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竜星の流れ人  作者: null
一部 一章 侍になれなかった女
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一刀両断 壱

一章の始まりです。


異世界での侍道、お楽しみください。

 初めは、幻なのかと思った。


 死と生の狭間にて自分の命を絶とうという極限の状態が、煙と炎に投影されて幻を映し出しているのだと考えたのだ。


 しかしどうだ、先ほどまで充満していた煙の臭いもない、舞い上がっていた塵と灰と煤はどこにいったというのか。


 数秒もすれば肌を焼いただろう炎を感じずに、幻を見ること等あり得るのだろうか。


 それらの代わりに周囲には、青々とした木々が生い茂り、緊張に強張った体をさっと撫でるような自然の香りが漂っている。


 焼け落ちる城も、城を取り囲む兵士の姿も、嘘みたいに消えてしまった。


 幻以外に説明のしようがない。だが、このように何もかもが鮮明なまやかしがあるとは信じられないのもまた事実だ。


 はっと、燐子は目を見開いて、木々の隙間から漏れる青白い月光を見上げた。


 今宵は、月の無い夜だったはずだ。


 同時に、目の奥に鈍い痛みが走り、続けて手の甲が焼け付くような痛みに襲われた。


 思わず倒れ込んでしまいそうになる痛みに、小さく吐息を漏らしたが、少し目を瞑っていたら、その痛みは嘘だったかのように収まった。


 手の甲には火傷の後がくっきりと残っていて、ここが幻なんかじゃないと教えてくれているようだった。


 次に燐子が考えたのは、ここは既に幽世なのではないかということだ。


 口惜しくも追腹をする前に煙で意識が途絶えて、その未練から自分は小太刀を手にしたまま三途の川を渡ってしまったのではないだろうか。


 だとすれば、信念を全うされた父にあまりにも面目が立たない。


 燐子はついさっきまでは誇りと誉の絶頂の中にいたのに、突然崖から突き落とされるようにして失意のどん底に沈んでいた。


 騒々しく木々から飛び去る鳥の鳴き声が、やるせなさに俯いた彼女の鼓膜を打ったことで、整えられた眉の間に深い峡谷を作った。


 このように趣の無い鳥の声は初めて耳にした。


 極楽の鳥とは思えない。もしかすると、ここは地獄なのかもしれないと、燐子は他人事のように考えていた。


 意識があって、小太刀が手元にある以上、どのみちやることは変わらない。


 燐子は丹田の辺りに意識を集中させて、それから構えたままの小太刀の刃先を体に対して真っ直ぐ向け直した。


 一度しくじった割腹をやり直すというのはどうにも格好がつかないが、そうしておめおめと使命を果たせないまま、父の待つ極楽へと向かうことのほうが余程の恥辱である。


 肺に溜まった空気を吐ききって、肋骨は広げず腹部を意識し酸素を吸い込む。


 彼女はそうすることで本能的に心が落ち着くことを悟っていた。


 木々の香りが鼻腔を満たし、彼女の鼻先にため息のような落ち葉が触れて、いよいよといった瞬間、燐子の頭にこの後自分の体はどうなるのだろうかという不安がよぎった。


 醜く腐り落ちて、土に還るのか。


 それとも、獣の餌にでもなるのか。


 背筋を指先でなぞりあげられたような悪寒が駆け抜けて、思わず喉が鳴り、力が抜ける。


 そのときだった。


「うわあぁぁー!」


 突如、甲高い悲鳴が木々の間隙から見える瑠璃色の夜空に反射して、燐子の頭上へと降り注いだ。


 戦のために研ぎ澄まされてきた鋭敏な感覚が、すぐさま彼女の両足を真っ直ぐに屹立させる。

 ぴんと背筋を伸ばしたその姿は、この溝の底のようにジメジメとした暗い森にはあまりにも不釣り合いに美しかった。


 子どもの声だ、と燐子は耳を澄ませた。


 網のように張り巡らされた樹木をへし折りながら、少し遠くの方から何者かがこちらに向かってくる足音が聞こえる。


 一人、二人か、いや、片方は明らかに前方を走る何者かを追うようにして急速に接近して来ている。

 この鬱蒼とした緑の絨毯の中を、地を蹴るような猛烈な勢いで来ているという事実に彼女は違和感を覚えて身構えた。


 どちらも随分と森に慣れている動きだ。だというのに二人の距離は瞬く間に縮まっているように感じる。


 もう目の前まで気配は迫っている、燐子の身に備わった第六感が無意識のうちに警鐘を全身に向け発しており、彼女の腕は何かに命令される必要もなく自然と、そばに置いた太刀と小太刀とを持ち替えていた。


 目の前の一際大きな木の影から、小さな人影が飛び出してきて反射的に燐子は太刀を抜き放ち、戦闘態勢に入った。


 両手で柄を握る。左手で鍔に近いほうを、右手はその下の方を。


 それから半身になって、天に突き立てるような格好で太刀を肩よりも高い位置に構えた。


 しかし、その白刃の前で腰を抜かした者の姿を目にした瞬間、燐子は驚きに瞳を丸くした。


「異人、しかも、子どもか・・・?」


 金色の錦糸のような髪、ブルーがかった無垢な瞳、まさに一片の疑いようもなく、日の本の人間ではなかった。


 容姿からしてまだ十代になったばかりに見えるが、なにぶん、異人の子どもを見る機会など今まであった試しがなかったため、自信はない。それに加えてこの薄暗さだ。


 これでは男か女かすら定かではないし、怯えた様子で顔を俯けていたのでどうにもならない。


 地獄で異人の子に出会うとは奇怪な縁もあったものだ。


 そう考えて、何者だ、と素直な問いをぶつけようとした瞬間、子どもが一つ叫び声を上げて自分の背後を振り返った。


 するとその悲鳴を聞きつけて来たかのように、大きな黒い影が木の後ろから身を踊らせたのだが、その姿はこれまた不思議なことに、燐子が今までに見たことがないような四足歩行の獣であった。


 一見すると狼に似ているが、体格も狼のそれよりも二倍近く大きく、涎を垂らして開け放たれた大きな口から覗く牙は、明らかに過剰なまでの発達を遂げていた。

 特に犬歯に当たる二本は上顎から下顎目掛けて鋭く伸びており、噛みつかれれば容易く皮膚や肉を貫通できるだろうことが予測できる。


 このような獣は未だかつて見たことがない。あらん限りの野蛮さを詰め込んだ唸り声は、明らかに異人の子どもを、ひいては自分に目掛けて明確な敵意を剥き出しにしていた。


 地獄の獣というに遜色ない姿をしている。


 上質な竹を、何重にも束ねて肉付けしたようにしなやかな前足が、そろりと一歩踏み出された。


 この動きを知っている。

 互いの存在に気が付いているのに尚、気配を押し殺すようにして詰める一歩。


 相手に動きの出始めを悟らせないために行なわれる一歩。


 その後にやって来る、命を揺るがすほどの『動』のための『静』。


 燐子は視線を正面の獣から一切逸らさぬまま、未だに腰を抜かしたまま立ち上がれずにいる子どものそばに歩み寄った。


 横目で一瞥すると、こちらを怯えた目で見つめていた視線とぶつかった。


 今にもまた叫び出しそうな表情に、しばらくは立ち上がれないだろう震えた小さな体。


 これではもう逃げられはするまい、と燐子は目を細める。


「じっとしていろ」と低く、鋭く口にしながら、異人の子どもに日の本の言葉が分かるはずもないかと思い直す。


 獣は、鼻皺を寄せて唸りながらも足を止めた。


 互いの間にある距離は二メートル強、燐子はその間合いを体感で計って、思わず苦笑いをその白い頬に浮かべた。


 賢い獣だ。どこからがどこまでが両者にとって必殺の間合いになるのかをよく理解している。


 人間相手の経験が豊富なのか、それともこの種の獣が見せる天性の勘か。


 まあどちらでもいい、命を賭して全力で向かって来てくれるのなら、この際、形にはこだわらん。


 人の姿をしていようが、獣の姿をしていようが、正々堂々斬り捨てるまでである。


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