衝突 壱
ざわつく鳥の囀りに混じって、外のほうから騒がしい人の声が聞こえてくる。
その声で覚醒した燐子は、隣の寝床がもぬけの殻になっているのを確認すると、重い体を無理やり起き上がらせた。
一体何の騒ぎだろうか、と彼女が天幕の隙間から外を覗くと、十人近い人々が輪になって何事かを荒い口調で話し合っていた。その中心にはミルフィの姿もある。
昨夜やっとの思いでキャンプ場まで到着した二人は、空いている天幕を借りて死人のように重い足取りで中に入ってから、湿地に広がっていた泥のように眠っていた。
そのためか、目覚めたところで体は重く、まともに思考が回転してくれない。
燐子は一先ず、顔でも洗ってこなければと天幕から身を出した。
近くの水場で顔を洗い、口をすすぐ。
湿地とは違う澄んだ清流の水が、朝の粘ついた気分をすっかり消し去ってくれた。
水温はかなり冷たくはあるものの、それもまた爽快感の一助となっているようだ。
燐子は、顔についた水分をシャツの袖で拭き取りながら、例の集団に近づき顔を出した。
ほとんどの人間が燐子の顔を見るや否や、訝しげな目つきに変わったものだが、ごく数名は彼女を観察するような視線になっていた。その中には当然ミルフィの姿もあった。
「一体どうしたのだ、日も昇らぬ前から」
「燐子、アンタ寝てたんじゃないの?」
質問に質問で返されたことで、燐子はムッとした面持ちになったものの、直ぐに彼女の代わりに他の人がそれに答えてくれたことで、何とか緩和された。
「それが、彼らの二番車が、まだこのキャンプ地に到着していないみたいなんだ」
ミルフィの代わりに口を開いた中年の男性は、少し離れたところで、不安と悲壮に沈んだ商人らしき一団のほうを指差しながらそう答えた。
一団の中には、思いつめたように俯いている男や、泣きじゃくっている子どもの姿がある。
詳しいことは分からないが、どうやらただごとではない何かが、話の裏にまだ潜んでいるようらしかった。
「それの何が問題なのだ」
一団のほうを首だけ曲げて見つめていた燐子が言うと、彼らは困惑したように互いに顔を見合わせ、彼女の知り合いらしいミルフィのほうを向いた。
ミルフィは愛想笑いを浮かべて肩を竦めてから、燐子がここらの人間ではないことを説明した。
ややこしくなるのを避けたのだということは分かっているが、ここらの人間どころか、自分はこの世界の人間ではないのだがな、と内心で鼻を鳴らす。
彼らは得心した様子で頷くと、ミルフィに一通りの説明を任せた。
「昨日話したでしょ、その二番車は、例の近道のほうに進んじゃったみたいなのよ」
例のというと、秋冬でなければ使えないと言っていた道のことだな、と燐子は即座に察したのだが、二番車の商人が、何故そのような危険な真似をしたのかが不可解であった。
その理由を尋ねたところ、どうやら昨夜遅くは霧が出ていたらしく、きっと道を間違えたのだろうということである。
燐子は、深刻そうな表情でああでもない、こうでもないと話し合う面々を一瞥し、黙ったままで踵を返し、天幕に戻ろうとした。
その背中に責めるような口調で声をぶつけてくるミルフィを、ゆっくりと振り返る。
「ちょっと、どこに行くのよ」
「寝る」
「はぁ?」
言わねば伝わらないか、と燐子は無感情な様子で呟く。
「私には関係ない。今はしっかりと体力を回復して、残りの旅路に備える」
あまりに冷酷な一言に、ミルフィは慌てて燐子を引きずって、自分たちの天幕の前へと移動させると、急に般若のような顔つきになって、小声で怒鳴りつけた。
「アンタねぇ、言うに事欠いてあんなこと言うなんて…もう少し周りの人の気持を考えなさいよ!」
「考えてどうなるのだ」
彼女の発言に面倒くさそうに口元を歪めた燐子は、ちらりと先程の商人たちを窺った。
こんなことは別に珍しくもなんともないであろう。
戦中の時世において、何も失っていない人間のほうが珍しい。
しかもこの異世界では、魔物とやらの被害も日々馬鹿にならないようで、あちらこちらで色んな人が迷惑を被っていると聞く。
実際、カランツでも畑を荒らされたり、家畜が襲われたりしていた。
人間が、直接危害を加えられるということはほとんどなかったものの、彼らが人を襲うのは身をもって知っている。
一際大きな声で小さな男の子が泣き声を上げる。
それを見て、燐子は合点がいった。
「エミリオを重ねたか」
図星を突かれたらしいミルフィは、焦ったように視線を彷徨わせて吃り、適当な理由をつけて誤魔化そうとしていたが、彼女の本心はもう既に透けて見えている。
彼女の弟への接し方を鑑みれば致し方ないが、それで同情したところで、私達にできることなどない。
ミルフィはまだ話し合いを続けている集団を一度だけ振り返り、それから顔を近づけ、声を潜めて早口で提案する。
直ぐそこに迫ったミルフィの首元から、ふわりと良い香りがした。
「あのさ、いや、まあアンタの言うことも一理あるわけだけどさ、あの…何とかしてあげられないかなぁ?」
「…何?」
眉をひそめた燐子の顔色を窺うように、ミルフィが普段ならしないような卑屈な笑顔を作ったことで、燐子は少し気後れするように瞳を曇らせた。
気の強いミルフィが、こんな顔をしてまで頼み事をすること自体が珍しい。
燐子からすれば、そんな態度をとられては断りづらくなってしまうし、あまり彼女に情けのない笑みを浮かべてほしくもなかった。
かといって、今更自分たちに何ができるというのか。
「いや、だってさぁ…」
未だに険しい目つきをしている燐子から、さっと目を逸らすと、ミルフィは言いづらそうに口ごもった。
そんな二人の様子を数名がじっと見つめていた。
それから彼女はようやく意を決したように面を上げたのだが、結局、もう一度俯き気味になる。
「…可愛そうじゃん」
そう言って上目遣いで見てくるミルフィに、燐子は小さくため息を吐いて腕を組んだ。
「ミルフィ、お前、言っていることが無茶苦茶だぞ」
昨晩は、何があったってその道には行かないと口にしたではないか、と燐子が付け加えると、やはり口の中でもごもご言いながら、結局もう一度、「だって、可愛そうじゃん」と呟くばかりだ。
「そもそも、またあの道を戻るのか?」
寝る間も惜しんで、数時間をかけてここまで歩いて来たのに冗談ではないし、そもそも助けが間に合うとも思えない。
一時の感情に惑わされて、無駄足など踏むべきではない、そのことが分からないミルフィでもないはずだが…。
「それは…」
「現実を見ろ、昨晩の話だぞ?何時間経ったと思っている」
理詰めされるのが苦手なのか、それとも自分の中で必死に葛藤しているのか、ミルフィはぶら下げた両の拳に力を込めて震わせて、唇を噛み締めていた。
それでもやはり納得できないのか、小さく否定の言葉を繰り返している。
駄々をこねる子どものような態度を重ねる彼女に、次第に苛立ちを募らせていた燐子は冷酷な口調できっぱりと告げることにした。
「どうせもう――死んでいる」