女王の剣
アストレアは昨夜の晩から一日中馬を駆けて、生まれ育った故郷まで辿り着いた。辺りはすでに夕闇に飲まれ、星々の輝きすら顔を覗かせている時間帯だった。
青い光を放つ月を数秒見上げた後、彼女は王宮の中へと戻った。唐突に現れた王女の姿に驚く臣下や兵士も多かったが、大事な用があって来たとだけ応えて、アストレアはその足を奥へ奥へと進めた。
やがて、彼女は下への階段を下り始める。倉庫が立ち並ぶ地下区域に足を付けると、王族と王族に許可された者だけが立ち入りを許可されている書庫へと向かった。
用心しながら戸を開けるも、中からは人の気配を感じられなかった。
(どうやら、ここも違うらしいな…)
彼女はすぐに踵を返すと城下町に戻った。再建が進んでいるとは言え、生々しい破壊の痕跡が残るプリムベールは、ライキンスを仕留め損なうことの恐ろしさを改めてアストレアに痛感させる。
次にアストレアは少し治安の悪い区域を訪れた。敵も味方もなく火の海に巻き込まれたことで、貧困街の人間も目が覚めたのか、ライキンスの捜索に協力的だった。
人々の導きに従って、彼女は竜神教の信徒らが集会で使っていたとされる寄り合い所へとやって来た。
かつては静かに竜へと祈りを捧げていたのであろうこの場所も、今ではかび臭く、神聖な存在どころか人一人居着きはしない様相である。
正面の入り口を慎重に開ける。建物のあちこちに蜘蛛の巣が張り巡らされているのが見えたが、玄関にはそれがなかった。そのことから、つい最近に人が出入りしたことが予測できる。
息を殺しつつ、剣の柄に手を乗せる。気配を殺して建物を奥へと進んでいくと、扉の下から光が漏れている部屋を見つけた。
(こんな時間、しかも、こんな廃れた場所に人が来るなど妙だ。やはり、ライキンスはこの向こうか)
深呼吸をして、高鳴る胸の鼓動を抑える。
今度こそ、逃がすわけにはいかない。隠れ家まで知られているとなれば、今後しばらくはライキンスも王国には寄り付かなくなるかもしれない。そうなると、奴に再起のきっかけを与えてしまうという可能性もある。
――ここで終わらせる。
今頃、セレーネのほうも役目を果たして終えて、戦の後始末をしているはずだ。燐子だって、負けはしない。アイツが負けるはずがない。自分だけがここで醜態を晒すようなこと、あってはならないのだ。
覚悟を決めて、扉を勢いよく開ける。すると、そこには何かしらの薬品を扱っているライキンスが立っていた。
「そこまでだ、ライキンス!」
「あ、アストレアっ…!」
苦虫でも噛み潰したかのような顔をしたライキンスは、逃げ場がないと悟ると、素早くクロスボウを構えて、手にしていた薬品を装填しようとした。
またあの薬品か、と忌々しく思ったアストレアは、彼が弾を込め、こちらに狙いを定めるよりも何倍も速く接近し、得意の居合でクロスボウを持った右腕を切断する。
「ぎゃあっ!」と情けのない悲鳴を大きな声で上げたライキンスは、その場に転がった。部屋のあちこちに散る彼の血液さえ、不浄のものに感じられた。
軽く血振るいをし、切っ先を床でのたうち回るライキンス目掛けて構えたアストレアは、猛る憤りも抑えて、氷のように冷ややかな口調で言う。
「往生際が悪いぞ。大人しくここで死ぬといい」
体から離れてしまった右腕を爪先で部屋の隅へと蹴飛ばすと、彼女はどこまでも無表情のままライキンスへと近寄った。
全身を丸めて虫のように固まる宿敵の姿を見ると、どうしても鼻白むような気持ちが抑えられず、嫌味が口から出てしまう。
「無様な姿だ…。今のお前の姿を見れば、かどわかされた信徒たちも夢から目を覚ますだろうに」
「アストレア王女は、な、何か勘違いしておられるようだ…」ライキンスは丸くなったままでぼそぼそと言った。「何だと?」
「私が夢を見せていたのではない。結果的にはそうなったとしても、初めに夢を見たがったのは彼ら民衆のほうだ。はは、民衆とは――弱者とは哀れなものですから…、夢見る生き物のくせに、自分で叶えようとはしないものなのだ」
…夢見る生き物のくせに、自分で叶えようとはしない…。
その皮肉は、奇しくもアストレア自身の胸に突き刺さっていた。
自分は、何を自ら叶えようとしただろうか。
女王の剣となったことも、再び、セレーネの大事な人になったことも、全て、妹の厚意に甘えて受動的な姿勢で得た立場ではないだろうか?
セレーネも自分に言った、たまには自分で考えろと。
(僕だって考えてきたさ。でも、その度に答えが出せなくて、迷ってしまうんだろ…)
そうして、アストレアの表情が陰ったのを、彼は決して見逃しはしなかった。
「他力本願など、浅ましい限りです。特に、才能ある人間がそうした道を選ぶとあっては、もう目も当てられない」
「貴様、何が言いたい!」
明確な挑発だと気づいたアストレアが、じろりと殺意の込められた眼差しを足元のライキンスへと向けたとき、やけに甲高い声で彼は笑った。
「くっくっく…、自分で考えない人間は、いよいよというときに選択を誤る」
蛇が鎌首をもたげるようにして、ライキンスは顔をこちらに向けた。狂気的な笑みが視界に入ると同時に、彼が手に持っている薬品に気がついた。
しまった、と目を見張ったときには、もう何もかもが遅かった。
「そう、こんなふうにね!」
引きつった笑みを浮かべたままで、彼は自分の胸目掛けて薬品の入った注射針を刺し込んだ。
「やめろ、ライキンスっ!」
醸成されたワインみたいな色の薬液が、彼の体の中に入っていくのを目にして、慌てて剣を掲げ、ライキンスの首筋へと振り下ろす。しかし、すんでのところで避けられてしまう。焦りから、狙いが甘くなっていたのだ。
「ひひ、残念でしたね…!」
徐々に肥大していくライキンスの体。その右手の甲には、妖しい光が灯っているだけではなく、驚くべきことに、もう二本ほど注射器が握られているではないか。
「まさか、お前…」
悲鳴なのか、歓喜の声なのかも分からなくなってしまった響きと共に、ライキンスは高らかに叫んだ。
「もうぅ、どうなっても知りませんよぉっ!?」
ぶすり、ぶすり、と残りの注射器が全てライキンスの体に打ち込まれる。途端に体の膨張は加速し、あっという間に屋根すら突き抜けてしまうほどの大きさになってしまった。
集会所の壁や屋根は崩落する暇もなく、外に弾き飛ばされ、民家に突き刺さり、数多の混乱を招いた。周辺の住民は逃げ惑い、絶叫を上げている。中には、ライキンスの変わり果てた姿を見て、あまりの恐ろしさに気を失う者もいた。
体の肥大化だけではなく、胴体が異様なまでに伸びたような変態の仕方は、体の長い竜、いや、どちらかというと蛇に一番近い容姿をしている。毒蛇と揶揄していたライキンスが本当に蛇になってしまうとは、皮肉なものだった。
「なんという力だ!無能な信徒や侍とやらに頼らず、初めからぁ!こうしていればよかったじゃないかぁ!」
蛇の顔面に当たる場所には、未だに口を利くことのできるライキンスの顔が確認できる。魔物を操る流星痕の力のためなのか、意識はあるらしい。しかし…。
「素晴らしいぃ!この留まることを知らぬ水脈の如き力、貴方にも分けてあげたいほどだ、アストレア王女!」
血走った目でこちらを見やる彼の顔は、もはや正気のものとは思えないほど醜く歪んでいる。そこに、かつての理知的な装いはない。あるいは、この眉をひそめたくなる不遜さ、醜悪こそが彼の本性なのかもしれない。
不愉快なものを凝縮させたような存在に名前を呼ばれ、アストレアはこれ以上ないほどに嫌悪感を露わにした。
「黙れ。お前の濁りきった邪悪な力など、一ミリ足りとも欲しくはない」
「不遜、不遜!貴方の目の前にいるのは、もはや貴方が探し続けたライキンスではない。
人間という矮小な器を超越した、偉大なる存在!この世の絶対的王たる資格を持つ存在なのだ!」
「ふっ、人を超えたと言いながら、なりたいものは人の王か。たかが知れる」
「分かっていないなぁ、王女。今の私にとって、人間も魔物も家畜同然。私以外はみな横並び!」
ライキンスは、嘲笑を隠さない顔の横で、指を一本立てて小刻みに左右に振った。よくもここまで上手に人を小馬鹿にできるものだと、アストレアは妙に感心する気持ちにすらなっていた。
すると、彼は「そうだ!」と名案でも思いついた様子で上体を起こし、詩でも暗唱しているかのように高らかと続ける。
「私が王になった暁には、手始めに、セレーネ女王を家畜としよう。バラバラにして私の胃に入れる前に、無数の魔物に嬲らせてからだ。生きる気力を奪い、死にたいと口にしてもしばらく続け、空っぽの木偶人形に成り果ててから――」
奴がその小汚い口でセレーネの名を呼び、鬼畜外道の所業としか思えない行為の数々を口にしたとき、アストレアはほぼ無意識のうちに剣を担いで飛びかかっていた。
「消え失せろ…ッ!」
跳躍し、両手で握った剣をライキンスの脳天目掛けて振り下ろす。すると、驚いたことに切り落としたはずのライキンスの左手が、一本どころか、二本、三本と生えてきて、その一撃を受け止めた。
「手だって生えちゃいますよぉ?」粘着質な声音に不快感を覚えずにはいられない。
素手とは思えないほど、刃が通らない感触に愕然する一方、怒りで沸騰した頭は無意識のうちに次の一撃を繰り出すために体へと指令を下す。
素早く剣を手元に戻し、重力に引かれる勢いを利用して唐竹割りを放つ。同時に地面へと落下したアストレアは、掌に残った感触から、弾かれるように上を見上げた。
月光をその身に受けて青白く輝くその姿は、まさに怪物と呼ぶに相応しい様相を呈している。
蛇のような体躯に申し訳程度に生えている細い手と足。ぬらりとした灰色の肌。
頭の部分にはライキンスの顔の他にも、頭部の両端にまで裂けたおぞましい口が見受けられる。そこには、カミソリのように並んだ牙と赤いチロチロとする舌が見え隠れしていた。
「ふん、人を化け物と揶揄してきた人間の末路がそれか。呆れを通り越して、哀れみさえ感じるよ」
嘲笑を浮かべて余裕を演じる。しかし、内心では突如として目の前に現れた凶悪な存在に、冷や汗が流れるような心境だった。
「余計なお世話です!」
ぶん、と丸太のような尻尾が横に薙ぎ払われる。風切り音というか、馬車でも通ったのかと思われる音がしている。
ひらりと上に飛んで躱し、剣を鞘に納める。
(動きそのものはそこまで速くない。少なくとも、人間を相手にするよりかは。だが…)
空振った尻尾が、集会所の隣にある民家へと叩きつけられる。民家は一瞬で粉々になり、破片がガラスのように辺りに散らばった。
(とてつもないパワーだ…。まともに受ければ間違いなく死ぬな)
死、という一文字が脳内に浮かび上がるが、それは彼女を止める理由にはならなかった。セレーネを嬲りものにすると口にした時点で、ライキンスを殺すことだけは決まっている。
アストレアは駆け出した。燐子すら上回るスピードで。
往復してきた尻尾をスライディングして回避すると、流れるような動作で体を起こし、間合いを詰めた。
鞭のようにしなる尻尾は、すぐにライキンスの元へと戻り、今度は真正面から叩きつけられるようにして振り下ろされた。
凄まじい衝撃と振動、そして音。
土埃が舞い上がる。アストレアが立っていた周囲が霧に包まれたみたいに見えなくなった。
羽虫を叩き潰せているか確認するかのように、ライキンスは尻尾を軽く持ち上げる。しかし、その下には彼女の姿はなかった。
不意に、ストン、と太い尻尾の上に人影が舞い降りる。体重や重力を感じさせない動きで着地したのは、剣の柄に手を添えたアストレアだった。
「おのれ、ちょこざいなっ!」とライキンスが尻尾を振り乱すより一瞬速く、彼女は跳躍した。
――狙うは首筋。一斬必殺、斬り捨てる。
正面から斬りつけても、腕に阻まれ刃が届かない可能性がある。そう判断したアストレアは、素早く相手の首の後ろに回ると、空中で体を反転させ、居合の構えを取った。
ふんばりは利かないが、ほんの少しでも頸動脈を斬ることができれば、勝負は決まる。これ以上、こんな不愉快な奴の相手はしたくない。
「引導を渡してやるっ…!」
心の中で唱えようとした言葉が、おもむろに口に出る。
そのまま、刃を走らせる。
切っ先は違えることなく、灰色のぬるりとした肌の表面を撫でた。だが、そこにはほとんど手ごたえはなく、出血も見られなかった。
(浅い、いや、分厚すぎる!)
普通の相手なら、仕留められるはずの一閃だった。空中であることを加味しても、十分、深く斬れている。ただ、この生き物の構造が、従来の相手とは違った。
ライキンスの上体がねじれる。人間であれば、背骨の都合上、ありえない動きだ。
「おや、もう終わりですか?」嘲りに反射的に舌が鳴る。「チッ…!」
「それでは、今度はこちらの番ですねぇ!」
落下に移るアストレアの体に、何本もの手が迫る。それを拒むように剣を振るうも、逆に刃を手づかみされて、そのまま思い切り崩落しかけている壁へと叩きつけられてしまう。
「ぐっ!」
背中から嫌な音がして、息ができなくなる。どこかが折れた、と直感させられる痛みが走る。しかし、悠長にはしていられない。自分がぶつかった衝撃で壁が天井もろとも崩れ落ちそうになっていたからだ。
歯を食いしばって痛みに耐え、崩落から逃れる。再び、周囲が砂煙に覆われて何も見えなくなる。
神経を研ぎ澄まし、相手の気配を手繰る。まだ動き出している様子は感じられないが、現状、追い詰められているのは自分だ。
こちらの斬撃は致命傷には及ばず、出血も見込めない。それなのに、向こうは即死クラスの破壊力をもってこちらを襲ってくる。全くもって、勝ち筋が見つからない。
あまりに強大な個の力を前に、アストレアは苦虫を噛み潰したような顔になっていた。
(このような相手と、どう戦う!?待て、落ち着け、燐子はドラゴンを倒している。どうやってやった?)
アストレアは頭を回転させて、燐子がその類稀な相手の急所を突く才能によってドラゴンを刺突で葬ったのを思い出したが、そのせいで、ますます眉間の皺は濃くなり、絶望は実体を伴って姿を現してくるような心地になった。
――自分には、居合とスピードしか誇れるものはない。
非力さゆえに、居合の力、切断力は磨き続けてきた。それで大抵の相手は両断してきたからこそ、斬ってもしょうがない、という相手への対処法が思いつかなかった。
ドラゴンを倒したと聞いて、自分は燐子に『最初から勝てるつもりだったのか?』と尋ねた。
そのとき燐子は平然とした顔で、『あれも生き物だ。急所を突けば殺せるし、血を流しすぎても死ぬ。何を恐れる』と言ってのけた。
不遜な彼女らしい物言いだと思ったが、今なら分かる。燐子のその豪胆さ、不撓不屈の精神力の凄まじさが。
(とにかく、何度でも居合を試すしかない。僕にはそれしかないんだ。深く集中して、剣撃の精度と速度を――)
そう考えていたアストレアの耳に、何かが空を裂く音が聞こえてきた。敵の気配は動いていないのにと身構えていると、突如、砂煙の中から鋭利な棘が飛来してきた。
「なっ…!?」あまりに唐突だったし、予想もしていなかったので、棘は真っ直ぐ彼女の左肩を貫いた。「あうっ!」
アストレアからは滅多に聞くことができない甲高い悲鳴が上がる。何が起こったのか理解できていないうちに、棘が次々と弾丸のように飛んでくる。
一本、かろうじて身をひねって躱す。続く矢はなんとか剣の腹で弾いたが、三本目が脇腹をかすめてふらついたところに、四本目が飛んできて太ももに突き刺さった。
直撃の衝撃がアストレアの身を襲う。後方に弾き飛ばされた際、瓦礫につまずいてそのまま後ろに倒れる。
――しまった、太ももは不味い…。
致命傷になりかねない一撃に顔を歪め、情けのない息遣いが口から漏れるのを必死に抑えていると、昂りの絶頂にあるかのような声色でライキンスが独り言を口走った。
「なんと、クロスボウなどより、ずっと素晴らしいじゃないかぁ!ハエのように鬱陶しかったアストレアを標本にできそうだぞぅ、これはぁ!」
黙れ、と罵ろうとしたが、上手く口が動かない。
肩と太もも周りがじんじんと痺れ出して、全身に力が行き届かなくなってきた。
それでも、精神力だけで手放していた剣を握る。カチャリ、と鳴った音に、ライキンスが耳聡く反応してこちらを向いた。
「おや、死に損ないがまだやる気ですか?涙を流して命乞いさえすれば、地獄の苦痛を与える時間は短くして差し上げますよ?」
勝ち誇ったライキンスの言葉に、顔を上げて睨みつけてやろうと思ったが、体が反応しなかった。心なし、視界も暗くなってきた気がする。
自分の体力の無さを忌々しく思いながら、意識を保とうと集中する。しかし、その尽くが上手くいかず、視界が霞がかってくるのを止められない。
そんなアストレアの様子を見て、ライキンスは途端に無機質な声になった。
「――なんだ、もう終わりですか。つまらない、実につまらない」
彼は自分の力を試すため、この国に残った人間を覆滅した後、連合軍、及びに燐子、そして鏡右衛門すら自らの手で仕留めると宣言した。そして、埃でも払うような調子で尻尾を動かし、「羽虫め」とぼやき、棘を飛ばした。
死ぬ。殺されてしまう。
自分の命など、どうでも良かった。当然、恐怖もない。
脳裏に去来するのは、愛する妹の顔と、優しい声だけ。
『…私の、ためだけに…』
――セレーネ…。
呟きは空気を震わさず、無慈悲で鋭利な棘は、深々と華奢な体を貫き、鮮血を巻き上げるのだった。
みなさん、お疲れさまです。
みなさんのちょっとした楽しみになれればと、執筆しておりますが、
一ミリくらいはそうなれているでしょうか?
何はともあれ、ご覧になって頂きありがとうございました!