深夜からの呼び声 弐
森の奥の方に、ゆらゆらと燃える松明の光が見える。
まるで鬼火のようだ、と上の空で思いながら、それとはまた別のところで、ミルフィを連れてこなければよかったと後悔していた。
ミルフィは燐子の視線の先を追うと、青白い月を吸い込んだかのような色で頬を染め、半歩だけ後退りした。
気がつけば、先程までうるさいぐらいに喚いた鳥たちの声が、嘘のように消えていた。
松明の数からして、敵兵の数は五、六人だろう。
一人でも十分にやれる。
そう考えた燐子は、ミルフィに後ろの藪に下がっているように伝えた。だが、断固として彼女は言うことを聞こうとはしない。
明らかに無理をしているのは、震える指先と顔色、そして荒い呼吸でまざまざと伝わってくるのだが、今は彼女を説き伏せる時間すら惜しいと判断して、もう少し闇の濃いところで機を窺っているよう命じた。
彼女が本気で共に戦う気なら、そうしてもらおう。無理ならば、それで良い。
燐子の口調がやけに鋭く冷たかったからだろうか、ミルフィは文句の一つも告げずに後退していく。
風の流れ、葉を揺らす音に耳をそばだてながら、燐子は橙色の光がこちらへとやってくるのを眺めていた。
不思議と緊張はない、軽く心臓の鼓動は早まってはいるものの、それ自体は普段と変わらず、質の良い緊張感を覚えている明確な証拠であった。
人を殺して生きてきた、そう語れば、彼女は私をどう思っただろうか。
分からない、分かりようもない。
自分とミルフィとでは、生きてきた世界が違いすぎる。
同じ女で、同じ年頃なのに、こうも違う生き物になってしまうのは、一体誰の思惑なのか。
ようやく先頭の松明が茂みを抜けて、顔が見えるだろう距離にまで近づいてきた。
彼らは凛と立ち、自分たちを見つめる幽鬼のような女の姿を確認すると悲鳴を上げて、動揺を示した。
きっと妖怪か何かと勘違いされたのだな、と冷静な頭脳で分析しつつも、無感情なトーンを意識して燐子がゆっくりと口を開く。
「帝国所属の兵士とお見受け致す」
彼らはわけが分からんといった様子で、燐子を様々な感情を内包した視線で捉えていたのだが、そのうちの一人が自分を奮い立たせるかのように大きな声で、「いかにも!」と返事をした。
「して、貴様は何者だ!」
燐子が答えぬうちから剣の柄に手をかけ、抜き放った。
鉄の擦れる高い音が夜の森に響いて、事態を見守っていたミルフィの鼓動は、未だかつてないほどに激しく拍動していた。
抜いたな、と燐子は胸の中で唱える。
その行為は、殺されることに同意したに等しい。
「貴様らが知る必要はない」
その言葉を耳にした男たちは、これまた自分たちを鼓舞するかのように大きな声で笑っていた。
もしかすると、彼らも察していたのかも知れない、と後になってミルフィは考えた。
今、自分たちの目の前に居る人の形をした生き物の、常軌を逸した獰猛さを。
自らの腹の中に抱えた静謐を穢された森が、憤りに唸るように大きな音を立てて揺れる。
それを皮切りにしたかのように、先頭の男が燐子のほうへと悠然と近寄っていく。
その呑気に開け放たれた口からは、迷ったのなら自分たちの野営地まで連れ帰ってやろう、という趣旨の言葉が紡がれていたのだが、燐子の間合いに軽率に足を踏み入れた瞬間、彼女が息もつかせぬまま抜刀してその切っ先を向けたことで、その男は腰を抜かした。
「安心しろ、不意は打たん」
ぎらりと光る刀身を斜めに傾け、月光を反射する。
「貴様たちには、全員ここで死んでもらう」
ぼんやりとした暗闇に浮かぶ三日月が、尋常ではない殺気をもって彼らを睨みつける。
口の形だけは薄ら笑いの様相を呈したままであったが、それは単に凍りついてしまったのだろう。
尻もちをついていた男が慌てて立ち上がったのを見届けた後、燐子は一言、一言、まるで祈りの言葉でも唱えるかのようにして言った。
「一人残らず、漏れなく。誰も――」
「う、うわあああ!」
彼女の殺気に耐えられなくなったらしい、尻もちをついていた男が、剣を頭上に振り上げて燐子に斬りかかる。
ミルフィはそれを見て、声にならない悲鳴を上げたのだが、次の瞬間にはまた絶句することとなった。
舞い散る鮮血、赤く染まる三日月、稲光のような一閃。
一人の人間が瞬きをする間もなく、動かない肉塊と化した。
燐子は、動かなくなった、数秒前までは人だったものを振り返ることもなく、淡々とした口調と面持ちで、先刻の言葉の続きを言い放った。
「――明日の朝日は拝めん」
そう言い終わるや否や、電撃のように駆け出し、呆然としていた兵士の首筋目掛けて太刀を左薙ぎする。
奇妙な音がして相手の首が宙を舞い、それが地面に墜落するよりも速く数歩飛び、剣を構えることすらできていない相手に一太刀浴びせる。
ほぼ同時に二箇所で血飛沫が上がり、十回に満たない呼吸のうちに六人いた兵士が、半分になってしまっていた。
真っ赤に染まっていく自分のシャツを、現実から乖離した思考で観察していたミルフィは、ああ、もうあの汚れは取れないな、と場違いなことを考えていた。
目の前で起こった、にわかには信じがたい惨劇を受けて、隊長らしき男が陣形を整えるように叫んだ。
それをあえて見守るようにして見ていた燐子は、自分に向けて構えられた陣形を改めて凝視し、どこも戦いの陣形というのは大して変わらないものだ、と一人内心で納得していたのだった。
ゆっくりと近寄って、間合いからまだ余裕のある場所で立ち止まった燐子は、緩慢な動きで空いていた右手を上げて、その手を静止させた。
兵士たちはそれを不審げに警戒しながら目で追っていたのだが、唯一ミルフィだけは、その意図を察していた。
自分へ向けた射手の合図だ、とミルフィは一層鼓動を高鳴らせて、それでも手を止めること無く滑らかな動きで矢筒から矢を取り出し、番えて弦を引き絞った。
目の前で三人の仲間をあっという間に葬った女に、全身の神経を注力させていた男たちは、燐子の後方の暗闇から鳴る死矢が研ぎ澄まされる音に気がつけなかった様子で、結局ミルフィが意を決し、指を離すまで微動だにしない的と化していた。
夜気を引き裂いて、一本の矢が一人の男の額に突き刺さる。確実に絶命しただろう。
ミルフィは今まで無数の矢を放ち、数多くの獲物を仕留めてきたわけだが、今日この一矢ほど、鮮明に残るものはないだろうと、震える指先を握りしめながら感じていた。
そこから先はもう寸秒の出来事だった。
全く警戒していない闇の中から的確な矢が放たれ、彼らの意識が次の射撃に割かれたところを、数歩駆けて間合いに飛び込んだ燐子が一刀で仕留める。
その燐子の背後から最後の一人が袈裟掛けに斬りかかるも、すんでのところで頭をかがめてそれを躱す。
頭上をかすめる凶器の感覚に肌を粟立てながら、体勢を戻す拍子に逆袈裟に鎧の継ぎ目を狙う。
多少の抵抗感はあったものの、難なく肉以外の部分も断ち切り、血飛沫を巻き上げることに成功する。
確かな感覚を背に、太刀を空で振り払い血振るいする。
飛散する血液が地面に溜まる赤い海に飲み込まれて、消える。
素晴らしい切れ味だ、と燐子は興奮した脳とは別の部分でそう満足そうに思考した。
やはり、スミスの腕前は自分が見込んだ通りだったようで、まるで生き返ったかのように生命力に満ち溢れた太刀を視界の隅で捉えて、不敵に笑った。




