一刀両断 弐
天に向けて立てていた刀身を、ゆっくりと左へ斜めに傾け、最後には横一文字に構え直した。
良い心地だ、やはり獣相手でも、一騎打ちは剣士の醍醐味である。
焦って動けばその隙を突かれる、人間相手の読み合いは得意でも、獣はいかがなものか。
同じ道理で相手取って失敗すれば、二度目は訪れないのが真剣勝負。
一発勝負といっても、命を賭け金にして行われる大博打というわけにはいかない。
運に任せた戦いは、自らの未熟さをひけらかしているようなもので、頭と体を使って戦う者には絶対に敗北する。
燐子は全神経を集中して、獣の一挙手一投足に傾注した。
様々な角度からの攻撃を頭の中で予測して、返す一太刀を想定していく。
考える時間が長ければ長いほど、その計算はより綿密になって、斬れぬものの無い名刀のように研ぎ覚まされていく。
ようやく立ち上がれるほどに落ち着いたのか、かすかに後方で人の動く気配を感じた。
すると、それとほぼ同時に目の前の獣が一つ大きな声を発して動きを見せた。
地を蹴って、一瞬で人の及ばぬ速さに達するが、その視線の先はこちらではなく件の子どもの方を捉えていた。
それに気が付いた子どもがまた金切り声を上げて、走り出したのを背中越しに感じる。
この子にとっては絶体絶命の窮地に思えるのだろうが、燐子はというと、逆に酷く冷静になって、むしろ白けた心地にさえ陥ってしまっていた。
つまらん、と燐子は左脇をすり抜けて行こうとしている相手に向かって足を踏み出し、太刀を振りかぶった。
左腕を引いて、脇を締める。
それから一瞬だけ余計な力を抜き去り、タイミングを合わせて振りかぶった太刀を、左から右へと水平に薙ぎ払う。
獲物に夢中になっていた四つ足の獣は、唐突に自分の顔から胴に沿って振りぬかれた一閃に、驚く暇もなく引き裂かれ、跳ね上げられるようにして宙を舞った。
空中を斜めに一転、二転して地面に落下していく。
その軌道上に揺れる紅葉のように飛散した鮮血が、放物線を描くのを見届けたときには、獣の体はドサリと音を立てて地に臥せていた。
一騎打ちの最中に相手から目を逸らすなど、あまりにも興の冷める行為だ、と燐子は、巨体を横たえて無様に痙攣する獣を、蔑む目で睨み鼻を鳴らした。
「図体はでかくても、所詮は犬か」
止めを刺してやる必要性も感じない、真剣勝負に泥を塗った罰だ。
懐から紙を取り出して、さっと刀身に付いた生臭い獣の血を拭き取って捨てる。
風に吹かれて不規則に漂う白片が燐子の横を通り過ぎて、それからくるりと円を描いた後、少し離れていた子どもの足元に落ちた。
小さい口から高い悲鳴がかすかに漏れたかと思うと、また子どもは腰を抜かしてしまった。
その様子を情けなく思う一方、戦いとは縁のない子どもならば仕方があるまい、と彼女は多少の同情心から相手の方へと歩み寄った。
足を進めながら、腰に下げた鞘へと刀身を納める。
血が滲んだ懐紙を、魂が抜けたように見つめている子どもの前に立ち、無愛想に声をかける。
「立てるか」
唇を震わせ、見上げるようにしてこちらを見つめる相手に、そうか言葉が分からないのだった、とわずかな気まずさから視線を逸らした。
それにしても――燐子は、月光を通さぬほどに生い茂った葉の隙間から見える夜空を仰ぎ、それからゆっくりとした動きで自分の周囲を見渡した。
よくよく辺りを観察してみれば、見覚えのない草木ばかりである。見慣れた松原もなければ、ブナ林もない。
先程の凶暴な獣といい、明らかに場違いな異人の子どもといい、もしかするとやはりここは地獄なのだろうか。
鼻から深く息を吸い込み、冷静に思考しようと努めたのだが、その瞬間、足元で震えていた子どもが声を発したことでその試みは中断された。
「…あ、ありがとう」
最初は空耳なのかと疑い、じぃっと異人を見つめたのだが、向こうは不思議がることもなく、「死ぬかと思った」と苦笑いと共に吐き出した。
そのあまりにも気安い、親戚じみた喋りに違和感が増す一方の彼女は、目をパチパチとさせて様子を窺った。
呆然として瞳以外は固まっている燐子に、座り込んだままの姿勢で片手を伸ばした幼き異人は、燐子が手を握り返してくれないのを悟ると、自分の足で飛び跳ねるように立ち上がった。
「お姉さん凄く強いんだね、僕びっくりしちゃったよ」声からして、この子どもは少年のようだ。
命の危険に晒されておきながら、何と落ち着いた様子だろう。これが地獄の小鬼という奴なのだろうか。
確かに異人らしい高い鼻はどこか人間離れしているように見えるし、何よりこの夜空に瞬く不吉の星のような青々とした眼球・・・見れば見るほど不気味な造形である。とても同じ人間だとは思えない。
いや、それよりも――
「お前、日の本の言葉をどこで習った」
誰かの教えがなければ、こんなにも流暢に日の本の言葉を異人が、しかも子どもが話せるはずがない。
ここがどこかは定かではないが、どうやら恥晒しの売国奴がいるらしいことだけは、間違いなさそうだ。
そのような人間は、斬って捨てねばなるまい。
例えここが地獄であろうと、その責任が自分にはあるのだ。
しかし、沸々と湧き上がる怒りに目つきを厳しくした燐子の言葉を聞いても、異人の子どもは意味が分からないといった風に首を傾げるだけだ。
何ともハッキリとしない様相を呈していたので、もう一度彼女が強く「庇い立てするつもりか」と問いただした。
すると相手は増々不思議そうに反対に首を傾げて、燐子が言った言葉を繰り返すだけであった。
「どうして私の言葉が分かる」
「どうしてって、お姉さん何言ってるの?」
少年は怪訝そうに眉をしかめた後、ハッと何か思い当たる点でもあったかのように目と口を大きく開くと、激しく瞬きを繰り返しながら燐子の周りをくるくると回った。
少年は三周ほど彼女の体をぐるりと観察すると、急に立ち止まり無垢な輝きを惜しみなく放つ瞳を煌めかせてから、大きな声を上げて言った。
「もしかしてお姉さん、『流れ人』なの?」