悪い知らせ 壱
カランツとアズールの境にある湿地帯を抜けたのは、もう日が完全に落ちてしまって、白銀の月が金の輪を持ち上げてからのことだった。
ぬかるみに嵌らぬよう、丁寧に道程を選びながら馬の手綱を操るよう心掛ける。
地面をしっかり捉え跳ね上げる馬の蹄の音が、静かな草原に響く。
死んだように眠っている厳かな静寂を破るのが、どこか憚られる夜だ。
この草原を抜ければ、そろそろカランツの村が見えて来る。きっと皆、眠りこけているのだろう。
そして、ミルフィが聞きたいと思っていたことを聞けたのも、丁度そのくらいになってからであった。
「何かさ、王女様とただならぬ雰囲気じゃなかった?」
ただならぬ、という言葉遣いが彼女らしくなくて、乾いた笑いを零してしまう。
「私の目と髪が珍しかったのであろう」と投げやりに答えたつもりだったが、事実それ以上に論理的な答えがないような気がして、燐子は一人で納得していた。
「本当にそれだけかなぁ?なーんか、王女様の様子がおかしかった気がしたんだけど」
「考えて、分かるものでもあるまい」
「そうだけどさぁ」ミルフィは燐子の腰に手を回したまま納得いかない顔をした。「燐子の様子も変だったじゃん」
何故か責めるような口調をぶつけてくるミルフィを横目で振り返り、逆に非難の視線を向ける。
彼女も燐子の感情を読み取ったのか、さっと視線を逸らし、うだうだと脈絡のない文句を並べていたが、燐子が一つ小さくため息を吐いたことで、観念したように本音の話をした。
「ごめん、今はくだらないことを喋ってないと落ち着かなくて」
「…そうか」
無理もない。私にとっては日常茶飯事だったわけだが、彼女たちにとってはずっと危惧していた戦乱の火の粉だ。落ち着けと言うほうがどうかしている。
燐子の見つめる夜の闇に、燃え尽きる城の影が投影され、彼女はそれを凝視していた。
自分たちの城が落ちるというのに、心のどこかでは、それをすんなり受け入れている自分がいたことを覚えている。
いつかそんな日が来ると知っていた。
むしろ、そうして討ち死にする、あるいは腹を切ることでしか、自分の人生は終わらないとさえ信じていたのだ。
老衰や病死を考えると、恐ろしかった。
自分が戦火の中で死ねなかったら、どうなるものかと不安だった。
少なくとも、こんな場所で異人を背に馬を駆けている今を思えば、そうなることはよっぽど現実的な話だったはずだ。
きっと、それが戦う人間とそうでない人間の差かもしれない。
私たちは、自分の育った場所が打ち滅ぼされる未来を想像できる。
それは何故か。非常に簡単で明快だ。
自分たちが他人の故郷をそうやって滅ぼしてきたからだ。
滅茶苦茶に砕けていく国や村を眺めながら、自分の故郷のことを思う。自らの所領を、その灰と炎の中に重ねる。
いとも容易く滅亡することを知っているから、我々兵士は躍起になって戦うのだ。
戦士としての誇り、誉れ、そして国と民のために。
だが、今私がしていることは何だ。自分の所領でもない村を守るために寝る間も惜しんで馬を飛ばしている。
くだらぬ独善か、それとも自分にまだやるべきことがあると信じたいのか。
侍たちの絶滅したこの異世界で、ありもしない誇りのために戦うのか。
誰も認めてはくれない。最早自己満足を得られるかどうかも怪しいというのに。
もしかすると、ただ血の匂いに引き寄せられているだけなのかもしれない。
獣だ。生死の境に潜む獣。
自分の命を賭け金にして、他人の命を貪ることに快楽を求める獣。
自分が望んだ真の侍からは、酷く、遠い。
そんなものではないはずだ。私は。
これではいけない、と燐子は首を左右に振った。
どうもあの王女に見つめられて以降、感傷的になりすぎている。
彼女の瞳の中に宿る何者かが、私の中の迷いを日の当たる場所に誘い出したのかもしれない。
何とか気分を紛らわすために、ミルフィの言葉に合わせるかのように軽口を叩く。
「確かに、王女は美しかった。私もおかしくなっていたのかもな」
「はぁ?燐子もああいう、いかにも、『女の子です』っていうほうがタイプなわけ?」
ミルフィがやたらに高い声を出して言うものだから、どこからその声が出ているのか本当に不思議に思った。
タイプと言われても同じ女だろう、と返答に困った燐子は適当に「誰だって、品があるほうがいいだろう」と返した。
「ミルフィもあれくらいの気品を身に着けろ。そうすれば、ドリトン殿も安心する」
「どういう意味よ、それ」
「嫁の貰い手がつくかもしれない、ということだ」と燐子がほんの少し振り返りながら、悪戯っぽく告げると、思いのほか本気で怒ったらしいミルフィが大声を上げた。
「大きなお世話よ!」
背中を強烈な力で叩かれ、鈍い悲鳴を上げながらも、燐子はこれでいいと、どこかほっとしていた。
萎んでいるミルフィは見ていてどこか落ち着かない。
私の背中を叩くぐらいの元気があるほうが、彼女らしいに決まっている。
もちろん、できれば叩かないでほしいわけだが。
街道の両脇に広がった緑の絨毯が、互いに擦れ合い、安らかな音を奏でている。
夜の静謐に存在を許された数少ない音色たち。虫の声、風の響き、空と山の境界の先で鳴る遠雷…。それを耳にしながら、美しい瑠璃色の空の下で背筋を正した。
いつまでも怒ったままのミルフィをなだめながら、順調に馬を進めていると、ようやく遠くのほうにカランツの村が見えてきた。
普段ならみんな寝静まっているはずの時間帯なのに、村のあちこちで明かりが灯っている。
明らかに何かがおかしい。
背中のミルフィが体を硬くするのを感じながら、「急ぐぞ」と途端に真面目腐った口調で告げる。
彼女が返事をするよりも先に、馬の速度を上げて一気に草原を駆け抜けた。一瞬彼女がバランスを崩したのを知りながらも、スピードは緩めない。




