巡る季節のように、貴方を想う
セレーネは、どこまでいっても『自分』を捨てられないと思うのです。
顔にかかった生暖かい液体に、朦朧としていた意識が呼び覚まされる。
だが、目覚めないほうが良かったのかもしれない。目の前の光景は、およそ現実とは思えない、悪夢のようなものだった。
あまりに受け入れがたく、アストレアは無意識に顔に付着した血を指先で触れて、見つめた。彼女が好んで私室で使っている赤いビロードみたいな色の血だった。
バタリ、と目の前の人影が自分へと倒れ込んで来る。
血色を瞬く間に失いつつあるその唇が、自分にもたれかかった姿勢のまま耳元で言葉を紡ぐ。
「…お、お姉ちゃん…」
胸の奥を揺さぶり、憧憬の念を呼び起こす呼び方に、失われていた感覚が一気に自分の元へと戻ってくる。
「せ、れーね…?」
体の自由を奪っていた痛みは、吹き出す脳内物質が消し飛ばす。同時に、五感の全てが活動を再開し、すぐに愛する妹の甘い匂い、澄んだ声、柔らかな体の感触、端正な顔立ちを余すところなく感じ取った。
それらは、アストレアにとって救世の福音でもあったが、同時に、彼女の心を締め上げる悪霊の呪詛でもあった。
「せ、セレーネ…ッ!?――セレーネぇッ!」
「よか、った。間に合って…」
彼女の体を突き放し、目と目を合わせて言葉を交わしたいと思った。しかし――…。
もはや理解し難い奇声と共に、再度、ライキンスが尻尾を振って棘を飛ばしてきた。
避けるよう伝えるよりも前に、セレーネがぎゅっと抱きつくみたいに自分の上に覆い被る。
直後、彼女の華奢な体を通して鈍く、規則的な衝撃が伝わってきた。続いて、血を吐くようなうめき声が聞こえ、セレーネの背中に何度も棘が突き立っているのが嫌でも分かった。
「セレーネ、どけ!どくんだ!」腕に力を入れて妹を引き剥がそうとするが、どこにそんな力があるのか、彼女は全く離れる気配を見せない。「セレーネッ!」
ドスン、ドスンとセレーネの華奢な体越しに響いてくる、嫌な衝撃。その衝撃が二人の体を揺らす度に、セレーネの血で湿った唇からうめき声が漏れた。
どれだけ言っても自分の盾になることを辞めない妹は、やがて血を吐きながら、蚊の泣くような声で言葉を発した。
「お姉ちゃん…」耳元で囁かれる、吐息混じりの呟き。「体には、気をつけてね…。冬のうちは薄着しないで、春が来ても、し、しばらくは、油断しないで、体を冷やさない、ように…」
「セレーネ…!?何を言っている、どくんだ、どけッ!」
「夏は、熱中症にならない、ように…。秋は気温差も大きいから、風邪引かないで…」
「やめろ…、やめてくれ、セレーネ、頼むから…!」
「怖がら、ないで…。季節が巡るように、お姉ちゃんのこと、想い続けるから…」
少しずつ、少しずつセレーネの腕から力が抜けてくる。それに比例して、鈴のように澄んだ声も弱まっていく。
次第にセレーネの存在が希薄になっていくのが感じられて、どうしようもなく目頭が熱くなる。真珠のように目元に浮かぶ涙が、月明かりを吸い込んでキラキラと光を放った。
「駄目だ、セレーネ。駄目だ…」
自分を抱きしめていたセレーネの体が、とうとう自分にもたれかかる。糸が切れた人形みたいだった。
少し離れた場所で、「おやまぁ、頑丈ですねぇ。もう棘が出なくなりましたよ」と嘲笑を浮かべながら、ライキンスが言うが、今のアストレアにとって、そんな挑発などどうでもよかった。
自らの腕に寝かしつけるように、セレーネの体を傾ける。彼女の背中いっぱいに無数の棘が突き立てられており、赤一色で染まっていた。
朦朧とした目つきの妹を上から覗き込み、何度もその名前を呼ぶ。しかし、その瞳にはもう自分は映っていないのか、暗闇の中、声の主を探すように右へ、左へと揺れ動いている。
「ここだ、セレーネ…ッ!僕はここにいる、お前のそばにいる」
ぎゅっと、その白魚のような手を取り、握り締め頬に当てる。酷く冷たかった。そのおかげで、セレーネも自分の居場所を確かに感じ取ったらしく、大儀そうに首を動かしてこちらを見つめた。
――もう、助からない。
頭のどこかで冷静な自分が、心無い言葉を吐いた。それが認められなくて、アストレアは涙の粒を散らしながら首を左右に振った。
「セレーネ、どうして、こんなことを…!?僕は、お前のために生きていくと決めたのに――」
不意に、アストレアの言葉を遮るようにしてセレーネが口を開いた。
「…また、お姉ちゃんに会えて…本当に良かった」
別れの言葉を口にして、セレーネがその準備をしているのが分かってしまう。
「よせ、喋るな!大丈夫だ、お姉ちゃんが助けるから、すぐに医者のところへ連れて行くから…ッ!」
セレーネの指先がかすかに動く。自分の頬を撫でようとしているのが分かって、胸が締め付けられるように苦しくなった。
やがて、彼女が言う。
「ねぇ、お姉ちゃん…」もう、ほとんど聞こえなかった。「なんだ…?」
「…最期に、キス、してほしいの」
「最期なんて、言うなっ!僕は、僕は…」
ふっと、青い顔でセレーネが微笑んだ。最期の力を振り絞っての微笑だと思うと、いつまでも駄々をこねている自分がとても情けなく思えた。
強く瞳を閉じて、涙を振り切る。
僕にしてやれること、僕が、セレーネの姉として、恋人として、そして、最強の剣として最期にしてあげられること…。
ゆっくりと、彼女の上体を持ち上げる。痛みすらも、この幕切れ前の悲劇には沈黙を保っていた。
そして、冷えた唇を重ねる。
生者と死者の温度差に、自分が熱を発しているかのような錯覚を覚える。
そう、死者だ。
死んでいる。
体を離し、安らかな表情のままで硬直した妹の顔を見つめる。
そこに、一切の『生』は残っていなかった。
死だけが、体温を失いつつあっても美しさを保つセレーネを着飾っている。
何もかもが、失われた。
僕の、何もかもが。
不意に、篠突く雨のような音が夜を打った。
それは、歪な笑みを浮かべたライキンスが無数の手で拍手をしている音だった。
「全く、愉快な芝居をありがとう!さて、お代はどちらで払えばいいのかな?たとえ、陳腐な恋愛劇でも、これくらいの返礼はしましょう、紳士としては。――退屈で、手垢がついていて、反吐が出るほど自己愛と自己満足に満ちた劇でもね」
それを聞いて、冷え切っていた心が、かつてないほどの業炎を巻き上げて拍動し始める。
数分前までは痛みに喘いで、まともに動いてくれなかった体に、嘘のように力がみなぎった。
最も単純で、最も原始的な人の力の源――怒りだ。
身を焦がすような怒りに身を委ね、アストレアはゆらりと立ち上がる。
「…お前は、僕から全てを奪った」
興味深そうに自分を見つめるライキンスを虚無的な瞳で見つめ返し、さらに言葉を重ねる。
「セレーネは、僕の全てだったんだ。彼女だけが、僕の生きる意味だったんだ。それを、お前は…ッ!」
「では、死んではいかがでしょう?」
もう聞き飽きたと言わんばかりに、ライキンスが再び丸太並みの尻尾を振り下ろしてくる。どれだけ気力に満ちているとはいえ、今度攻撃を受ければ、もうアストレアは立ち上がることはできないだろう。
「ああ、そうだな」とアストレアは誰にも聞こえない声で一人呟いた。そして、次の瞬間にはライキンスの視界から夢幻の如く立ち消えていた。
「なに?」
そうして相手が驚いていたのも束の間、再度、アストレアの姿がライキンスの視界の中に現れる。
今度は、彼の懐、つまり、彼女の間合いの中に。
鯉口を切り、狙いを定めたアストレアは、邪悪な蛇の化け物が自分に躍りかかるのを見つめながら言った。
「お前を殺してから、そうさせてもらう」
刹那、閃光が瞬く。
月明を受けた白刃は、自分を握り潰そうとしていたライキンスの両腕を容易く切り裂いていた。
対するライキンスは、おぞましい絶叫を上げながらも攻撃の手を緩めることはなかった。
どうせ、また生えてくるから…そういう気持ちで残りの手を彼女に向け続ける。
彼も観察眼に長けた人間なので、アストレアが致命的に体力のないことを知っていたのだ。だから、攻撃し続けていれば、いつかはガス欠になって仕留められる、そう考えていた。
しかし…。
抜刀後、二の太刀、三の太刀とふりかざしたアストレアは、攻撃と攻撃の間に流れるように剣を納めた。かと思うと、また流れるように抜刀し、ライキンスの手を切り落とす。
やがて、それらは淀みのない一つの動きとなってライキンスを切り刻み始める。これにはライキンスもたまらず、上体を戻した。
「小癪な、死に損ないの小娘如きがっ!」
ぬるり、と伸ばされていた尻尾がアストレアを抱きかかえるようにして巻かれる。だが、彼女の体に触れる寸前、激しい居合を浴びて弾かれると、続く連続の太刀でとうとう真っ二つに両断されてしまった。
思わず耳を塞ぎたくなる悲鳴の中、アストレアは肩を上下させて息を切らしながら、憎むべき男を見上げた。
「お前だけは…、お前だけは、絶対に許さんッ!」
もはや、彼女の頭の中には使命感などという綺麗な言葉は一ミリたりとも残っていなかった。
国も、世界も、戦争もどうでもいい。自分の生き死にや、この戦いの勝敗にすら関心はなかった。
ただ、大事なものを奪われたことへの怒り、そして、それからくるプリミリティブな意思――殺意が、今の彼女を動かしている。
冬の冷気に抗うような熱い吐息が、白い霧となって空中に消える。その頃には、再びアストレアは剣を納めていた。
絶対的な力を手にしたという自負からか、かつては、追い詰められてすぐに尻尾を巻いたライキンスも、今回ばかりはそれでも攻勢に出た。
手も失い、尻尾も両断された彼だったが、それでも、まだ大きな口が残っている。
人の言葉とは到底思えない、支離滅裂な叫びと共に、邪悪な毒蛇が居合の構えに入っているアストレアへと躍りかかった。
腰を落とし、タイミングを図る。いや、図る必要性すらもうない。限界まで引き上げられた集中力が、全てを彼女に伝えてくれる。
無数の牙が生えた赤い地獄の花が開く。それがアストレアの小さな体を飲み込もうとしたとき、彼女は苛烈な一閃を放った。
剣撃を受けて、蛇の頭がのけぞる。刃になぞられ、遅れるような形で鮮血がほとばしる。
それでも、蛇は目の前の獲物を喰い殺さんと同じことを繰り返した。そして、その度に、何度も何度も剣閃を浴びる。
その行為の愚かさに彼が気付いたのは、二十以上の斬撃を受け、顔面が血だらけになり、傷の多さから皮の分厚さなど意味を持たなくなったときだった。
「ま、待て」と蛇の額に張り付いたライキンスの顔が口を動かすが、無心の闇の中にいるアストレアには、彼の命乞いなど露も聞こえない。
事実、彼女は呼吸も忘れて居合を繰り返していたため、酷い酸欠状態に陥っていた。
息ができない。頭が働かない。
脳が酸素を求めている。動きを止めて、すぐに呼吸を再開してくれと。
だが、強靭な精神力がそれを無意識のうちに拒んだ。
――あぁ、何をしているんだっけ。
繰り返すのは、納刀、抜刀、納刀、抜刀…という動き。
そうだ、僕は剣になるんだ。
愛すべきセレーネの剣。
王国の平和を脅かす魔物を、悪人を。
奸計を忍ばせる臣下を、得体の知れない流れ人を。
あの子の描く理想の前に立ちはだかる、尽くを――斬り払う剣に。
ライキンスが蛇の頭を離してその無数の斬撃から逃れようとする。しかし、荒れ狂う暴風のような斬撃の前に逃れることができず、そのまま、小間切れになっていく。
「う、嘘だ、こんな、こんなはずでは――」
そうして、刃はライキンスの顔の部分にまで到達した。十字に斬りつけられたのを最期に、毒蛇ライキンスは、首の座った赤子のような姿勢で月を仰いだまま絶命した。
王国を脅かしていた怪物が物言わぬ骸と成り果てた後、アストレアの手から真っ赤に染まった剣がするりと抜け落ち、ガラン、ガランと音を響かせた。
「はっ、はっ…」
ひゅー、ひゅー、と過呼吸状態になりながら、膝から崩れ落ちたアストレアは、どれだけ酸素を求めようとしても満たされぬ体を引きずって横たわるセレーネのほうへと向かった。
視界が霞む。黒いモヤがかかって何も見えない。
それでも、彼女のそばに戻ってくる。
全てが遠くなっていく。彼女の指先に触れていても、現実感は駆け足で去るのみ。
(僕は…お前の剣になれただろうか…?)
問いの答えは、闇に沈んだまま帰っては来なかった。
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