
「いや、何を言っているんだ」と声にならない大きさで呟いたつもりだった。
だが、それが聞こえたのか、あるいは表情から察したのかは分からないが、ミルフィはそっと、燐子の固く握った掌に自身の手を乗せた。
それから思いのほか硬い指先で、燐子の掌を軽く押して開くと、中から夜緑色の紐を摘み上げた。
うーん、と妙に明るく間延びした声を出したかと思うと、ふわりと微笑んで、「これくらいすぐに直せるわ。任せておきなさい」と胸を叩いた。
「本当か?」
「ええ、明日中には直すわ。それまでは――」と一度口を閉じると、じっと燐子の顔を見つめた後、「まあ、いいか」とほんのり頬を染めて言った。
彼女は、垂れ下がった自身の三編みの毛先をまとめているヘアゴムを外した。燐子のようにそれだけで髪が解けるわけではなく、彼女の赤色の髪は平然と一本に束ねられたままだった。
「これでも使ってなさい」
そうして燐子に背中を向けるように言ったミルフィに、「いや、また汚れてしまうかもしれないし」と断りを入れたのだが、ヘアゴムぐらい構わないと強い口調で断言されて、されるがままになってしまう。
烏の濡れ羽色のように青みがかった黒い髪を、両手で束ね始めたミルフィは、一本、一本丁寧に扱う優しい手付きをしていた。
その感覚が燐子にむず痒いような、心苦しいような、でもどこか懐かしいような、そんな望郷の念を抱かされて、思わず泣きそうになってしまう。
人前で泣くなんて、侍の名折れだ。
いや、自分は侍ではないのか。
だったら、何のための誇りだ。
あぁ、こちらに来て迷いばかりの自分が情けない。
環境が変われば、こうも人は普段の自分ではいられなくなるものなのか。
いやもしかすると、こちらが本来の自分?
これ以上考えていると、本当に泣いてしまいそうだ。
ミルフィの繊細な手付きが、そんな水筒の中の、最後の一滴のような涙を加速させる。
それが零れないようにぎゅっと強く瞳を閉じた。
「それに、こうしとかないと落ち着かないのよ」やたらと優しい口だ。「誰がだ?」
「私がよ」
「妙なことを言うな…何故なんだ」
背中越しに響いてくるミルフィの声がかすかに揺れて、言うか言わないかと迷っているようだった。
だが大して時間も経たないうちに、髪を束ね終えた彼女は消えそうな声で呟いた。
「いやぁ、髪を下ろしてると、ちゃんと女の子なんだなぁと思って」
「お前は相変わらず無礼だな」
「ごめん、ごめん。はい、これでお終い」
ミルフィはそう言い手を叩いて鳴らすと、少しだけ燐子から体を離して、普段よりも位置が下がってしまった燐子の後ろ髪を確認した。
上手くできたと思っているのか、どこか得意げである。
「あ、結んだことは内緒にしておいてね」
何故かと問いたかったが、今はそんな些細なことなどどうでもよかった。
山と空の境界が朧気になり始めた頃合い、ようやく月がうっすらと貼り付けられたような空に浮かび上がってきていた。
もう夕食の時間になるというのに、ドリトンにもエミリオにも告げずに、ずっとここにいるのは余計な心配をかけてしまいそうだ。
そろそろ帰らなければ、頭では分かっているのに、動き出すのが億劫になってしまっていた。
欲を言えば、月に照らされる村も一望してみたい。
だが、月明かりが辺りを本格的に照らし出すには、もう少し時間がかかりそうだ。
「もう夕飯の支度をしなきゃいけないし、戻りましょうか」
そう言って立ち上がりかけたミルフィの手を、名残惜しさから無意識に掴む。
急な出来事に彼女も驚いたような顔をして燐子を見下ろしたのだが、同じように困惑した顔をしていた燐子と目が合ってしまい、わけも分からなくなって互いに目を瞬かせた。
「な、何?急にどうしたの」
どうしたの、と問われても…。
自分でもよく分からなくなっていた燐子は、何と言うべきか必死で考えた挙げ句、別に自分はもう少しここに残ると伝えればいいのだと気がついて、手を離そうとした。
しかし、その瞬間、見上げるミルフィの顔が小さく横に傾いたのを見て、思わず違うことを言ってしまう。
「もう少し、いいだろう」
「ええ…燐子はまだいてもいいわよ、でも、もう半刻もしたら」
そこから先の言葉が想像できて、早口でそれを塞ぐ。
「お前もだ、ミルフィ」
自分でも気が付かないうちに、手に力が入ってしまう。
痛くはないだろうか、と妙な心配が浮かぶ。
「ど、どうして?」
「分からん」
燐子は、少しだけ視線を彼女の赤らんだ顔から逸した。
「だが、もう少しそばにいろ」
自分は寂しいのだろうか、それとも、話し相手が欲しいだけなのか。
いや、どうせ考えても無駄だ。
考えてみても無駄なことが、この世界に来てから増えた気がしてならない。
燐子はもういっそのこと開き直って、はっきりとした口調と瞳でミルフィに告げた。
「お前との時間は新鮮で、興味深い」
ミルフィはしばらくぽかんとして、燐子の真剣そのものの表情と向き合っていたのだが、ややあって吹き出して笑うと、「素直に寂しいって言いなさいよ」と母のような表情で微笑んだ。
母の記憶など、ろくにないのに。
どうしてこんなときに、そう思ってしまうのだろう。
近づく死の気配が、自分の過去を啄んで刺激しているのだろうか。




