無策上等 弐
初め、燐子が何を言っているのか分からなかった。
疑いようもないほどに真剣な眼差しで告げたので、冗談でないことは確かだ。
自分の白シャツを、また勝手に真っ赤なドレスへとコーディネートした燐子を、櫓から見下ろしながら、ミルフィは漠然とそう思った。
村に戻ってきてからミルフィは、一旦エミリオの様子を確認しに行ってから、サイモンのお陰で、想像以上に立派になりつつあった砦を散策していた。
そして丁度、この櫓からなら丘を下ってきた帝国兵を狙い撃ちできるな、と考えていたのだが、自分が人を殺す前提になっていることに空恐ろしさを感じていた。
そんなときに、燐子が下でサイモンに告げた言葉が聞こえてきて、ミルフィは困惑したのだ。
やはり、同じように動揺したらしいサイモンが、言葉に詰まりながら燐子の言葉の真意を問い質したものの、彼女の返事は淡白で揺るがなかった。
「そんな馬鹿なことがありますか!」と穏やかさを保っていたサイモンが、声を荒げて燐子に迫った。
「斥候どころではないのですよ、百人近い兵士が押し寄せてくるのです。例え一箇所に集約して、一対一の戦いを続けられたとしても、十人も相手にすれば限界が来ます!」
すると、燐子は一度目を閉じて、それからゆっくりとサイモンに言い聞かせるように声を発した。
「騎士団が来たら、そこで私の出番は終わりだ」
「必ず間に合う保証もない!」
「そのときは、そのとき」
燐子が他人事のように無感情に言い放つものだから、サイモンは呆れたように、あるいは驚いたように額に手を当てて唸り声を上げた。
再び喧騒が辺りに広まる。
無理もない、場合によっては、自分たちの命が小娘一人の肩にかかっているということになるのだ。
自分たちが押し進めていた計画の肝心要の部分が、そのようなお粗末なシナリオだと知れば、誰だって憤りか失意を感じてしまうのが道理だろう。
だが燐子は、そんな騒がしさを気にも留めていない様子で、唐突にシャツのボタンを外して、サラシだけになり始めた。
ミルフィは、何人かの男性の目線が自然と彼女の白い肌に吸い寄せられていく様を見て、何だか無性に腹立たしくなった。
いつになったら、あのはしたない真似をやめるのだろう。
彼女は唐突にそのシャツを宙に放ると、そっと腰の太刀に手を伸ばした。
刹那、ミルフィの頭に嫌な想像が浮かんでしまい、慌てて櫓を駆け下りたのだが、彼女の両足が地面に着陸する前に、燐子は太刀を一閃させて、そのシャツを見事に両断した。
もちろんシャツはミルフィの物である。
喧騒が一瞬で収まり、誰もが燐子の鮮やかな太刀筋に目を奪われていたところで、ようやく燐子が口を開いた。
「見ろ、この布切れに着いた帝国兵の血を」
布切れにしたのは飽くまで燐子である。
「そしてこれが、既に六人の帝国兵を斬った太刀だ」
ミルフィは地面に落下したシャツにはもう目もくれず、真っ白な上半身を惜しみなく晒す燐子に釘付けになっていた。
「三十秒で五人葬った。五分で五十人、十分で百人だ」
もちろん彼女だってそんな空論が通じるとは思っていないだろう。
「私を信じろとは言わん。だが、みんなが村を守ることを諦めない限りは、お前たちには指一本触れさせるつもりはない」
後ろで結い上げた彼女の髪が艶やかに揺れる。
つい先ほど人を殺めた女とは思えないほどに、真摯さに満ちて凛とした雰囲気に、ミルフィは時折彼女が口にする『気品』、という言葉の意味を垣間見た気がした。
普段は傍若無人で、我が強いところばかり目立つくせに、こういうときは圧倒的な存在感を放ち、人目を引き寄せる。
森の中で彼女が言ったことだって、理解できないわけではない。
むしろ、合理性を求める頭は燐子の発言にしきりに首肯していた。
ただ、頭に心が追い付いてこなかったのだ。
彼女の発言に賛同してしまえば、徴兵されて死んだ父の魂が、私たちの元から離れていく気がした。
きっとエミリオだって離れていく。
戦う理由なんて認めてしまったら、弟はいつか自分を置いて出て行ってしまうかもしれない。
だから、燐子の話は到底認められなかった。
認めれば、父の魂は報われず、弟は燐子のように人の死に無頓着になるかもしれない、そう考えたのだ。
それなのに、彼女の持つこの引力は一体何なのだろうか。
燐子の意見を受け入れてしまえば、自分の中の大事なものが失われるかもしれないのに、彼女の手を取って、あの黒曜石が見ているものを理解したいと思ってしまっている。
彼女の何が自分を引き付けるのか。確かに容姿だって優れているし、舞うように刃を振るう姿も、その中身さえ考えなければあまりにも美しい。
それとも言動だろうか、いや、あの歯に衣着せぬ物言いは正直イラっとする。
ミルフィは一つため息を吐いて、もやもやとした自分の思考を追い払った。
今確実に一つ分かっているのは、彼女の力なくしては自分の故郷は守れないということだ。
ああして自身の力を誇示するような真似は、見ていて腹立たしさもあるが、それが決してハッタリではないことも自分は良く知っている。
ミルフィはそっと燐子のそばに落ちている、両断された赤い布切れに近寄り拾い上げる。
彼女が駄目にした服はこれで二枚目だ、いっそのこと初めから真っ赤な服を着せていれば良かった。




