流れ星と王女 壱
未だに返事のないミルフィを、引きずるようにして詰め所から連れ出し、門のところまで行って扉を開けるよう伝える。
お世辞にも丁寧な口調とは言えなかったが、燐子の気迫に圧された彼らは。大人しくそれに従った。
そのままの勢いで詰め所を走り去ろうとしたそのとき、背後から通る声が響いた。
「待ちなさい!」
それは先程受付で話した青年だった。
「村に戻るのは危険かもしれない、君たちはここで避難していたほうがいい!」
「心配無用」
くるりと振り返って、燐子は真っ直ぐに彼を見つめた。
「気遣い、感謝する」
朝日を反射して、頭の上部に天使の輪を作った燐子の黒髪が美しく風にたなびいた。
尾のように結った後ろ髪が相手を威嚇するように浮き上がる。
青年が驚いたように目を凝らして彼女を見た一方で、燐子は興味がなさそうに素早く体を回転させて、詰め所から出て行った。
ようやく一人で真っすぐ歩けるようになったミルフィは、鮮やかさを失った唇で、うわごとの様にぽつりと呟きを漏らした。
「行かなきゃ」その瞳が、灰の中から蘇った炎を宿して瞬いた。「行くわよ、燐子」
こうでなくてはならない、完全にとは言えないが、ショックから立ち直ったミルフィを見つめて、燐子は小さく頷いた。
早くスミスのところに寄って武器を受け取り、馬屋に行って町を出よう。
きっと一日も駆ければカランツに到着できるだろう。
いきなり馬に無理をさせてしまうことにはなるが、背に腹は代えられない。
ほとんど駆け足に近い早歩きで先を急ぐミルフィの隣に並んで、まずは鍛冶屋か、と考えた。
その瞬間だった。
なだらかな下り坂を上って来る、騎馬に跨った二つの人影。
逆光になっていて、その表情は薄ぼんやりとしか分からなかったが、片方は線の細い女性だということが、遠めからでも分かった。
残りの人影は、その照り返し具合から鎧を身に着けていることが予想できた。
その佇まい、醸し出す雰囲気から、詰所の騎士団連中ではないことが、この距離からでも分かる。
それどころではない、というのに意識が吸い込まれそうになる存在感から無理やり目を離し、早足のまま二人に近づく。
「嘘」とミルフィが一瞬だけ足を止める。「王女様だ」
「王女?」
燐子が聞き返すと、それには何も答えないまま、二人の邪魔にならないよう脇道に移動した。
それにならって燐子も端に避けるが、その目は猛禽の眼光のごとく、鋭く二人の姿を捉えていた。
顔はよく見えないが、こいつがこの国の王女。腐った巨木に咲く花というわけだ。
次第に近づいてくる二人に、先刻まで惰性で哨戒任務に当たっていた騎士たちが、姿勢を正して頭を下げる。
彼らの瞳には羨望や畏怖、それから真っ直ぐな忠誠が見られ、王女が尊敬されているということだけは分かった。
王女、と言うが、絢爛な装飾を身にまとうわけでもなく、また傲岸不遜な様相もない。
低頭する民衆にも優しく声をかけているところを見るに、とてもこの国が腐りかけの大木とは思えなかった。
しかし、隣で頭を下げたミルフィの横顔から、決して外面だけで判断してはいけないのだと嫌でも分かる。
「彼女は王族の中でもまともよ」ミルフィが表情を変えず言う。「まとも?」
「イカれてないってこと」
甘い香りと言葉を放ち、その蜜で相手を絡め取り、内に宿した劇毒で中からボロボロにする。
そんな毒花のような女を、風の噂で数えきれないほどに耳にしてきた。
油断大敵、そういう女に命を奪われた豪傑たちもまた知っている。
そうして頭の隅に残る記憶の水面を覗き込んでいると、突然背中を叩かれる。
「ちょっと燐子、ちゃんと頭下げて。怪しまれるでしょ」
ああ、そういえばそうか。自分の世界で言うところの将軍の娘、みたいなものなのだ。
確かに、きちんとした礼儀は尽くして見せねば目をつけられる。
そう考えた燐子は、さっと膝を地面に着いて頭を深く下げたのだが、ミルフィに今度は激しく背中を叩かれて、跳ね上がるようにして中腰になった。
「何をする!」あまりの痛みに片目を瞑りながら怒鳴りつける。「この馬鹿力め!」
「アンタこそ、早く立ちなさいよ!」
頭を下げろと言ったり、立てと言ったり、言っていることが滅茶苦茶ではないか。
最近あまりに軽々しく自分を小突いたり、叩いたりするものだから、この辺りで一度はっきりと叱りつけておいたほうが、後々調子に乗らせないためにも肝要なのでは、と考え、歯ぎしりしながらミルフィのほうを向いた。
しかし彼女は燐子の耳を勢いよく自分の口元に引き寄せると、囁いているのか何なのかよく分からない喋りで告げた。
「騎士団でもないんだから、膝なんてついたらおかしいのよ」
「私は侍の娘だ」ムッとした顔で返す。
「はいはい、知ってるわよ。だけどそれをこっちじゃ一般人って言うのよ!」
一般人、と頭の中で虚しい響きが反芻する。
数分前のミルフィを真似るようにふらりとよろめき、何とか足に力を入れて立ち尽くす。
自分が倒れてしまわなかったことが、どこか侍の誇りへの裏切りのような気さえして、ますます息苦しくなる。
分かってはいた、分かってはいたが、いざそれを口にされると心が張り裂けそうな気持ちになる。
それこそ、自分の墓穴と知っても尚、穴を掘り続ける墓掘りのように自壊的な虚しさがあった。
顔面蒼白になった燐子を心配そうに見つめたミルフィは、さすがに罪悪感を覚えたようで必死になって、「冗談よ、冗談」と繰り返したのだが、うなされたように、一般人、という言葉を連呼し続ける燐子には、全く聞こえてはいなかった。
可愛そうなことをしたかも、と肩を揺さぶるミルフィと燐子の間に大きな影が差した。
何だろうか、とぼんやりとした思考で燐子は面を上げた。




