警鐘 壱
目を覚まし、視界に映る天井の見慣れなさに何度か瞬きを繰り返すと、音もなく体を起き上がらせる。
隣のベッドには既にミルフィの姿はなく、室内にも彼女の姿はなかった。
窓の外を覗くと、まだ日が昇り始めてそんなに経っていないようで、東の空は暁に染まっていた。
町の中でも、少し高い位置に建てられている宿屋の窓からは、アズールの町を囲む穏やかな湖が一望できた。
静かな波間にたゆたう小舟の上に、白い鳥たちが輪を描きながら集っている。
燐子はそうしてしばらく外を眺めていると、自室の扉が音を立てて開き、プレートを両手で支えたミルフィが姿を見せた。
窓の側でじっと佇んでいた燐子と目が合った彼女は、起きるのが遅いという小言を並べながら、最後に「おはよ」と付け足した。
その言葉は顔を合わせた瞬間に口にするべきではないだろうか、と燐子は考えるも口にはしない。
ミルフィの手で机の上まで運ばれてきたプレートの上に、パンとベーコン、それとスープが乗せられている。
どれも作りたてのようで温かな湯気が昇っている。匂いを嗅いだことで空腹を思い出した体が反応する。
わざわざ朝食を運んでくれたミルフィに軽くお礼を言い、自分も木椅子を引いて彼女の正面に座す。
手早く食事を済ませ、予定通り騎士団の詰め所に行く準備を進める。
顔を洗い、歯を磨き、荷物を用意して部屋の外へ出た。
下の階へ下りて、受付の者に鍵を渡す。それから人気のないロビーを抜けて、宿屋を後にすると、眩い朝の光が覚醒して間もない意識に突き刺さった。
人もまばらな路地を抜けて、昨日通った大通りまで進んだところで、二人の視界にちょっとした鎧を身にまとった人間たちの姿が入った。
少し警戒するように、「あれが騎士団か」と燐子が問うと、ミルフィは前を向いたまま頷いてみせた。
一見して、大した腕ではないという印象を受ける。
体格もそうだが、足捌きや周囲への気配りが素人同然だ。
まあ、前線で戦わない兵士などこんなものか、と一人納得した燐子は、堂々と騎士団の詰め所のある方角に進んでいった。
途中、何度か同じ鎧を着けた人間とすれ違ったが、彼らは全く燐子を警戒することもなく、ぼさっと哨戒任務という名の怠慢に勤しんでいた。
今なら気づかれることもなく、首元をかき切れそうだ、と考えていた燐子の頭の中を読んだかのように、ミルフィが鋭い口調で指摘する。
「凄い目つきしてたけど、絶対にやばい真似しないでよ」
「分かっている、何だかんだ言って先に問題を起こすのはお前だろう」
さすがに思うところがあったのか、ミルフィは頭を掻いて黙り込んだ。
それに、今はどのみち丸腰である。
あの程度の輩相手なら棒一つあれば負けることはないだろうが、やはり刀が無ければ多勢に無勢だ。
自分たちの武器は、昨日スミスの元へと預けてきた。
ミルフィのナイフと弓は直ぐにでも終わるとのことだったが、自分の刀はやはり一晩じっくりかけて見てみないことには、分からないとスミスが目を輝かせて言っていたので、一先ず置いてきた。
おそらくスミス自身の個人的好奇心を満たすための時間も計算に入っているはずだ。
当然一日はかかるだろうと推定したので、何の問題もなかったのだが、流れ人を狙って動く者がいる以上、正直なところ、早めに回収に向かいたいところではある。
その心配はスミスも同じだったのか、丸腰はあんまりだということで、例のトカゲ剣だけは半ば無理矢理に持たされた。
銘もあるのらしいが、この剣、重すぎてどうせ使いみちにならないので、彼女が自分用に打ち直してくれるそうだ。それまではトカゲ剣で十分であろう。
意識した途端、刀とは違った重量感のために、体の重心が偏ってしまっているのが気になった。
やはり日の本の技術は素晴らしいものだった、冥土に行ったら、そう父に伝えたいものだ。
だが、どこから話せば良いのか分からなくなりそうだ、と燐子は小さく笑った。
もうじき、詰め所が見えてくる。
哨戒している騎士の数も多くなり、自然と自分たちに向けられる目線も、好奇の度合いが高まっていく。
この先に騎士団の詰め所しかないとなれば、若い女が二人で詰め所に行く、という光景が珍しく見えるのも道理であろう。
だが、と燐子は視線を左右に振って、苛立ちを募らせた。
自分たちを見つめる視線の中に、明らかに警戒心や好奇心とは違った類のもの、つまりは品のない視線が混ざっている。
誰にも聞こえぬように舌打ちをすると、隣のミルフィが、「こんなもんよ、騎士団なんて」と批判した。
途中で一人の騎士が、「どうかされましたか?」と尋ねてきたため、思わず片手を剣の柄にやったのだが、ミルフィが燐子には向けられたことのないような笑顔で、詰め所に用事があることを説明したので、大人しく様子を窺った。
しかし、相手も直ぐには引き下がらなかったため、困った表情を演じているミルフィの片手を引き、「失礼する」と足早に詰め所に向かった。
その場から少し離れたところで、ミルフィが困った演技を続けたまま「手、離して」と気まずそうに呟いたので、つい言い訳じみたことを言ってしまう。
「すまん、ああいうとき、どう振る舞えばいいか分からなくてな」
「いいから、離して」つんとした口調で繰り返すので、いよいよまた機嫌を損ねてしまったかと思ったが、振り返った彼女の顔に朱が差していたので目が丸くなった。
「恥ずかしいでしょ」
てっきり怒られると思っていた燐子は、もう一度謝罪の言葉を繰り返すと、大人しくそれに従った。
照れているのか、さっと自分から目を背けたミルフィが珍しく少女じみて見える。
頬の赤を消し去るためにか、風を切るように先を急いだミルフィの背中を追って、詰め所の敷地へと足を踏み入れる。
騎士団の詰め所は町の西端にあり、丁度、宿屋街の真反対に位置する場所に存在している。
今自分たちが通ってきた場所が、居住区、大通り、役署区に当たり、ほぼアズールの町を横断した形になっている。
詰め所は大して広い敷地ではないが、小さな屋敷一つ分くらいの広さはあるようだ。
入り口には鉄格子のような両開きの門が備え付けられており、門番が両側に眠そうに立っていた。
自分たち二人が近寄ったことで、彼らも多少意識がハッキリしたらしく、先程よりも明らかに目を大きく見開いて二人を見つめた。
「止まれ」
命令口調に眉をひそめた燐子を背中に隠すようにして、彼女の前へと出たミルフィは、またもや愛想の良い雰囲気を装い、隣村からの陳述書を持ってきたことを伝えた。
すると門番二人は、少しうんざりしたような顔つきになった後、これから大事なお客が来るから帰ってほしいと口にした。
ここまで来て、はいそうですかと帰れるわけがない。
そう思い、燐子は咄嗟に口を開こうとしたのだが、その場の誰よりも早くミルフィが困惑した表情で、「そんな…」と告げたことで、出かけた言葉を喉の奥に押し戻すしかなくなった。
それにしても、ミルフィのこの年相応の可愛らしい笑顔、喋り口調…。見聞きしているだけで鳥肌が立ちそうである。
その場に応じた対応を心がけることは、非常に大切な能力である。
理解はできるのだが、何ぶん無礼な連中は切り捨てることで解決してきた私だ、彼女のような器用な真似は、とてもじゃないができそうにない、というのが本音だった。
…というか、ミルフィの場合、普段とのギャップが激しすぎて気味が悪いのだ。
「お願いです、直ぐに終わりますから…騎士様のお邪魔にならないうちに帰りますので、何卒、どうか…」
そのように嘆願されては、騎士共も強く断れなかったらしく、直ぐに終わるならということで門を開けてもらった。
振り返って、しきりに門番たちに頭を下げるミルフィを横目で見ていると、弱々しい村娘の顔をしたままの彼女は、隣に並ぶや否や、「本当、騎士団って愚図ねぇ」と毒々しい言葉を仮面の下で吐き捨てた。
「性根が腐っているのは果たしてどちらか…」
燐子が呆れた様子で漏らす。
「聞かなかったことにしてあげるわ」と、これまた顔と言葉が連動しないまま返答された。