橋の上の幕間
この章では、戦いも一先ず終わりとなります。
みなさんも、適度な休憩を忘れないでくださいね。
一つ大きく荷台が浮き上がったことで、まどろんでいた頭が唐突に覚醒を強いられ、燐子は、もたれかかっていた壁から背中を離した。
少し眠りこけていたようだ、と首の骨を鳴らしながら、外との仕切りとなっている白い布のそばまで屈んだ状態で移動し、それを払いのけた。
馬車の後方に凄まじく長い橋が伸びており、燐子はほぼ無意識的に荷台から身を乗り出して辺りを見回した。
湿地とは違った、澄んだ水の香りが周囲に充満しており、その匂いの元であろう大きな湖が、橋の左右に果てしなく広がっている。
時折飛び跳ねる魚や、それを狙って空を急降下してくる鳥たちを目で追っていると、突然馬車の死角から例の馬に乗った商人の長が現れて、穏やかな笑顔で燐子に声をかけた。
「燐子様、アズールは初めてですか?」
そう問われ、アズール、と脳内を検索した燐子は、数秒かかってドリトンの言葉を思い出した。
それによって、自分が目的地に着いたことを察しながら、「ああ、そうだ」と風に負けぬよう少し大きな声で言った。
流れ人であることは、不用意に口にしないようにとドリトンに忠告されている。
別に何の問題にもならないだろうが、時には悪人に騙されてしまう流れ人もいるらしかったので、大人しくその忠告は守っていた。
「そちらは違うのだな」と燐子が何気なしに尋ねると、彼は、「自分たちは行商なので、いたるところに行きます」、と苦笑いを浮かべて言った。
正直、初めは情けの無い男だと思ったものだが、落ち着いてからこうして話してみると、中々に話の分かる男だということが分かった。
商人一座の長ともなれば、確かに他の組員の人生も背負って立っているわけで、向こう見ずな行動ができないというのも、言われてみれば分かる。
自分の一方的な考えを押し付けていたかもしれない、と反省はしたものの、気恥ずかしさもあって、改めて謝罪を口にすることはできなかった。
そもそも、あんな化け物が相手では、戦えない人間が助けに向かったとしても、それこそ無駄死にだ。
それにしても、と燐子は気を取り直して、辺りに広がる水面の美しさに見惚れた。
それでついつい上機嫌になって、商人に向かって高い声を出す。
「美しい湖だな」
「ええ、皆さん必ずそう口にされます。燐子様は、こうした風景がお好きですか?」
好き、とその言葉を頭の中で反芻させるが、結局、彼女が出した答えはよく分からない、というものであった。
それを耳にした男は特段驚く様子もなく、何度か頷くばかりである。
美しい場所は誰でも好きだと思うが、どうしてだろう、この男が聞いたのはそういう表面上だけのものではなく、もっと人間の胸の奥底に触れた問いのように感じられた。きっと考えすぎだとは思うが。
すると男は、心底明るい表情を浮かべて、馬の体を荷台に寄せ、答えたくないのなら答えなくて良い、という前置きをしてから口を開いた。
「燐子様は、流れ人なのですか?」
質問の形式をとってはいたが、その実、男の口調からは確信に近いものが滲み出ていた。
燐子は下手な誤魔化しは無意味だと判断し、短く肯定する。
男は穏やかな笑みをして頷き、「他言はしません」と印象とは違って、きっぱりとした口調で断言する。
それから燐子が何故分かったのかを尋ねると、彼は素早く返答した。
「その黒い髪と瞳は、この世界では珍しいです。それに――」と燐子の腰にぶら下がった二本の刀へ焦点を合わせて、「その武器はこの世界では一般的ではないと思います」と付け加えた。
「まあ、私のように商いで世界中を回るか、武器を取り扱っているかしなければ、それだけでは分からないかとも思いますが」
なるほど、そういえばここに来てから、まともな武器と言う武器は見ていないが、他の人間が所持している剣とは、明らかに刃渡りが異なっていた。
しかも、どうやら多くの剣が両刃の形状をしているようだった。片刃の剣は珍しいのだろう。
「それでは苦労も多いでしょう」
「人並みだ」と強がって見せる。
そうすると彼は、自分の名前をサイモンと名乗り、何か困ったことがあれば、いつでもサイモン商団を頼ってほしいと言ってくれた。
確かにツテができるのは有難い、遠慮なく頼らせてもらおう。
そう燐子が告げると、続けてサイモンは妙案だと言う風に声を高くして告げた。
「そうです、この馬を差し上げましょう」
思わぬ朗報に、「本当か?」と食いついた燐子の反応がよっぽど嬉しかったのか、サイモンは破顔して何度も頷き言った。
「この世界を巡るに、馬は必須です。美しい場所、他の町、きっとこの長い橋を渡り切るのだって馬がなければ大変ですよ」
ふと脳裏に、美しい湖にかかったこの橋を、馬で駆ける自分の姿が浮かんだ。
一度それを想像してしまったら、とてもではないが遠慮することなどできるはずもなかった。
彼らとはアズールの町で分かれる算段になっていたので、そこで馬を頂戴する約束をして、サイモンは一団の先頭へと戻って行った。
それから少しの間、身を乗り出したままで橋と湖を眺めていたのだが、不意に後ろから声をかけられて体を荷台の中に戻した。
「燐子、そんなはしたない格好で顔を出すんじゃないわよ」
またそれか、とサラシの素晴らしさを理解できない哀れな女を横目で睨む。
「もう慰めてやらなくていいのか」
半笑いを浮かべた燐子の皮肉を受けて、顔を真っ赤にしたミルフィは無言で彼女に近寄ると、思い切りその白い背中を平手打ちしたのだが、偶然サラシの上だったため、燐子は平気な顔をしていた。
「これがサラシの素晴らしさだ」と満足そうに語った燐子を無視して、ミルフィは、今度は直接肌の部分を思い切り叩いた。
台車の中に乾いた音が大きく響き渡る。
それに驚いたらしい御者が何事かと顔を覗かせて尋ねたが、ミルフィがどこから出しているかも分からない猫なで声で「何でもないです」と答えた。
痛みに喘ぐ燐子に向けて鼻を鳴らしたミルフィは、「もうすぐで到着らしいから、準備しなさい」と偉そうに吐き捨てて、また御者のいるほうへと姿を消した。
まともではないのは、私の戦い方ではなくお前の腕力だ、と心の内で呟きながら、燐子はひりひりする自分の背中をさすった。
その白磁器のような背中に残った紅葉の痕は、こすっても、こすっても消えることはなかった。