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竜星の流れ人  作者: null
一部 三章 駆ける、光
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不穏の森

「どういう風の吹き回しなのよ」


 自分の後ろに乗ったミルフィが叫ぶ声が、風を切る音に混じって燐子の耳に聞こえてくる。


 先程まで大はしゃぎしていたことを誤魔化すかのように、つんとした口調だ。


 振り落とされると危ないから背中にしがみついておけと命じたのに、道理の通らない意地を張って、鞍に両手で掴まっている。


 普段なら、小言の一つも言いたくなるミルフィの態度であったが、今はそんな気分にはならなかった。


「馬に、乗りたくてな」


「はぁ?」


 それだけなの、と呆れたように、風の声に負けないよう口を大きく開けて叫んだミルフィの存在を背中に感じながら、きっと彼女には分かるまいと燐子は小さく微笑んだ。


 随分久しぶりに、馬で大地を駆けている。


 彼らは、私達では到底及びもしない速度で、この世界を巡る風に追いつこうとするように駆けていくのだ。


 こうして馬の背に跨り、風を感じていると、あの頃も、嫌なことは一切合切忘れることができていた気がする。


 思わず上機嫌になって燐子は背後を振り返った。


「風が気持ちいいな、ミルフィ」


 彼女はきょとんとした表情でこちらを見つめた後、優しくも、呆れに満ちた笑みを刻んで燐子の目を見据えた。


「ええ、ちょっと揺れるのが怖いけど」


「はは、それが良いのだ。今だけは、何もかも忘れられる!」


 自分たちがこれからしようとしていることを考えて、それはどうなのだと冷静にミルフィが発言した瞬間に、二人の姿を幾重にも広がる濃い影が覆った。


 件の道に入ったのだ。


 生い茂る木々が頭上に広がり、やけに冷たい湿気を帯びた空気が、泥の隙間から溢れ出してきたかのようだった。


 燐子は細心の注意を払いながら、段差やぬかるみを避けて、奥へ奥へと巧みな馬術で駆けていく。


 結局、元来た道を引き返すよりも、湿地の出口側から抜けて、逆側から例の林道に入っていくほうが確実に早いという話になって、燐子たちはそれに従って森に入ったのだ。


 湿地の街道を歩いていたとき左手に見えていた、泥の床がどこまでも続く森へと向かっているというわけだ。


 どこまで戻る必要があるのかは分からないが、商人たちの話が本当なら、分かれ道まで戻る前に馬車の残骸くらいは見つかるだろうと、燐子は予測していた。


 望郷も、記憶の底をさらうのもここまでだ。


 足場が悪くなるにつれて、馬上の揺れも激しくなっていく。

 ついに耐えられなくなったのか、ミルフィも、ようやく素直に燐子の腰に手を回して、辺りの様子を窺い始めた。


 どれだけ目を凝らしても広がる限りの泥の森。

 その粘着質な重みに塞がれるかのように、二人の間から会話がなくなっていた。


 もう30分も駆けているだろうか、というところで、とうとう事態に動きがあった。


「見て、燐子!」


 見えているさ、と内心思いながら数十メートル先の光景に焦点を合わせ、渋い顔をしてみせる。


 やはり、間に合わなかったか。


 眼前に近づきつつある一つの残骸。

 車輪も馬もいなくなってしまった、馬車とは呼びようのないそれを凝視し、ゆっくりと馬のスピードを緩める。


 馬が横たわっていただろう溝には、夥しいほどの鮮血が零れ、泥に混じっていた。

 思わずぞっと身震いをする。


 馬を食ったのか、それともただ殺したのかは不明だったが、周辺に人の姿はない。


 辺りを警戒しながらミルフィが地面に足をつけると、血溜まりに顔をしかめながらも、そろりと馬車の残骸に近づき、中の様子を確認した。


「気をつけろ」と燐子が警告すると、「分かってるわ」と元のつんけんした口調で呟くように答えた。


 燐子は、しんと静まりかえった木々の列がかえって不気味に思えて、自分の中の警戒心が加速度的に上昇していくのを感じながら、ミルフィの報告をじっと待っていた。


 それから直ぐに彼女が残骸の裏から顔を出し、悲壮感に溢れた顔で首を左右に振った。


「誰もいないわ」


 情けのない声で、「やっぱり、もう…」と加えた彼女を馬上から見下ろした燐子は、もう一度周囲の確認をすると、地面に鮮やかに降り立ち、馬をなだめながら自分も残骸の周りを観察した。


 明らかに何かが暴れたように木製の馬車は歪み、金具も当然のように吹き飛んでいる。


 泥についた足跡や爪痕などの痕跡も、その主の大きさを物語っており、燐子はごくりと無意識のうちに喉を鳴らした。


 本当にこのような巨躯を持つ生物が存在しているのか?


 こんなものに襲われれば、人間などひとたまりもないのではないか。


 最早、生存は絶望的、せめて遺品の一つでも持って返ってやるのが、せめてもの情けかと思い、再び捜索を始めた燐子だったが、そこであることに気がついた。


 人間のものらしき血痕がない。


 それに襲われたのであれば道具や、服の残骸なんかも残るはずだ。


「燐子」


 考え事をしていた彼女は、名前を呼ばれて直ぐに声のしたほうへと移動した。


「これ見て」


 ミルフィが地面に向けた指の先を追うと、そこには、明らかに巨体が通っただろう獣道ができあがっていた。


 泥と木々を押しのけ、へし折り、進んだ痕跡だ。


 燐子は馬の鼻面を撫でて、危険なときは逃げるように優しく囁いたあと、ミルフィとその道の奥へと進んで見ることに決めた。


 もちろん馬にその意図が通じたかは分からないが、馬は息を漏らしながら燐子の手に頭を擦り寄せていた。


「油断するなよ」


「そっちこそ」


 お互いに全神経を集中させつつ、忍び足で奥へと進んでいく。


 先へ行けば行くほどぬかるみは酷くなり、天井に広がる木々もその密度を増して、夕方のような闇を辺りに充満させている。


 死地の匂いがする、と燐子は自然と察していた。


 それを悟ると同時に心臓の鼓動が激しくなり、彼女の五感を獣じみた高さまで研ぎ澄ましていく。


 かすかに漂ってくる、様々な生き物の呼吸のような気配、光の濃淡が生み出す死角。


 つい最近まで、自分が身をおいていた戦場とはまた趣が違うが、ここもきっと似たようなものだ。


 獣道らしきものが途絶え、大きな木が枝葉を伸び伸びと広げている、少しだけ開けた場所に出る。


 ここで終わりなのか、と不審に思って燐子ははたと足を止める。


 無言で周囲を見渡していたミルフィに目配せをして、周囲の警戒を怠らないように伝える。


 奇妙だ、確かに生き物らしきものの痕跡はここまで続いていたはずだ。それに人が死んだような痕跡も見当たらない。

 上手く逃げたのか?

 いや、そんなはずはない、道中、人に会わなかったし、直ぐさま逃げ帰っていたのだとしたら、既にキャンプ場に到着しているはずだ。


 ふと、燐子の視界に妙なものが映った。


 それは、とても自然物とは思えないほど鮮やかな色をしていたため、彼女の注意を引いた。


 泥の少ない地面に膝をついて、それを手に取る。


 人形だ、と燐子が口にしかけたとき、頭上に何者かの気配を感じ取って反射的に顔を上げる。


「あ」と小さく声が漏れたのが聞こえた。


 不自然に動きを止めた燐子の視線を素早く追ったミルフィが、今にも火花の散りそうなほど明るい顔つきをして大声を出す。


「良かった、無事だったのね!」


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