異世界の景色 弐
侍の誇りのために死なねばと思っている自分がいるのは確かだ。
だがここには、自分が義を全うした後に、誇りを讃えてくれる人間が一人もいないこともまた確かである。
そんなものに関係なく、自分の中の信念だけに従っていたいのに、腹を切った後に残る惨めで孤独な残骸を想像すると、恐ろしくなってしまう。
結局、人間は、自分と他人とを照らし合わせてしか、己の価値を見定められないのだろうか。
だがだとしたら、どうしたらいい。
日の本の人間はこの世界にはいない。どうやって真の自分を見定めるのか。
この世界では自分だけが異端だ。
どこに行ったって、自分の覚悟を讃えてくれるものはいない。
ぽつりと呟いた言葉にミルフィが何か言おうとしているのが、その小さな身動きで察せられるも、それを拒否するかのように燐子は立ち上がった。
少し、弱気になりすぎたようだ。
夕日はもう山の向こうに完全に沈みきってしまっている。
山頂が燃え上がるように輝き、二人の進むべき道に一条の光が差す。
その先へと顔を向け、佇む燐子を下から眺めながら、ミルフィがまだ何事かを言おうとしていたのだが、それに気が付かないふりをして彼女は再び歩き出した。
物陰から夜の闇が這い出し、聞こえてくる虫の音も、昼間とはまた違う種類のものに変わっていた。湿地自体が不気味な気配を醸し出しているようだ。
時折飛び上がる夜鳥の羽ばたきに、体が無意識に反応する度、燐子は太刀の柄に手を伸ばしていた。
水草が無数に浮かぶ水面が、街道の右手にどこまでも続いており、左手には鬱蒼とした木々と、泥ばかりが侵食している沼地が広がっていた。
どちらからも、時々、生き物の気配を感じるが、どれも敵意のあるものではなく、警戒は必要最低限で十分そうだった。
途中分かれ道に差し掛かるが、夜空の星を見上げたミルフィが迷いなく行く先を示す。
自分も、かつてはそうすることで誤りなく方角を知れていたのだが、見慣れぬ星々ばかりが散らばっているこの世界では不可能だった。
ミルフィによれば、もう数時間も歩き通せば、湿地帯の終わりに設営されているキャンプ地に辿り着くそうだ。
それを耳にして一瞬喜んだ燐子だったが、もう数時間は歩かなければならないことを思い出して、肩を竦めた。
近道はないのかと尋ねると、ミルフィは呆れたように、じっとりとした瞳をして燐子を睨みつけ、「あればそっちに行っていると思わない?」と言った。
確かにそれもそうだと思い、肩を落として口を噤む。
ミルフィはそんな燐子を見て、エミリオにするように困った表情で笑うと、ぽつりと呟いた。
「まぁ今が秋の初めか、冬だったなら、使える近道もあったんだけどね」
気落ちした燐子を元気づけるように放ったミルフィのその一言に、ぴたりと隣を歩いていた燐子が動きを止める。
急に立ち止まった彼女を不審がるようにミルフィが声をかけるも、彼女の頭の中は別の単語でいっぱいになっていて、それに気が付かなかった。
「今…、秋、それに冬と言ったか?」
「ん、ええそうよ」
「ではこの世界にも、四季があるのだな?」
興奮した様子で詰め寄ってきた燐子に、驚き硬直したミルフィは、「あ、あるわよそりゃあ…」と力無く囁いたのだが、燐子にとっては嬉しい誤算である。
当然あるものが、ない。
そのような経験をひたすらに繰り返してきた燐子にとって、今回のことは俯き気味だった心を、前に向かせるには十分すぎるものであった。
「となれば今は春か」
「ええ、春も終わりに近づいているけど…」
そうか、と破顔した彼女は気を取り直して足を進めながら、季節によって近道が使えなくなるというのは、どういう理由なのかを質問した。
ミルフィは薄ら返事をしたかと思うと、道に転がった石ころを蹴り飛ばし、その石ころが水面に作った波紋を興味なさげに見送った。
そして、それはね、と前置きをした後に「その道ね、春から夏にかけては、手に負えない魔物が出てくるのよ。さっきの分かれ道なんだけどさ」と答えた。
手に負えない魔物、か。見てみたい気もしないでもない。
燐子は、この世界の生き物に関しても強い興味を抱いていた。
日の本にいた頃からは想像もできないほどに凶暴な生き物や、不思議な特性を持った生き物がゴロゴロ存在している。
特筆すべき点は、その知能だ。
初めに戦った魔物にしても、復讐という概念を持って、同胞の血が染み付いた刀を持つ私を狙ってきた。
それ以外で見かけた魔物たちも、敵対意識は持たずとも、高い知性を見せるものもいた。
道すがら斬り捨ててきた連中も、陣形を組んだり、こちらの腕前を察して逃げ出したりと賢明なものもいた。
そのため、燐子は彼らについて色々とミルフィにしつこく問いただし、怒られたものである。
「興味深いな」と言わずにおこうと思っていた言葉が、口をついて出てしまった。
「は?駄目よ、本当に危ないんだから。ハイウルフなんて目じゃない怪物がいるのよ?何があったってそんなリスクは負わないわ」
「分かっている、そう口うるさく言うな」
別に負けるとは思わないがな、と意地を張る相手もいないのに、燐子は頭の中で唇を尖らせていた。
彼女はそう言うと不機嫌そうに渋面を作り、キャンプ地までの道のりを互いに口も利かずに進みだした。