駆ける、光 弐
樹上から、商人の一団が何か口々に叫んでいたが、もうほとんど燐子たちの耳には聞こえていなかった。
ミルフィの矢とすれ違うような形で、お決まりの攻撃が飛んでくる。
最早、刀で攻撃を捌く必要もなく、燐子はその身一つでそれを横に躱し、体を捻る勢いを利用して左手で尻尾を下から切り上げた。
ここも駄目か。
喉元よりも、ほんの少しだけ手ごたえはあったものの、魔物の尻尾にはかすり傷程度のダメージしか負わせていない。
それでも、傷をつけられたことが魔物の気に障ったのか、今までほとんど動かしていなかった体を前進させ、燐子に向けて牙を剥き出しにして襲い掛かる。
周辺は比較的しっかりとした地面だというのに、魔物が歩いた場所は無残に抉れ、触れた木々は並々薙ぎ倒されてしまっている。
それだけでこの生物の怪力が伝わって来て、背筋にひりついた感覚を覚えた。
しかし、その動き自体は愚鈍で、奴が何故気配を消す術に長けた生き物なのかが分かる。
「のろまめ」
飛ぶように二歩大きく後退し、その顎から逃れると、再び襲い来る尻尾をすんでのところで躱し、二度目の斬撃を叩きこむ。
「燐子!」ミルフィがどこか遠くで叫んでいる。
、刃の無駄だな、と刀身を見つめた燐子は確実な距離を保ってじっくりと相手を観察した。
喉元も駄目、尻尾も駄目、脳天も駄目か。
全身岩か鉄で出来た大トカゲ、こちらの攻撃は当たっても効果は無いが、あちらの攻撃を貰えば、もれなく一撃で立てなくなるだろう。
冷静に自分たちの劣勢を把握した燐子であったが、だからといって逃げる素振りも、諦める素振りも一切なかった。
ただ、不敵に笑うのみである。
どれだけ外殻が厚かろうが、牙や爪が鋭かろうが、所詮は自分と同じ生き物なのだ。
完璧な生き物など存在しない。
首と胴体を切り離す、あるいは心臓を潰せば死ぬ、血を流し過ぎても死ぬ。
つまり、どんな相手であっても私にやれることは変わりない。
死ぬまで切り刻むか、急所を突くかだ。
そして、こいつが硬すぎて切り刻めない以上、狙いは絞る必要がある。
燐子はおもむろに刀を鞘にしまい、代わりに小太刀を抜き放った。
刀身が鞘を滑る音だけが頭の奥に木霊し、どこまでも透き通った感覚が全身に波紋のように広まる。
「ミルフィ、目を狙え」
「あのね、そんな簡単に言わないでよ!」
「外しても良い、頼む」
彼女らしくもない謙虚さがわずかに覗く言葉に、ミルフィもそれ以上文句は言わず、凛とした顔つきで弦を絞り、狙いを定めた。
「外すもんですか」
直後放たれた一射は、見事に眼球目掛けて空を駆けたのだが、大トカゲが顔を背けて躱したことで、矢は地に落ちてしまった。
「ああ、もう!」と悔しそうに呟いたミルフィに「いや、これでいい」と苦笑いで返す。
燐子は、今まででも最高の速度で相手に接近した。
一気に縮まる相手との距離に、心臓の鼓動が急速に拍動していくのが分かる。
手の甲に焼き付いた火傷の痕が疼いた。
あの日、私の全てを燃やし尽くすはずだった炎の残り火が煌めく。
指先の先の先まで、もしかしたら指の周囲にある空気すらも、自分の思い通りに動かせるのではないかと錯覚してしまう。
今こいつは、こちらの攻撃を始めて避けた。
他の攻撃は全く意にも介さなかったくせに、今回ばかりは反応したのだ。
つまり、狙うは眼球。
目の前の相手に関すること以外、何もかもが自分の中から遠のいていく。
声も、景色も、風も、臭いも、もしかしたら、自分の命すらも遥か後方に置き去りにしてしまっているかのような、奇妙な高揚感が胸に宿っている。
今なら何でもできるような気がした。目の前の妖怪じみた相手にも、何の恐怖も感じられなかった。
迫りくる大きな両顎が見える、だが遅い、こんなものに捉えられるほど、私の動きは鈍くはない。
半歩横に動いて、その必殺の一撃をすんでで躱す。
眼前でぎょろりと、粘っこく光る瞳がこちらを見つめている。
呼吸が、落葉が、風が、光の粒が、それの全てが止まって見えた。
――勝機。
渾身の力を込めて、小太刀を左手に構え、その禍々しいガラス玉に向けて突き立てる。
箒星のような直線を描いた、迷いのない強烈な刺突がまず角膜を貫き、次にレンズを穿つ。
耳をつんざく魔物の悲鳴が辺り一帯に轟く。
その痛みによって、大トカゲが滅茶苦茶に頭を振り回したことで、燐子の体もつられて左右に激しく振られ、ついには両足が地面を離れてしまった。
「手を離して!」とミルフィが叫び声をあげる。
離すものか、とミルフィの願いとは逆に、燐子は余った右手でも小太刀を握り直す。
それから深々と突き刺さった小太刀を支えに体を曲げて、両足を魔物の顎に押し付け、両腕に一層の力を込める。
もっと、深く突き立てる。脳髄に届くように。
悲鳴、揺れる体。
止めを刺す、この一撃で。
悲鳴、唐突な浮遊感。
燐子は、自分の体が宙に舞い上がってしまっていることを、ぼんやりとした思考で認識しつつも、その回転する景色から自分を切り離していた。
両手からは小太刀が消えている、ふと下を見つめると、それは奴の眼球に刺さったままであった。
自分の落下地点で、魔物が私を深淵へと引きずり込もうと大きな口を開いている。
その虚ろで赤い穴に、体が真っ直ぐ吸い込まれていくのを感じ、目を瞑った。
静かだ、と戦いに集中している自分とは、別の自分らしき誰かが考えていた。
途端に火傷の痣が熱くなったが、それに反比例するように、頭の中は冷静になっていくようだった。
くるりと空中で姿勢を回転させて、太刀を抜き払う。
そのまま両手で逆手に握り、垂直に魔物の口腔目掛けて直下する。
燐子は、駆け上がるように、落下した。
これで――。
「仕留める」
半端に閉じたトラバサミのような口へと、流星じみた勢いで突き刺さる刀身。
その衝撃と、感触に、燐子は無感情なまま口元を歪めるのだった。