落城 弐
日本の死生観って、とても独特で私は好きです。
今こそ、死ぬる時、と燐子は、自分たちのような人種にしか味わえない歓喜を感じながら男の言葉を待っていた。
男は娘の顔をじぃっと見つめた後、力強く彼女の肩を握った。
「それでこそ、私の娘だ、侍の誉れだ」
その一言は、今の燐子にとって自分の命よりも価値を持っているように感じられた。
自らの心臓をくり抜いて頭上に掲げ、空いた隙間に父が告げた『誉れ』を厳かに並べたい、と心の底で跪いて願った。
父の手から髪紐を受け取り、再び後ろ髪を結い上げる。
気づけば、自分たちの数メートル先まで火炎の舌が迫っていた。
もう一刻の猶予も無い。
「燐子」
「はい」
「介錯人を頼まれてくれないか」
「身に余る光栄でございます」
介錯を任された、ということは、父が自分の腕を見込んでいるということだ。
父のように偉大な侍の介錯人を務められるという事実に、燐子は万感の想いに声を震わせてそう答えた。
男は慣れた手付きで甲冑を脱いでいくと、最後に上半身裸になって小太刀を手にした。
燐子はそれを見て深々と頭を下げると名を名乗った。
鍛え抜かれた肉体があのような細い刃で貫き通せるとはにわかには信じがたかったが、実際はその小太刀は業物である。容易に人間の肉体程度は貫通し、切り裂くだろう。
周囲は煙でほとんど何も見えないというのに、不思議と自分たち二人がいる空間だけはやけに煙が薄い。
これもまた、戦の神が父を認めたということなのかもしれない。
神秘的にも思える狭間の中、父が両膝をついて小太刀を逆手に構えた。
それを確認した燐子は流れるような所作で腰にぶら下げた刀を抜いた。
それに従うように黒髪が舞い、白刃が鞘を滑る感覚がより一層緊張感と感激を加速させる。
「お前を男として産んでやれなかったことだけが、我が人生における後悔だと考えていたが、どうやら杞憂だったようだ」
「私は父ほど偉大な人間を知りません」
「うむ、私も燐子を誇りに思っている。」かすかに憐憫を込めて呟く。「だが、お前にもまだやりたいことが沢山あっただろうに…」
「今のままでも十分、私は幸せ者です」
その一言に男は「そうか」と二度呟き、何か物言いたげに燐子のほうを真っ直ぐと見た。
「燐子、お前は…」そこで言葉を区切り、首を振って何でもないと言葉を濁す。
いよいよその時だと確信したのか、それ以上は言葉を発さずに両手に力を込めていた。
刀を自分の頭上よりも高い位置に両手で構えて、その刹那から目を逸らさないように全神経を張り巡らせた。
音という音が、この世界から霧散していく。
弾ける木の音も、燃え盛る紅蓮の熱も、死をその身に潜ませた煙も、
何もかもが今は等しく静まり返っていた。
燐子の手に握られた刀の刀身に、朱色の光が明滅し、揺らめいている。
先程までは敵兵の命を屠るために騒々しく風切り音を響かせていた刃が、今は先祖の御霊前に立っているかのように厳粛さを保っている。
その瞬間が、来る。
それから先は、本当に一瞬のことだった。男が小太刀をその腹に突き立て、刃を引き回した刹那、稲光が走ったかのように燐子の持つ刀が弧を描く。
舞い上がる鮮血が、一体どちらの傷から噴き上がっているかも分からないぐらいに、どちらも全く迷いのない動きであった。
皮一枚だけ残した首が抱かれるように胸に滑り、男の体が前のめりに倒れる。
鮮やかな太刀筋を描いた刃を手元に戻し、懐紙を使って血を拭き取ると、燐子はその場に両膝をついて途切れ途切れの長息を吐いた。
見事な終いでございました、と心の中で呟きながら抜き放った太刀を静かに鞘の中に納める。
名誉ある行いだとは分かっていても、どうしても捨てきれなかった家族としての情が、燐子の丸い瞳を潤ませ、震えさせた。
侍としては、恥ずべきことだ。誇りに思うべきなのだ。
そう、泣いてはならない。正しいことをしたのだ。
正しいことを…。
突然、前方の天上がけたたましい音を立てて崩れ落ちてきた。
巻き上がる粉塵や煙が広間全体を覆ったので、反射的に口元を抑えたものの煙が気道に侵入することを防ぐことは叶わず、激しくむせ返った。
一刻も早く追腹をせねば、と彼女は素早い手付きで鎧を脱いで先程男がしたのと同じように小太刀を構えた。
最早何も見えないが、周辺を包む業炎の熱気と煙のお陰で、自分が今彼岸と此岸の狭間に座り込んでいるということだけは分かる。
両手に力を込めて、もう一度だけ息を長く吐き、目を瞑る。
死ぬのは怖くない、むしろ追腹で死ねるのは本望だった。
ただ――父が言った最期の言葉が、頭の真ん中で繰り返し響いていた。
『時代さえ違えば、お前は誰よりも優れた武芸者として名を馳せただろう』
『お前にもまだやりたいことが沢山あっただろうに…』
まだ、やりたいこと?
馬鹿な、そんなものありはしない。十分に好きなことをして生きてきた。
戦場を駆け、敬愛すべき父の背中を追い、武芸を磨くことに全てを捧げてきた。
例え、侍にはなれなくとも。
胸の奥が、焦げ付くように疼いた。
愚かにもほどがある、そう思うのに笑えない自分がいて、それが無性に腹が立つ。
時代さえ違えば、私は違う生き方を選んだのだろうか。
身分や性別に縛られず、侍を名乗れる人生だったのだろうか?
いや、あるいは、生まれた世界が違えば――。
瞬間、自分の中から音が消えた。
その感覚は、極限まで集中したときとは違って、まるで何もかもが遮断されたかのようなものだった。
木が弾ける音でようやく我に返って目を開けた時、燐子の黒曜石のような瞳には信じられない光景が広がっていた。
プロローグはここで終了です。
次回からは、舞台を異世界に移します。
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