過去と未来の激突
物語も佳境に入ってきました。
今しばらく、お付き合い頂けると幸いです。
社への階段を上り終えると、一際大きい鳥居が目の前に現れた。夕日を吸い込み、淡く光る様は本当に神がそこに宿っているみたいだった。さらに、その二本の脚の向こう側には、古ぼけた社が立っていた。元は神主もそこに住んでいたのか、想像していたよりも大きい。
燐子は鏡右衛門の姿を探して、社の裏へと移動した。裏庭は蓮のある池があったり、砂利が敷いてあったりして、昔は風情ある場所だったことが容易に考えられるも、今じゃ荒れ果ててしまっていて、眺める者もいない様子だった。
(…いや、どうやら、一人だけいるようだ)
彼女の視線の先に、社の縁側から片膝を立てて荒廃した裏庭を臨む男がいた。今回の果たし合いの相手、鏡右衛門である。
こちらに気づいているはずだが、彼は一向に顔をこちらに向けようとしない。まあ、自分にとってそれは些細なことだ。
燐子は沈黙を保ったまま彼に近づいた。突然斬りかかられることも考えはしたが、まずありえないだろうと確信した。そんな真似をするくらいなら、初めから呼び出したりしないはずだ。
少し離れた場所に腰掛け、自分も同じように庭を眺める。
どれだけそうしていただろうか。次第に夜が深まっていくのを肌で感じながら、無意識のうちに太刀を撫でる。
「紫陽花は、朱夏に逢えたのか?」
唐突に、鏡右衛門が沈黙を破った。数秒の間があった後、燐子は頷きながら答える。
「ああ。互いに互いを待っていたようだ。…それにしても、なぜそんなことが気になる?」
「紫陽花には、たいして何もしてやれなかった。期待に答えてやることも…。あんな忠臣には、最後くらい、きちんとした褒美があって然るべきだろう」
「褒美?お前の娘と斬り合わせることがか」
少なからず苛立ちを感じ、燐子は眉間に皺を寄せた。すると、ようやくこちらを向いた鏡右衛門が、燐子のそんな顔を見て呆れたふうに口元を歪めた。
「私はな、燐子。お前のように朴念仁ではないのだ。紫陽花のがらんどうな心を満たせるものが何かをよく心得ている」
「…朴念仁で悪かったな」
決戦の地に来てまでも、こういう嫌味を聞くことになるとは思わず、つい不貞腐れたような態度をしてしまう。
彼は冷ややかな目をしたまま、すっと視線を庭のほうへと戻した。素の顔がこうなのだろうが、とても無関心なふうに見える。
今、この男は何を思うのだろう。
そればかりが燐子はずっと気になっていた。
国も、友も、家族も、そして、誇りすらも。一切合切を擲って彼はここにいる。そうして、それができずこの世界に、自分の命に踏み留まった自分と肩を並べているのだ。
天下統一を為せる器だったのかを知るために、天下を混沌の渦中に放り込む。
何が彼をそこまで追い詰めたのか。
満たされぬ孤独の身か、自分より強い者がいないという寂寥感か。
どちらでもいい――とは、いつものように言えなかった。
鏡右衛門の姿は、あり得たかもしれない己の未来の姿だった。
強く、どこまでも強くと鍛錬を積みながら、この異世界で弱き者を守り続ける。その中で、いつしか、研ぎ澄まされた信念は刃と共に錆びつき始めたのだろう。
「…考えは変わらないのか」気づけば、そう口走っていた。「詮無い話はよせ。今更どうこうできないことは、お前もよく分かっているはずだ」
「それは無論だ。だが、それ一つで、どういうふうに終われるかは変わってくる」
「ふん。私はそれを捨ててここまで来た」
「嘘だな。お前は侍の在り方を捨てることなどできていない」
「なんだと?」
腰の付け根辺りに両手を添えながら、燐子は淡々と続ける。
「お前は侍としての在り方を甘えと説き、捨て去ったと言った。だが、それならどうして、未だに一騎討ちにこだわった?そうして決着をつけられなければ、納得できない性分なのではないのか」
この言葉に対しても、鏡右衛門は表情を一つ崩すことはなかった。彼は、しばし無言でいたかと思うと、「確かにそういう性分だが、それは侍などというものとは一切無縁のものだ」と抑揚なく答えた。
「自分を誤魔化し、目を背けるか。愚かだな」ふん、と燐子は鼻を鳴らす。「心の拠り所になるものを持たぬ者に、一体どんな天下が――未来が作れる?」
「少なくとも、そうした精神的なものに囚われて作る国よりも、よほど強い国になろう」
「強い国か、面白い。ならば今、お前に問おう」
そう言うと、燐子はおもむろに立ち上がり、砂利の上を数歩歩いてから、くるりと鏡右衛門のほうを振り返る。
「鏡右衛門、お前の言う『強さ』とは何だ」
「知れたこと。迷いのない、勝利や進化への貪欲な考え方ができることだ」
「そうか、だが私はそう思わぬ。強さとはむしろ、迷いながらでも進める魂を持つことなのだと考えている」
別に説得しようとしているわけではなかった。ただ、これが今の自分にできる最後の情けだと思っていたのだ。
「不要だと切り捨てるのは簡単だ。何事においても、安易に切り捨てず、やめず、信じて続けていくことこそが、価値あるものに辿り着く道を照らすのではないか」
「…そもそも、価値の定義が違うようだ」
だが、やはりこれ以上は無意味のようだ。少なくとも、言葉のやり取りは。
相変わらず冷ややかな視線を保ったままで、鏡右衛門も太刀を片手に立ち上がった。
やがて、どちらからともなく庭園の中央に歩み寄り、間合いの外で真っ直ぐ向き合った。
風が吹いていた。冬の風だ。
静かで、清冽で、ぬかるみから目覚めさせるような厳しい風。
不意に、鏡右衛門が袴の袖から何かを取り出した。暗器かと勘ぐったが、彼が砂利の上に放り投げたのは燐子もよく知っているものだった。
「六文銭か…」投げ捨てられた六枚の硬貨を一瞥してから、燐子は口元を歪める。「それで、何のつもりだ?」
「渡り銭がなければ、三途の川を渡るときに困るだろうと思ってな」
「ふん、気前の良いことだ。だが、生憎と私は死ぬ予定はない」燐子のほうから、鯉口を切った。「それは自分用にでも取っておくのだな」
じんわりと熱を帯びていく妖刀の縁が赤く淡く光る。続いて、鏡右衛門も太刀の鯉口を切った。
「日本の侍が、死の覚悟もなく一騎討ちに来たというのか?」
彼の持つ美しい太刀は、この世界の技術と溶け合ってなどいなかった。頑なに本来の形を留め、異世界の干渉を拒絶しているかのようだった。
「無論、覚悟はしている。ただ…どうやら、お前は一つ勘違いをしているようだ」
「ほう、私が何を思い違いしているというのだ」
「私は、侍や日の本の剣士としてではなく、一人の人間としてこの場に立っている」
そう言い放った彼女は、背筋を伸ばしさらに続ける。
「鏡右衛門。私はな、天下統一の器だの、剣士としての甘さだのといった、貴様の御託に付き合うつもりは毛頭ない。
私がお前を斬る理由は二つ。一つは、民を、弱き者を理不尽から守るという、私個人の願いを果たすため。そしてもう一つは、お前が私の愛する者を傷つけたからだ」
それを聞いた鏡右衛門が、心の底から意外そうな顔をしてオウム返しをする。
「愛する者、だと?」
「そうだ。お前はミルフィの体を、心を傷つけた。たとえ、ミルフィや世界が貴様のことを許しても、私は、私だけは貴様を許さぬ。許さぬがゆえに、貴様の野望を完膚なきまでに叩きのめすのだ」
「よくほざく…」
「貴様の考えが変わらないかどうか確認したのはな、許すためではない。せめて、貴様を侍のまま死なせてやろうと思っただけだ。――結果として、私が貴様を斬り捨てることに変わりはない」
互いに抜刀し、各々で構える。
燐子は霞に、鏡右衛門は正眼に。
「天地鏡右衛門、その首、私が貰い受ける」
「そうか、やってみるがいい」
そして、独特の鞘滑りの音が止んだ。周囲には、静寂だけが残る。
そばにある松に似た木が揺れて、木の葉がひとひらだけ、ひらひらと舞い落ちてくる。その木の葉が燐子の持つ妖刀の刃に触れたとき、白い煙を上げて半分に焼き切れた。
二人は、一枚から二枚になった葉が地面に触れることを合図にしていたかのようなタイミングで動き出した。
夕日の残滓を頼りにして、薄闇の中、二人の刃がぶつかる。
その場には、鉄が衝突しているだけとは思えないほどに、美しく、荘厳な、まるで歌姫が歌っているみたいな甲高い音が響いていた。
鏡右衛門が放った袈裟斬りをこちらも袈裟斬りで返す。星の光みたいに閃光が繰り返し瞬く。
もう、彼と戦うのは三度目だった。一度目は船上で、二度目は天地の屋敷で。そして、数を重ねるほどに自分の実力が彼の影を捉え始めているのが感じられる。
いずれも、彼にかすり傷一つ負わせられなかった燐子だったが、今回はそれほどまでの実力差を感じさせる様子はなく、寄っては離れるを繰り返す中で、確実に鏡右衛門をひやりとさせる剣撃を放つことができていた。
「驚いたな…!」鍔迫り合いの姿勢になった際に、彼が喜びを押し殺した声で口を開いた。「見違えるほどに腕を上げている。一体、何を捨てた?何をどれだけ捨てれば、これだけ強くなれる?」
「私は何も捨ててなどいない」自分と同じ黒曜石の瞳を睨み返しながら、燐子は歯を食いしばる。「今の貴様には、私を形作る力の一片足りとも理解できないだろう。かつての私がそうだったように、過去の自分に縛られたままの貴様には!」
そうだ、今の自分の力や姿は、かつての私には理解できなかったことだ。手に入れることのできない力だった。
異世界の豊かな食料は彼女の体をしなやかながらも逞しく作り変えたし、数々の出会いは、彼女の心を豊かに、柔軟に変化させた。
武術に関しても同様だ。腕の立つ人間と戦う機会が増えたこと以外にも、この世界では、日の元ではまるで戦うことのなかった魔物たちと戦い、戦術の幅や機転の利かせ方も広がった。
もしかすると、過去の自分と今の自分が刃を交えれば、一瞬で片がつくかもしれない、そんなふうにすら思えた。
一旦距離を取るため、鏡右衛門の刃を弾き後ろに飛び退る。すると、彼は仕切り直しなど許さないと言わんばかりに猛追してきた。
一撃、二撃と袈裟斬りが叩きつけられる。なんとか防いではいるものの、やはり、女の自分には重い。
「過去に縛られて何が悪いか!」
「無論、悪くはない。だが、そこには何もないぞ!そうした空虚な目的のために統一された天下に、一体どれだけの値打ちがある!?」
「はっ、学がないな燐子。人を形作るのは現在でも、未来でもない、全てが過去の産物によるものだ!人間そのものもなっ!」
鏡右衛門が獣のような叫び声を上げると同時に、苛烈な逆袈裟斬りが迫ってくる。勢いがあるぶん、大ぶりだ。感情が技の精度を乱している。
――人間自体が、過去の産物か。
燐子は迫る剣閃を目で追いながら、心の中だけで薄く笑った。
「過去を空虚と語るのは、人間そのものが虚ろだと評しているようなものだぞ、燐子!」
確かに、彼の言い分は正しい。人はみな、経験によって形作られて生きている。
抱く思想、心の強さ、体の強さ、何もかも、そう、何もかもが過去の累積に従って生み出される。
奪われながら生きている者は、奪うことを当たり前のように感じ、逆に自分もその立場に平然と立つかもしれない。あるいは、その悲しみを憂い、それを根絶しようとする可能性もある。
温かな人に出会ったこと、素晴らしい景色に出会えたこと。それは、間違いなく私にとってかけがえのない経験だ。幸福、と形容してもいいだろう。
鏡右衛門はそれに恵まれなかった。いや、恵まれなかったわけではない。
エレノアやジルバー、朱夏、紫陽花、桜狼…。彼を理解しようと努めてくれた配偶者、慕ってくれる部下や娘と出会えたはず。
彼は、それを跳ね除けたに過ぎない。
満たされぬ心が、器に注ぎ込まれる温かな水を自らこぼし、捨てただけだ。
運命の激流の中でも、人は選ぶことはできる。
抗うことも、流されることも、自らの意志で選び取れるのだ。
「たとえ、人を形作るものが過去だとしても!唯一人が変えていけるのは、今の自分の行動と、それに付随する未来だけだ!」
鏡右衛門の逆袈裟を紙一重で躱す。同時に、左薙ぎ一閃をそのがら空きの胴体目掛けて振るった。
夜空を映したような刀身が鏡右衛門の脇腹を食い破ろうとした瞬間、彼はとっさに上体を逸らして直撃を免れる。それを好機と考えた燐子は、そのまま逆袈裟斬りを繰り出したのだが、危険を感じ取った鏡右衛門に後ろへ飛び退かれ空振りに終わる。
仕留め損なった。しかし…。
「ちっ…」切っ先がかすめた脇腹を、鏡右衛門が歪んだ顔で抑えている。白い煙が上がっているに引き裂いた衣類か、肉かが焼けているようだ。
(届くようだ。私の剣は)
表情は一切変えないまま満足そうに心の中で唱えた燐子は、時折、ぼうっと赤く光る妖刀を振るい、相手を睨みつけた。
「そうして過去に縋り続け、過去のために戦おうという貴様は所詮、亡霊にすぎない」
ゆっくりと太刀を掲げる。両肩よりも上に構え、天を突くように太刀を立てる。
「亡霊は、冥府に送り帰す。――せいぜい念仏でも唱えていろ」
「貴様…!」
脇を締め、ぶれのない姿勢を取ってから、燐子は大地を蹴り上げた。
「覚悟、鏡右衛門!」
みなさん、お疲れさまです。
みなさんのちょっとした楽しみになれればと、執筆しておりますが、
一ミリくらいはそうなれているでしょうか?
何はともあれ、ご覧になって頂きありがとうございました!