流れ星と王女 弐
白い雲の隙間から溢れる幾条もの光を背にして、この世のありとあらゆる可憐さをも凌駕する微笑みが、蒼と白のキャンバスの中に浮かび上がった。
その絵画じみた優美さを放つものが、生きた人間の顔だと気がついたとき、燐子は無意識に全身が震えるのを感じた。
見た目の美しさだけではない、この小さな体に込められた、幾層もの純粋さと意思の強靭さがここまでありありと伝わってくるのだ。
毛先を緩く波打たせた王冠のような金糸を戴き、血色の良い白い肌に乗った赤い華のような唇。
その身を包む衣も、決して派手ではないという点が、一層彼女の内面の美しさを際立たせていた。
風に吹かれているはずの水色のスカートは、むしろ風を従えているという印象さえ感じさせ、その細い胴を覆う、真っ白の服も何の違和感もなく、彼女そのものに浸透している。
ここまで来ると、ぐうの音も出ない。
一体何に対してぐうというのかは知らないが。
彼女は既に女王としての器をこの華奢な体に宿している。
立場としては自分も一国の姫であったはずだが、それがいかに分不相応の称号だったのかが。今ならば分かる。
戦いにばかり染まって、政や品というものに興味を示さなかったことによる差、といって片付けるには、あまりにも大きく深い溝だ。
まあ亡国の姫だということを加味すれば、丁度いいのかもしれないが。
「大丈夫ですか?」と疑いたくなるほど透明感のある声が、真っ直ぐ天上より降り注ぐ。
あまりの驚きに言葉を失っていた燐子であったが、今日だけで、もう何度目かになるミルフィの物理的制裁を受けて、何とか我に返り、閉ざしていた口を開く。
「はい、ご心配をおかけしてしまい申し訳ございません」
恭しく頭を下げながら、立ち上がる。結果的に低頭したかどうかは有耶無耶になった。
「貴方は…」とその整った眉がかすかに歪む。
「どうかされましたか?」
「いえ…珍しい髪の色。それに瞳も真っ黒だと思って」
思わず言葉が詰まった自分の迂闊さに、腹が立つ。
それから動揺を悟られぬように、ミルフィの真似をして愛想笑いをしてみるが、果たして上手くいったのかどうかは分からない。
彼女の言う通り、自分と同じ黒髪黒目の人間は、未だ、この世界に来てから見たことがない。つまり、それだけで自分は異質に見えるということだ。
彼女の質素さと、優雅さを兼ね備えた容姿とは違って、その足で跨っている白馬は派手な装飾が各所に散りばめられており、多少視覚的にうるさかった。
その馬を燐子に寄せて、少しだけ体を屈めてその瞳を珍しげにじっと眺める。
後ろで従者らしき女性が低い声でその行動を諌めるが、王女は「少しだけだから」と振り返った。
王女はそのまま人好きのする柔らかい笑顔を浮かべて、黙って自分を見据える燐子の前に降り立った。
「いけません!セレーネ様」と従者が彼女の少し後方から鋭く声をかける。「得体の知れない女と並ぶなどと…」
得体が知れなくて悪かったな、と普段なら相手の無礼さに憤るところだったのであろうが、今の燐子にはそれだけの余裕は無かった。
華奢な体だと思ったのだが、いざ面と向かって並んでみると、身長は自分と大して変わらなかった。思いのほか毅然とした印象を受ける。
もちろん初めから感じていた可憐さのようなものは、より強く燐子の神経を刺激した。
慌てた様子で自分の袖を引くミルフィを無視して、じっと相手の瞳を覗き込む。
灰のようだ、と燐子は思った。
こんなにも美しい灰を、未だかつて自分は見たことがない。
屍の後に残る遺灰も、
暮らしの全てを焼き尽くして天に昇る灰も、
戦場で血飛沫とともに舞う灰も、
このような静寂や、穏やかな美しさは持ち得なかった。
セレーネと呼ばれた王女は、臆する様子もなく燐子の瞳を真っ直ぐに覗き返す。
互いの瞳の底に眠る深淵を見つめ合った彼女らは、しばらくの間黙っていたのだが、忘れ物を思い出したかのように自然とセレーネから口を開いた。
「不思議な方」ぽつりと呟き、陽光を反射するまつ毛を動かす。「まるで、夜空のよう」
「どういう、意味でしょうか」
「真っ暗で、でも優しい。そして――」
「そして?」何かを期待するように、セレーネの言葉を繰り返す、
「落ちてきたみたいに寂しい。星が、ね」
その甘い声を聞いた途端、全身がぞわりと鳥肌を立てたのがはっきりと分かった。
そして、直感的にそれが何故なのかも、燐子には分かっていた。
彼女には、説明しようのない摩訶不思議な魔力がある。
自分のように、何かの為に死にたいと願って止まない人間を従わせる、途方も無い何かが。
これが、本来国を治める資格を持つ者たちの素質なのかもしれない。
これ以上、彼女の前に居ては危険だ、と自分の中の本能的な警戒心が告げるのを聞いて、燐子はさっと頭を下げた。
「折角お声掛け頂いたのに恐縮ですが、もう行かなければなりません」
「あの、この町に住まわれているのですか?」
「いいえ」と小さく言い切る。
「ならば王国ですか?」その問いにも最低限の短さで否定を行う。「それでは、どこへ戻られるのでしょうか?」
その問いに、少し考える素振りをする。
「帰る場所などありません」
そう寂しそうに笑う燐子は、何か言いかけているセレーネに一礼して背を向ける。
「それでは、失礼します」
馬に乗ったままの従者が、大声で燐子の態度を咎めるも、その行動を逆に王女に叱責されて不服そうに押し黙った。
不用意な発言を繰り返す燐子に、文句を言いたいような、しかし慰めたいような、そんな複雑な表情を浮かべていたミルフィは、燐子の着ている白いシャツの背に刻まれた皺に向けて、「急ぐわよ」とだけ零した。
それに対して燐子も何の反対もせずに、町の東側へと足を向ける。
「待ってください!」
二人の、正確には燐子の背中にセレーネが呼び声を投げる。
すると、先にミルフィが立ち止まって、聞こえぬふりをして先に進もうとする燐子の腕を掴んで制止した。
燐子は渋るようにミルフィの顔を横目で睨んだが、さすがに王女を無視するのだけは止めておけと忠告されて、仕方がなく振り返った。
「お名前を、聞いてもよろしいでしょうか?」
彼女の後方で待つ従者は、自分の主君に忠言を伝えるのを諦め、呆れ果てたようにため息を吐くだけになっている。
燐子はその問いに答えるべきか否か迷っていたのだが、こちらの世界では聞き慣れない燐子の本名を名乗るのは、危険だとミルフィが一度だけ小さく首を振った。
それに関しては同意であった燐子だが、彼女の澄んだ灰色の瞳が思い出されて、適当な嘘を吐く気にはなれずにいた。
「名乗るほどの者ではありません」
結局彼女が口にできた言葉は、そんな気の利かない台詞だけであった。
これで四章は終わりとなります。
会話ばかりで進展の遅い流れだったかもしれません。
次の章から終わりにかけて、戦闘の数も多くなっていくと思います。
読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!
ご意見・ご感想、ブックマーク、評価が私の力になりますので、
応援よろしくお願いします!




