綺麗なもの
気づけば、寂寞の夜闇が辺りを覆っていた。霧のように静かに立ち込める暗闇を、星と月の輝きがわずかに照らす。ちょうど、朱夏の目線の先の小さな池には青い光を放つ月が丸く映っていた。
中には魚一匹いない。水が死んでいる、と朱夏は未だに熱の冷めやらない頭でそう考えていた。
(こんなに気持ち良い夜、生まれて初めてかも)
耳を澄まさなければ聞こえない夜の風も、虫の音一つ聞こえない静寂も…。邪魔者のいない月夜の晩に与えられた全てが、自分を満足させているのが分かる。
今までは、飢餓感というか、孤独感というか、とにかく形容し難い感覚で夜も落ち着けずに眠れないことが多かった。だからこそ、自分の胸の奥がこんな充足感で満たされていることが信じられなかった。
体の熱が抜けてない。冬なのに薄着でもいられることがその証拠だ。
すっと、目を閉じる。ふと、目蓋の裏側に宿る闇が、自分に囁きかけてくるような気がした。
――今日が、その日なんじゃないの?
誰の声かも分からない声に、朱夏は薄幸の少女の如き微笑を浮かべ、「そうかもね」と呟く。すると、その呟きと同時に彼女の近くに人がやって来た。
「何の独り言かしら?」紫陽花である。
「んー、何でもないよ」
隣に立つ紫陽花を下から見上げた朱夏は、彼女が着物の襟を必要以上に正しているのを見て、いたずらっぽく白い歯を見せて笑った。
「えへへー、体のほうは大丈夫?紫陽花」
「…まぁ、別になんともないわ」
「そっかぁ。でもきっと、明日あたりには筋肉痛になるよぉ。普段は使わない筋肉を使ったからねぇ」
「まぁ!全く、少し黙りなさい。本当に品のない子ね」
紅葉を散らした顔で目くじらを立てた紫陽花は、そのまま朱夏の隣に自然な動作で腰を降ろした。ずっと、そうして彼女の隣にいたような感じが紫陽花にはあった。
そうして、二人はしばらく他愛のないことを話し合った。
紫陽花が朱夏の家庭教師として鏡右衛門から呼び付けられ、初めて出会った日のこと。
出世して忙しくなっていく紫陽花と鏡右衛門に腹を立てた朱夏が家出をして、それを一晩中駆け回って探し出した日のこと。
特師団員となった紫陽花に数々の見合い話が舞い込んできて、朱夏が機嫌を損ねた日のこと。
そして、紫陽花が朱夏の家庭教師を唐突に辞めてしまった日のこと…。
朱夏が責めるような口調でその日のことを問うと、紫陽花は困ったように微笑んで顔を背けた。明らかに誤魔化そうとしているのが分かった朱夏は、相手が逃げられないよう左腕で彼女の右腕をホールドして、問いを重ねた。
観念したような小さなため息を吐いた紫陽花は、やがてゆっくりとした口調で理由を口にし始める。
「朱夏の気持ちには気付いていたわ。それこそ、ずっと前からね」
「嘘ぉ、じゃあ、なんで私の先生やめちゃったの。両想いだったんなら、ずっと続けてくれれば良かったじゃんか!」
「そういうわけにはいかないわ。だって、貴方はあの鏡右衛門様の血を引く人間なのよ」
紫陽花が理由として紡いだ言葉の意味が分からず、朱夏は首を傾げた。少なくとも、納得できる内容ではなかったのだ。
「私が誰の子どもかなんて、関係ないし」
「私にとってはあるのよ。私は、あの人の強さに救われた。弱者に理由なく手を差し伸べ、それらに降りかかる不幸の火の粉を斬り払う心の強さに」
未だ頭の上にクエスチョンマークが乗っている朱夏を見かねてか、さらに彼女は説明を続けた。
「その素質を受け継ぐ朱夏が、色恋沙汰なんかに没頭して凡庸な人生で終わったら、私は死んでも死にきれないわ」
「なんだよぅ、それ。全部そっちの都合じゃんかぁ」
「それは、そうだけれど…。こら、やめなさい、そんな顔は」
燐子の真似をして眉間に皺を寄せていたら、紫陽花に叱られてしまった。なんだかやりきれないことだとか、素直に頷きたくない話が多すぎて、唇を尖らせてしまう。
「ぶぅ。だいたい、私は強く育ったでしょ。同世代に敵はいないし」
「ええ、結果としてはそうね。でも、精神面が歪みきったのは私にとって大きな誤算だったわ。弱者の味方どころか、弱者を嬲るようになるなんてね」
「うっ…」と今度は朱夏が視線を逸らす。これに関しては言い訳のしようもないと思ったのだろう。「まぁ、それについては別にいいわ。そうなった責任は私や鏡右衛門様にもあるのだし…」
責任とは何のことだろうか。先生をやめて、特師団の活動に心血を注いだことだろうか。
あの頃の二人は出世のためか、周囲や自分のことも顧みずに寝食を惜しんで活動していたように思える。そうまでして何が欲しかったのか、今でも自分には分からないままだ。
まだ小言を言われるのだろうかと身構えていた朱夏だったが、そのうち紫陽花は不自然に口をつぐんだ。彼女の顔を盗み見ると、無感情で機械みたいな横顔だった。
月明を受けて、普段よりもいっそう青白く彼女の顔の輪郭が浮かぶ。幽霊みたいだ、と非現実的なことを考えてしまう。
この顔でも、紫陽花は何かを考えている。多分、真剣なことを。
ずっと紫陽花の横顔を覗いてきた朱夏だからこそ、それがなんとなく理解できた。
不意に、その艶やかな唇が動く。
「止まらないかしら…」主語の抜けた言葉に、朱夏が小首を傾げる。「何がぁ?」
紫陽花は顔を正面に向けたままで、月の光を吸い込んだ紫水晶の瞳を、すぅっとこちらに動かした。
横目ではあったが、彼女の熱に浮かされたような眼差しを受けて、心臓がどくんと鼓動を強く打った。
パチパチと朱夏のアイオライトが現れたり、消えたりしている様を見て、紫陽花はふっと儚げな微笑を口元に描いた。
「時間よ」
決まってるじゃない、と蚊の泣くような声で付け足した紫陽花の姿に、朱夏は途端に夢から覚めたような感覚を覚えた。
その瞬間、急激に目頭が熱くなって顔を伏せた。
そうだ、紫陽花も分かっているんだ。
この時間が、有限だということを。
永遠など、人が勝手に描いた幻想にすぎないことを。
この時間は、所詮は水底から水面へと泡が昇る一時と同じなのだ。
夜が明ければ、この夢のような時間は泡として爆ぜて消える。
私にできることは、二つに一つ。
逃がす、そして――…。
「なんて顔をしているの…?」ほんの少しだけ震えている声に、弾かれるように朱夏も顔を上げた。そして、今度こそこちらをしっかりと見据えている紫陽花と視線がぶつかって、思わず笑った。「…あはは、そっちこそ」
今日はきっと、私の人生で一番幸福な日だ。
――一番欲しかったものを手に入れ、一番渡したかったものを渡すことができるんだから。
その幸せを噛みしめるように、朱夏は強く目蓋を閉じた。閉じ込めきれなかった涙の粒が、目の縁からこぼれる。
やがて、朱夏は右隣に置いておいた大太刀を、床に置いた状態で引き抜いた。
肌がざわめく鞘滑りの音に、心が震える。とても、寒いとまた考えていた。
真っ直ぐ立てられた白刃が、月光を浴びてぎらりと煌めく。二つめの月みたいだった。
「ねぇ、紫陽花」恍惚の表情を浮かべたままで、朱夏は呟く。「私を殺してくれる?」
たった一つしか持ち得ない『命』を、一番大事な人に渡す。
これ以上の幸せはないと、自分は信じている。
だって、最期の最期まで、綺麗なものを見ながら死んでいけるから。
紫陽花はその願いを聞いても、眉一つ動かさなかった。何も驚いているふうではない。初めからそう告げられることを知っていたかのようだ。
「…ええ、いいわよ」そう言うと、紫陽花は両腕で自分を包んでくれた。「ただし、私も一緒に終わること。それが条件よ」
「…うん」
朱夏の返事を聞き、紫陽花が大太刀を受け取る。
そうだ。これで、終わり。
最も永遠に近い形で、二人の時間を切り取り、残すことができる。
ダイヤもオニキスも、アイオライトもルビーも敵わない。アメジストの輝きの中で、眠ることができる。
(あぁ、なんて幸せなんだろう…)
紫陽花はゆっくりとした動きで、大太刀を抱きしめた朱夏の背中に向けて逆手で構える。
愛する者の鼓動が聞こえる。とても落ち着いていた。死ぬつもりの人間のそれとは到底思えない。
ここも戦場と同じ。生と死の狭間。
それなのに、見える光はとても穏やかだった。
目蓋の裏で煌めくのは、銀河の星々の明滅。
色の概念を敷き詰めたみたいな、鮮やかな世界。
ぎゅっ、ともう一度紫陽花を抱きしめる。
自分が現世で感じられる、最期になる。
不意に、銀河に見惚れていた朱夏の頭の奥で、一つの声が響いた。
――娘を、頼む。
それは後にして思えば、差し迫る死に対して脳が映し出した走馬灯だったのかもしれない。
まだ体は、生きようとしていたのだろうか。殺したい、殺されたいと口にしながら…。
脳裏をよぎった言葉により、朱夏は、自分がこのまま置いていくもののことを考えなければならなくなった。
それは、シルヴィアという幼馴染でもあったし、その父親に託された願いでもあった。
(ここで死ぬのが、一番、綺麗な形で終われるんだ)
死なせてくれ、と誰かが頭の奥で咽び泣いている。この機会を逃せば、一生、自分は愛する者と終われる機会を失うんだと。
そうして、自分と同じ形をした少女がどれだけ叫び続けても、一度思い出した願いは消えなかった。同時に指先が――いや、体全体がカタカタと震え出す。
躊躇だと、迷いだと思われたくなかった。そんな生半可な気持ちで生きてきたわけではない。
どうにか震えを止めようと体に力を入れるが、むしろ、震えは強くなる一方だった。
やがて、紫陽花が大太刀を構えたときと同じように下ろすのが気配で分かった。
何もかもが紫陽花に悟られたような気がして、とうとう朱夏の両目からは涙が溢れ出した。
「ち、違うの、紫陽花」彼女の着物を引き裂くみたいに握りしめる。「今さら、怖くなったとかじゃなくて」
「ええ、分かっているわ」
そう返事をした紫陽花の声は、とても穏やかで、弱々しかった。彼女の中にあった諦観の嵐が、再びその言葉に宿る。
「…分かって、いるわ…」
聞いているほうが息を詰まらせてしまうほどの悲壮な声に、弾かれたようにして朱夏は顔を上げる。そこには、自分と同じように両目いっぱいに涙を浮かべている紫陽花の姿があった。
「紫陽花…!」
どうにかその涙を止めたくて、朱夏は彼女の名前を呼んだ。しかし、その言葉に背中を押されたようにして、涙は幾筋もの軌跡を描いて頬を滑る。
「しょうがないのよ、朱夏。これが、運命なのよ…きっと…」朱夏は、紫陽花の言葉を聞いて思わず疑問を抱いた。「運命って、一体、なんなのかなぁ」
こくりと頷き、紫陽花は語る。
「そうね、人間にはどうすることもできない、激流のことね。人の命は、その抗いようもない激流に運ばれて、あるべき場所へと導かれていく。もしも…、私と貴方が共にいられないふうにできているのなら――受け止めるしかないのよ」
「抗いようもない、激流…」
そうか、そういうものがあるのかもしれない。
その激流が二人を別々の場所へ押し流そうとするのなら…。
朱夏は吸い込まれるようにして紫陽花の首に両腕を回し、その唇にキスを落とした。
触れるだけの、半ば儀礼的とさえ言えるものだった。
俗欲の打ち払われた行為は、少女の胸に温かな慰めをもたらした。
「それじゃあ、今夜だけは、私のものでいて」
唇を離した朱夏の願いに、紫陽花は目を閉じて肯定する。
「ええ、もちろん。…きっと、この夜までは、運命の神ですら触れられはしないでしょうから」
そうして二人は共に過ごした。
朝日が『さよなら』を連れて来る、そのときまで。
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