流れの中で
後日談風のお話です。
これで、本当に最後となります。
片目と片腕を失ってしまった燐子ですが、
それで彼女が積み上げた時間が無駄になるわけではありませんよね…。
では、お楽しみ下さい。
おもむろに窓の外を見やれば、そこには清冽な水の流れが蜘蛛の巣のように枝分かれして山間を下っているのが視界に映る。
隙間から入ってくる風には、初春の肌寒くも温もりに満ちた匂いが宿っている。花の蕾は膨らみ、鳥や虫、獣もそろそろねぐらから出てくる時期である。
彼女は無意識のうちに深く息を吸って、その芳香を堪能しようとしていたのだが、すぐに自分の衣装の調節をしていた少女に指摘されてしまった。
「あの、燐子さん。動かないで下さいと何度言えばいいんですか?」
「ん、あぁ、すまん」と首をよじって後ろを向こうとすると、「あぁ!?もう、だから動かないでと言ってるじゃない!」とまた叱られる。
頭に響くような声を出された燐子が辟易としながらもこっそりため息を吐いていると、正面の窓枠に腰掛けた別の少女が歪な笑みを浮かべて口を開いた。
「きひひ、燐子ちゃん、怒られてやんのぉ」顔を上げれば、ニヤニヤとした顔の朱夏と目が合った。「…ふん、シルヴィアが大げさなのだ」
「ちょっと、もうしませんよ!」ぼそりと文句を漏らした燐子の背中のファスナーを、ぎゅっとシルヴィアが上げる。「ぐっ…、おい、もうちょっと丁寧にだな…」
文句を重ねる燐子にあてつけるように、シルヴィアはさらに力を込めてファスナーを一気に上げた。
体全体が圧縮されるような感覚に、勝手に空気が口から漏れる。少し前に試着したときにも思ったが、このように締め付ける衣装を生み出した人間は何を考えて作ったのだろう。不思議でたまらない。
「終わりました」と首だけで振り向くと、もの言いたげなシルヴィアと目が合う。「あ、ああ。ありがとう」
一先ずお礼を口にすると、彼女はじっとこちらを見つめて、ほんの少しだけ耳を赤らめると、「どうも」と素っ気なく言って朱夏の隣に移動した。
「なぁに、シルヴィア。もしかしてぇ…」
「な、何よ」
「燐子ちゃんに見惚れちゃった?」
「ち、違うわ!ただ…、そう、自分の手際の良さに感心したの!それだけ」
きひひ、と笑い、窓枠に座ったままの姿勢で朱夏がシルヴィアを後ろから抱きしめる。小さく悲鳴を上げたシルヴィアだったが、満更でもない様子で愚痴をこぼすと、その位置に落ち着いた。
そんな二人を見て、燐子は自然と相好を崩す。一年前、ここに来たばかりの頃には考えられなかった表情だ。
朱夏の、相変わらず人を馬鹿にした様子は変わらなかったが、笑った顔からは憑き物が落ちたような純朴さ――ややもすれば、少女が大人になるときの艶やかさも感じられるようになっていた。
聞けば、あの異常な性癖も鳴りを潜めているらしく、無用な殺戮も行っていないらしい。
彼女の中で、目に見えない何かが大きく変わったのだろう。もしかするとそれを成したのは、段々笑い方が似てきたあの女なのかもしれない。
あの戦いから三ヶ月余りが経った。
鏡右衛門との死闘の最中、重傷を負った自分は、紫陽花との決着をつけた朱夏に治療され、おぶられてグラドバラン城まで帰り着くことができた。
朱夏は紫陽花を葬ったと話しており、その証拠と言って束になった紫の髪を掲げた。
多くの者が朱夏の戦果を称えたが、彼女と親しいシルヴィアやその場にいた自分は、それが嘘だと気付いていた。そもそもあれだけの傷、朱夏のような野蛮な人間に的確な治療が行えるとは到底思えない。きっと、こっそりと彼女を見逃したに違いない。
(…まぁ、私には関係のないことだ。元より、二人…いや、三人の問題なのだからな)
ちらり、とシルヴィアの顔を盗み見る。自分の首に回された朱夏の手を優しく握り返す彼女は、当時、執拗に紫陽花の髪の束を目の前で焼き払うよう言っていた。
朱夏が首を縦に振らないのを見て機嫌を悪くしながらも、彼女なりに何とか折り合いをつけてやっているようだ。
じゃれ合う二人に、妙なため息が漏れる。失望や疲労ではない、何か温かいものだった気がする。
そんな燐子を見て、シルヴィアが少しだけ不安そうに、「もしかして、苦しいですか?」と尋ねるものだから、彼女は穏やかに微笑み、「いや」と首を振った。
それを聞いて安堵した表情になったシルヴィアは、ややあって、俯きがちになって言った。
「…似合っていますよ、ドレス。素敵です」
紅葉を散らした白い顔にあどけなさを感じ、思わず、目を細める。
「そうか…、ありがとう」
素直に礼を口にした燐子を見て、二人の少女が顔を見合わせる。それから、彼女にならうようにして微笑むと、声を揃えて、「どういたしまして」と言った。
壁に立てかけられて鏡に向かう。いらぬと言ったのに、ミルフィが無理やり置いたものだ。
女なら少しは身なりに気を遣いなさい、と姑の如く言いつけられて、大人しく引き下がった自分の未来が今なら少し予測できる気がする。
(…まぁ、どうせ尻に敷かれるのだろうな。私は。ミルフィには敵わんのだから)
色鮮やかな白のドレス。露出した肩や背中、そして、心もとないレースのスカート部分がひらひらと春風に撫でられ、揺れる。
今日は、燐子とミルフィで改めて髪結いの儀を行う日だった。端的に言うと、婚姻を結ぶ日である。
やがて、会場の準備を手伝ってくると言って、朱夏とシルヴィアはこのカランツに建てられた新居から去って行った。大きな家ではないが、二階建てで、カランツの大自然が堪能できる立地の良い住まいであった。
ベッドに腰を下ろせば、シワができるとか何とか言われて怒られるだろうと考えた燐子は、穏やかな心地で窓枠にもたれかかる。
ちょうど、二人が外に駆け出していくところだった。素晴らしい戦士である二人も、この清らかな空気の中では、本来の年相応さを取り戻すのかもしれない。そう思うと、再び頬が緩んだ。
開けた窓から入ってくる風に、通す腕のない左袖の部分がふわりと舞い上がる。
今でも枕元に置いてある太刀を手に取ったときと同様に、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚に陥りかけるが、残った右手でそっと撫でてやると、その感傷も少しだけ慰められた。
あの戦いで、右半分の世界と、日の本の剣士としての自分が死んだ。
だが、それでも、私はまだ生きている。
生きなければならないと叫んだ、あの夜の熱は、未だに冷めぬままこの胸の中心で息をしているのだ。
心の中で独白を繰り返していると、下の階から誰かが上がってくる気配を感じた。ミルフィかとも思ったが、約束の時間には少し早い。
扉がノックされる。案の定、ミルフィではないようだ。彼女は私の部屋に入るときにノックなどしない。
「入れ、開いている」と無愛想な口調で燐子が告げると、ゆっくり扉が開いた。すると、その先には見たかったような、見たくなかったような顔が現れた。
一言も発さず室内に入ってきた彼女は、燐子のドレス姿を見てきゅっと口をつぐみ、それから、右目、左腕…と視線を移し、この晴れやかな日には不釣り合いな曇った顔を浮かべた。
「…おい、辛気臭い顔をするな」とできるだけ今までと変わらない対応を心がけ、燐子は声を発した。「…あぁ。すまない」
銀髪を揺らし、さらに深く俯いたのはアストレア・リル・ローレライ、王国における最高位者、女王その人である。
三ヶ月前の戦いでセレーネがアストレアを庇って死んだことは、燐子も聞かされていた。アストレア自身も重体で、命すらも危ぶまれていたらしいが、どうにか事なきを得たと駐在している騎士団が言っていたのをしっかりと覚えている。
戦いが終わってから、会うのは初めてだった。ただ、どこから聞きつけたのか、燐子とミルフィの結婚式が行うと決まった後に、アストレアは有無を言わさず一着のドレスを送りつけてきた。
寸法が微妙に合わない、自分よりも少し小柄な女性を想定されて作られているドレスが、一体誰のものか…、考えるまでもなかった。
「怪我は、大丈夫なのだろうな」
「え?」
「え、ではない。貴様も相当傷を負ったと聞いている」
あぁ、とどうでも良さそうに呟いた彼女は、「もう十分、体の傷は癒えた」と答えた。
(体の傷は…か)
彼女は、自分よりも多くを失ってしまった。
利き腕と片目を失ってしまった、自分よりもだ。
かける言葉を探している自分に気づき、燐子は少なからず動揺する。
(私が彼女に何を言おうというのだ。今日、愛すべき者と婚姻を果たす私が)
すると、アストレアがぽつんと口を開いた。
「…そろそろ、王国に戻る」
「なに?今、来たばかりではないか」
これでは、暗に残っていけと言っているようなものだと、少し恥ずかしくなる。
「無理を言って抜けて来ているんだ。…本当なら、燐子たちの挙式まで見て行きたかったが…、王国では敵も多い。なるべく、隙は作りたくない」
空元気で笑っているようにしか見えないアストレアの表情に、胸が苦しくなりながらも、ならば止めることもできまい、と視線を窓の外に移す。
すると、背中を向けて立ち去ろうとしていたアストレアは、首だけで遠慮がちに振り向き、夢遊の最中にあるみたいに、ぼそぼそと口を動かした。
「ドレス、似合っている。あの子が見たら、色んな意味で大喜びするだろうな」
「…ふ、ありがとう」
これを聞いて、アストレアは目を丸くした。
(どいつもこいつも、たかが礼一つで驚きよって…。私とて、それぐらい口にするわ)
不服さで眉間に皺を寄せていると、唐突に、振り返ったアストレアが自分に飛びかかるようにして抱きついてきた。
「お、おい、どうした急に」
「燐子、絶対に幸せになってやってくれ…。あの子の分も…」
肩を震わせ始めたアストレアにぎょっとしつつも、燐子は、彼女が未だ無限の闇の中にいることを悟った。
よくよく見ると、美しかった銀糸に白いものが混じり始めている。相当思い詰めて、夜も眠れないのではなかろうか、と燐子は考えた。
最愛の妹の死が、彼女に呪縛を与えてしまっているのであれば、それは、とても悲しいことだ。なぜなら、最愛の姉を生き長らえさせるためにとった行動が、苦しみを生んでいるということだからだ。
燐子は一つ、彼女に悟られぬよう息を吐くと、優しい指使いでその頭を何度か撫でた。痛んだ髪が指にかかるのも気にして、できるだけ優しく行う。壊れ物を扱うのに似ている。
「…当たり前だ。だが、アストレア、お前も考え込み過ぎるのはよせ。気持ちは分かるが、彼女がそれを望むとは思えん」
慰めの言葉をかけるも、彼女はいやいやと、首を左右に振るばかりだ。
「僕だけが、五体満足で生き残ってしまった。清廉なセレーネは死に、流れ人である燐子までもが利き腕や目を失っている傍らで、僕だけが…!」
「何を言っている。お前は腕や目などより大きなものを失ったではないか」嗚咽交じりになってきた彼女の肩を優しく抱き、囁くように続ける。「セレーネという、お前の半身を」
弾かれるようにして、アストレアが顔を上げた。目と鼻の先の、煌めく涙の粒に装飾された女の瞳と視線が交わって、思わず、燐子は息を飲んだ。
とても美しく、それでいて、少女然としている。
自分の知っている、頑固で、偏屈で、男顔負けの毅然とした表情をした女は、そこにはいなかった。
いつも不安に苛まれていて、自責の念を心の奥底にずっと飼い続けてしまっている女なのだ。
今の彼女が、本当の姿なのだろう。それがただ、諦観と重責、罪悪感の暗いベールに閉ざされて見えなくなっていたにすぎない。
どれくらいの間そうしていただろうか。ややあって、アストレアは「もう大丈夫だ」と呟いて、燐子から体を離した。
「取り乱してすまなかった。…情けないところを見せたな」
「ふん、気にするな。ドレスの礼だ」
目を細め、「そうか」と遅れて呟いた彼女は、またいつでも王国に来るよう燐子に伝えると、部屋の扉を開けた。
直後、ピタリとアストレアの動きが止まった。それから、小さな声で何かを呟いたかと思うと、すっと階段へと進んでいった。
扉の向こうに現れた人影に、燐子はハッと息を飲む。
呼吸を忘れたような浮遊感、我を忘れる、というのはこういう感覚だろうか、と頭の片隅の自分が考える。
しかし、それは相手も同じだった。
ぼうっと呆けたような顔つきでこちらを見つめていた彼女は、視線だけを下から上に動かして、感嘆するようなため息を吐いた。
しばし、互いに互いの姿に見惚れていた二人だったが、一際強い風が吹き込み、自らの長い髪が持ち上げられたことでようやく我に返った。
彼女はすぐに頬を朱で染めると、「…何よ」と目線を逸らした。
その仕草に、たまらない愛しさを感じて、燐子は思わず口を開く。
「ミルフィ、とても、似合っている。私の知る誰よりも、美しく思う」
それを聞いて、白無垢姿のミルフィは唇を尖らせ、きゅっと強がった顔でこちらを睨んだ。つい、にやけるのを抑えているのだ。
それぐらいは自分にでも分かるようになった。
その事実が、この上なく嬉しかった。
外は肌寒くも、暖かな日差しにさらされた春の陽気に包まれていた。吹く風は未だに冬の残滓を感じさせるが、陽光には冬から脱皮しようという春の息吹が確かに宿っている。
穏やかな風になびく風を片手で抑えながら、私とミルフィはカランツの村が一望できる丘の上にやって来た。
川のそばでは魚獲りや洗濯、水切りをして遊んでいる子どもたちの姿が見えるし、森のほうでは木を伐採したり、山菜を獲ったりしている者の姿が見えた。
帝国と王国の長い戦争が終わり、徴兵されていた男たちが村へ戻ってきていた。そのおかげで村は以前よりも活気に満ちており、明るい雰囲気に包まれている。
「んー…、風が気持ち良いわね!」
さっきまで歩きづらそうにしていたミルフィが、伸びをしながら言う。歩きづらかったのは自分も同じだが。
「確かにそうだが…、大丈夫なのか?」
「え、何が?」
「衣装だ。式の前に汚しては、方々から目くじらを立てられるのではないか?」
「あー…、いいじゃない、別にさぁ」
「『いいじゃない』とは…、お前な…」
「今日ぐらいは、みんな大目に見てくれるわよ。…多分」呆れ口調で眉を曲げる燐子を振り向き、ミルフィがそう応える。
髪結いの儀のためか、ミルフィも頭は何も被っておらず、臙脂色の髪が鮮やかにこの美しい風景に透けるみたいにして揺れた。
この場所に、今日この日に立つとなると、妙に感傷的な気分になる一方で、どこか際限のない多幸感に包まれるような気持ちになった。そして、おそらくそれは彼女も同じなのだろう。
「…どうしても、式の前に二人でここに来たかったのよ」私の予測の正しさを証明するようにミルフィが言う。「ここは、私たちの始まりの場所だから」
並び立ち、こくりと頷いて見せると、彼女はこちらに向き直り、照れくさそうに微笑んだ。
「燐子」
「なんだ、ミルフィ」
私もミルフィのほうへと体を向ける。自然と向かい合う形になった。
「私、幸せよ。燐子がどんな形であれ、帰ってきてくれて」
「それは何よりだ」と淡白に返すと、ミルフィは少しだけいじけた様子で、「もう、そうじゃなくて…。燐子はどう、って聞きたいの!」
あぁ、と首の後ろに手を当てながらぼやいた後、背筋を正し、ミルフィの目を真っ直ぐ覗き込む。
「私も、幸せだ。ミルフィ、お前のところに帰って来られて――いや、お前に出会えたおかげで、私は幸せになれた」
それは、『侍』の位に就けたためではない。
私が私でいられる場所を見つけることができたからだ。
「ふふ!そうそう、それでいいの!」
ミルフィは満足げに笑うと、ぎゅっと私の腕に自分の腕を絡めた。柔らかな感触と共に、甘く、爽やかな香りが漂ってきた。
そっとミルフィの頬に触れたいと思ったが、右腕が使えない今、私にはその術もない。
仕方がないので、首を傾けて、自分の頬をミルフィの頭に乗せた。
――私は、押し流されてここまでやって来た。
運命という、途轍もなく大きく、どうしようもなく苛烈な流れの川にだ。
多くの者たちがその濁流に飲まれ、もがきながら、あるいは、諦観しながら流れていく様を見ながら、私自身、流れされて来た一人でもある。
だが、そこに自分の意思がなかったというわけではない。
流された先で、その度に選んで生きてきた。
時に間違い、時に揶揄され、それでも自分と自分が信じている者たちの選択を信じてここまで来た。
私に己の残像を見出した者と戦い、剣士として積み重ねた時間の多くを斬り落とされたが、その先に得られたものが、この時間なら、決して悪い交換ではないだろう。
ふわり、と風が斜面から駆け上がってくる。その匂いは、すっかり燐子も嗅ぎ慣れたものになっていた。
「私はもう――流れ人ではない」
絡め取られた腕を少しだけ動かし、ミルフィの左手に自分の右手を絡める。
「私はこの世界でただ一人の侍であり、そして――」ちゅっと、キスをミルフィの臙脂色の髪に落とす。「今日、お前の妻になる女だ」
燐子の呟きを聞いて顔を上げたミルフィが、満面の笑みで目を閉じて私を見上げるものだから、もう一度、彼女に口づけを落とす。
春の風にあおられ、婚約のためのドレスと白無垢の裾が互いに擦れ合っていた。
みなさんのおかげで、一年以上続けることのできた『竜星の流れ人』ですが、
これにて閉幕とさせて頂きます。
評価やブックマーク、感想を書いてくださった方、本当にありがとうございました。
自分の実力不足を痛感する内容になってしまいましたが、まずは終えられて良かったと思います。
重ね重ね、ありがとうございました!
今度はもう少し、厚みのあるキャラクターを作ろうと考えています。
みなさんのほうでも、もっとこういうところを勉強してはどうか、というアドバイスがありましたら、
遠慮なく、お伝え下さい!
別の作品も書き始めていますので、
また暇つぶしとして付き合って下さる方がいたら、
またそのときにもよろしくお願いします。
それでは、また会う日まで
an-coromochi より