溶け合う、青と紫
雲を焦がす夕焼けが、紫陽花の頬も赤く染めている。普段とは違う得も言われぬ雰囲気に、少しだけ胸が高鳴る。
トクン、トクン、と心地良い心音だった。緊張していると自覚できる速さではあるけれど、嫌な感じではない。
程よい緊張により、朱夏の脳はこれまでにない集中状態に入っていた。自分の状態を的確に把握できるし、相手の一挙手一投足にも注意が払えている。まさに、ベストのコンディションであると言えよう。
戦いが、ただの略奪や欲求解消の道具に過ぎなかった頃では、生み出せなかった感覚に、朱夏は良い意味で興奮していた。
カチリ、と大太刀が鳴る。それに応じるようにして、紫陽花も立てかけていた獄門刀を握った。
「本当は、少しだけ朱夏と話をしたかったのだけれど…」
「駄目だよぉ。今やるの、今、やりたいの!」
「そう…。昔から貴方は、言い出したら聞かないものね」
分かったわ、と言葉を切った紫陽花は黄昏の光に刀身を透かすように獄門刀を掲げてみせる。
美しかった。彼女の紺、紅、黒に彩られた着物も相まって、紫陽花の容貌をこの世ならざるものにしていた。
ぺろり、と舌なめずりする。
これから、楽しい時間が始まる。
二人だけの、濃密な逢瀬。
誰も知らない。知られてはならない。
脳裏に次々と浮かぶのは、紫陽花を打ち負かした後のこと。その背徳的な妄想で、ぞわりとした感覚がうなじを撫でる。
朱夏の興奮が極限まで高まる中、紫陽花が雷電の如く間合いを詰めて来た。
獄門刀の刃が振り降ろされるタイミングに合わせ、腰に構えていた大太刀を下から上へと斜めに切り上げる。
刃が衝突し、火花が弾ける。
夕闇に紛れる橙色の閃光は、朱夏の好む宝石やキャンディに似ていた。
(――追えてる。私、この女の剣撃がちゃんと目で追えてる!)
それは、この二十年近い人生の中で初めての経験だった。
いつもは一方的に叩き伏せられるのに、今日は魔法をかけられみたいに体が軽いし、世界がのろのろとして見えた。
朱夏は、股下から脳天へと駆け上がろうとする獄門刀の軌跡を目で追うと、それに対して、上から渾身の力で大太刀を振り下ろした。
獄門刀が折れないことが不思議なくらい、地面にめり込む。凄まじい痺れが伝わってくるのか、紫陽花の顔が歪む。
「相変わらずのパワープレイね…!もう少し、戦術も教えてあげるべきだったかしら」
「あはっ!いらないよ、私にはコレがあるもんね!相手の小細工をぶっ潰す絶対的な力、暴力がねッ!」
後ろに飛んで間合いを取ろうとする紫陽花に合わせ、同時に姿勢を低くして前へと飛ぶ。彼女の驚いた顔を見られて、とても気持ちが良かった。
上体を起こしながら、斬撃を放つ。地面すれすれの軌道を描いて鮮やかに駆け上がる切っ先は、低空を舞う燕のようだ。
紫陽花は間一髪のところでその一撃を、体を引いて躱した。髪をふわりと浮き上がらせる凄まじい風圧に、冷たい汗が彼女の背中をつたう。
――間違いない、戦える。
今まで一度も勝てなかった相手に、今日の自分なら手が届く。
急に力量差が埋まるのはおかしい。おそらく調子の問題だろう。
こちらの調子が良いのか、相手の調子が悪いのか、はたまたそのどちらもか。まぁ、そんなことはどうでもいい。大事なのは、紫陽花に勝てそうであるということだ。
「どうしたのぉ!?避けてばかりじゃ勝てないよ!」
ついつい嬉しくなって、にやけ面が止まらない朱夏が煽る。
「小賢しい子!」苛立ちで眼尻が吊り上がった紫陽花が応じる。「今日こそ、その綺麗な顔を私が可愛く歪ませてあげるねぇ!」
強烈な突きを朱夏が繰り出し、それをほんの少しだけ体をひねって紫陽花が躱す。あまりの勢いの良さに体がぶつかり合うほどの近さにまで間合いが詰められる。
ほんの三十センチほどの距離で視線がぶつかったとき、両者とも一瞬だけ動きが止まった。
その刹那が意味するものを、朱夏は理解できなかった。ただなんとなく、綺麗だな、と思い彼女の顔を見上げるばかりだ。
必殺の間合いよりも内側で、先に動き出したのは紫陽花だった。
ひらりと身を翻し、消えるみたいにして朱夏の背後に回ると美しい型で回し蹴りを繰り出す。
「きゃっ」
勢いよく前に飛ばされた朱夏は受け身を取ることもできず、地面を転がった。頭を振って意識を明瞭にしてむくりと立ち上がったところ、首筋に冷たい感触が走る。
「呆れるほどに未熟ね、朱夏」獄門刀の黒く透ける刀身が、自分の首に添えられていた。「くっ…」
「煩悩に支配されて、戦いの最中で冷静さを保てなくなるのは、貴方の悪い癖だと何度言えば――」
「うっさいっ!」
小言の合間に朱夏は素早く剣を振るった。振り向きざまの一撃を紫陽花は後ろに飛んで躱した。ほんの少しだけ彼女の着物が裂けていることから、かすりはしたようだ。
「そっちこそ、いつまでも舐めてかかってると痛い目に遭っちゃうよぉ?」
「…そうね。貴方の言う通りだわ」
紫陽花は真剣な顔つきに戻ると、両手を交差させて大ぶりの左薙ぎの構えを取った。
(十八番の踏み込み斬り。なら、こっちだって)
すっと、朱夏は大太刀を天高く頭上に掲げた。
最上段の構え。防御をかなぐり捨てて、攻撃に特化させた朱夏の得意のスタイル。
(防御なんて、元々ガラじゃない。一撃、一撃入れられれば再起不能にできるんだから)
理想は致命傷ではないけれど、反撃は望めない深さの傷。
殺すつもりはない。
殺したら、お楽しみがなくなる。
こういうのは、今回で、最後にするって決めてた。
人生最後のデザート。
最後くらい、いいだろう。
一番好きなものを食べたって。
深く息を吐き、朱夏は辛抱強く待った。
大丈夫、失敗したところで、あの女が私を殺すだけ。
それでいい、むしろ、そのほうがいい。
怖くなんてない。それはずっと前からそうだった。
やがて、張り詰めていた糸が切れるみたいにして、紫陽花が一気に間合いを詰めてくる。
相手の動きを見て合わせるなんて芸当、自分にはできない。だからいっそ、全部を感覚任せにしてしまう。
少し肌寒い。そんなことを朱夏は考えていた。
人肌が必要だ。寒いのは好きじゃない。
迫る紫陽花に向けて、勘で大太刀を振り下ろす。目で追えていなくても、なんとなくここだという気がした。
刹那、凄まじい衝撃と共に青白い火花が咲き、両腕が大きく弾かれた。
「ぐっ!」二人揃って、苦い声を漏らす。
両手が痺れて感覚がなくなった。大太刀を握っているかどうか、一瞬分からなくなる。
腕力の差は歴然、だというのに、拮抗した力の衝突になった。紫陽花の技量が異常だと改めて気付かされる。柔をもって剛を制したのということだろう。
しかし、先に動き出すことができたのは朱夏のほうだった。
途絶えていた信号が両腕に戻ってくる。どうやら、紫陽花はまだ手に力が入らないようだ。
――勝てる。
そう確信した朱夏は、ぐっと歯を食いしばって自らを奮起させた。
「こなくそおぉっ!」
フルスイングで右薙ぎを放つべく、大太刀を両手で持って、背中の後ろまで回す。
あの禍々しい獄門刀を弾き飛ばして、それから、死なない程度に大太刀を突き立てる。
昆虫標本みたいに大太刀でピン留めしてもいい。そうして、動けなくなった紫陽花を嬲るのも、きっと最後の思い出に相応しい時間になる。
もちろん、攻撃自体は紫陽花の体を上下に両断するつもりで行う。半端な攻撃は通じない相手だということくらいは理解している。
誰よりも強い紫陽花のことだから、確実に致命傷を避けるべく、獄門刀を間に挟むはずだ。だから、その防御ごと突破する渾身の一撃で攻めなければ。
「はあああッ!」
強烈な一閃が、紫陽花の胴体に迫る。しかし、彼女は一向に獄門刀で防御しようとする素振りは見せない。
腕の力が戻っていないのかは分からないが、逡巡する暇はない。迷いは敗北の元だ。
相手の動向に関係なく、朱夏は大太刀を振り抜いた。
すると、驚いたことに、彼女の手には何の感触もなかった。ただ、空を切り裂く高い音だけが耳に残る。
見れば、目の前の紫陽花の体が異様なまでに仰け反っていた。
直撃したわけではない。上体を後ろに逸ら後方転回の要領で躱したのだ。そして、そのまま――。
紫陽花の長くしなやかな脚が、目の前で大太刀を跳ね上げる。あまりにも鮮やかにサマーソルトを決められた。
結果的に、こちらがやろうとしていたことをそのまま返され、一瞬、凍りついてしまう。
「随分と余裕があるのね」意識の隙間を突いて、紫陽花の白魚のような指が伸びてくる。「あっ、ちょ、待っ――」
襟首を掴まれた瞬間、天地が逆転する。それから、背中に凄まじい衝撃が走って、自分が叩きつけられたのだと悟る。
肺から息が絞り出される。目の奥がチカチカとして、何がなんだか分からなくなった。
朱夏の技は、もはや柔術と呼ぶのもおこがましい力任せの投げ技や絞め技が多かったが、元は紫陽花が教えてくれたものだった。
もちろん、彼女はまともな技として伝えてはいたのだが、なにぶん、朱夏が反骨心を覚えてからは教えるどころの話ではなかったため、結局は粗野な我流術となっていた。
直後、ドシンと紫陽花に馬乗りにされる。「ぐえ」と危機感のない奇声を発した朱夏を上から見下ろす紫陽花の顔には、呆れ返った様子が滲んでいた。
「はぁ…、少しは成長したかと思ったのに…。どういうことかしら?」
「ど、どけってばぁ!」力任せに紫陽花の体を跳ね飛ばそうとしたところ、両手の指をキツく握り込まれた途端、激痛が走った。「うぅ!」
何かの武術なのか、酷く両手が痛んだ。これでは力の限り適当に抵抗するということができそうにない。
「情けのない子。腕前や精神面が成長したと言っても、理性のない貴方ではそもそもがこの程度なのかしらね」
「はぁ!?どーいう意味なの、それ!」
「幼稚だと言っているのよ、馬鹿な子ね」
「あー!馬鹿って言ったほうが馬鹿だよぉ、アバズレ!」
直後、ギリリと今までで一番の力で指を握り込まれる。痛みで歯を食いしばった朱夏に、紫陽花が顔を寄せて告げる。
「その呼び方はやめろと…何度言わせれば気が済むの」
冷ややかな声色に思わず目を開ける。すると、バチッ、と至近距離で二人の視線がぶつかった。
目の前で苦しそうに歪められたアメジストの瞳を前にして、朱夏は言葉を失った。
(私が文句言ってるとき、いつも、こんな顔をしてたの…?)
傷ついていると容易に分かった。だが同時に、それを知るのは、自分にとって毒でしか無いとも分かった。
「…な、なんだよ、その顔」思っていたことが声に出てしまう。「もしかして、傷ついてんの…?」
それを聞いて、紫陽花は目を丸くした。そして、ややあって、バツが悪そうに顔を背ける。
(あ、逃げた…し、隙だらけ)
今度は朱夏のほうが一瞬の隙を突いて、紫陽花と姿勢を入れ替えた。初めて紫陽花を組み敷いたことが自分でも信じられず、ぽかんとした顔で彼女を見下ろしてしまったが、それは相手も同じだった。
お互い無言の時間が続いた。そのうち、どちらからともなく我に返ったかと思うと、両者赤面した。
(な、何、この反応。私は分かるけど、どうして、こいつも…!?)
ふと、脳裏に一つ解答が浮かび上がる。しかし、それがあまりにも自分に都合の良いものだったため、ありえない、と打ち消したのだが、どれだけやっても執拗にその答えが頭の中で踊った。
ドクン、ドクンと鼓動が加速する。
確かめたい、試してみたい。
一度その考えを持ってしまうと、もう止められなかった。
「あ、じさい」彼女の名前をきちんと呼ぶのは何年ぶりだろうか。
びくん、と紫陽花の体が揺れる。
朱夏が自分の名前を呼ぶ声に明らかな動揺を示した彼女は、視線を右往左往させて、意識の逃げ場所を探しているようだった。
いつも艶やかで、大人の女性そのものといった雰囲気の紫陽花からは想像もできない姿は、朱夏に確信を抱かせるのに十分な証拠となった。
(やっぱり、そうなんだ…!こいつも――紫陽花も、私と同じ気持ちで…)
自分の後ろに父を透かして見ていたなんて、こちらの邪推だったのだ。自分自身がそう捉えていただけで…、あぁ、なんて馬鹿なのだろう。
まだ試し足りないと言わんばかりに、朱夏が紫陽花に顔を近づける。慌てて顔を逸らした彼女からは、普段の余裕はまるで見えない。皮肉が聞こえないことがその証拠だ。
「わ、私の勝ち…だよね」
「…調子に乗らないことね。私はまだ死んでないのよ?」
それがやせ我慢なのは明白だった。力では圧倒的な優位に立てる自分が組み敷いた時点で、勝敗は決している。燐子でさえ、こちらが煩悩に支配されなければ打ち負かせていたのだ。
息を吸い、高まり過ぎている心拍数を整える。
支配的なポジションに自分はいるはずなのに、心はむしろ、何かに支配されるのを恐れているかのようだった。
今度はもっと、端正な顔との距離を縮める。大きく目を見開いた紫陽花に、頭の中が混沌としてくる。
「ねぇ、紫陽花…」熱に浮かされたような――いや、実際そうだったのだろう。なぜなら、自分が紫陽花に向ける声音とは思えないほど、甘ったるい発声だったからだ。「私が幼稚かどうか、試してみる?」
さらに顔を寄せる。互いの鼻先が擦れ合う距離になる。
そうしているうちに、紫陽花の少し高い鼻に噛みついてやりたい衝動に駆られた朱夏は、あくまで歯は立てないように甘噛みする。
「や、やめなさい…!」
首をひねって避ける紫陽花に、ますます腹の底の留まることを知らない欲望は熱くなる。
噛みつくように唇を寄せると、紫陽花も今度は本気の抵抗が見られた。体を浮かせてなんとか逃れようとしているが、抑え込む朱夏の力の強さの前には歯が立たないようだった。
ドロリとした感覚が脳髄に広がる。思考がぼやけて、前後の境がつかなくなる。
(あー…、脳汁出てるよぉ、これ)
いつもの何倍かで分泌される脳内物質に、くらくらする、夜の海に身を投げることに近い感覚を覚えた。
こういうことなら、今まで何度だって繰り返してきた。それなのに、今日は酷く緊張していたし、興奮していた。指先も震えている。余裕がない。そう、余裕がないのだ。
どれだけそうしていたか分からないうちに、唇を離した隙を見て紫陽花が息も絶え絶えに言った。
「わ、分かったわ。私の負けよ、降参、それでいいわ。だから――」
「関係ないよ」首筋にキスを一つ落としながら、朱夏は下から上目遣いで紫陽花を見上げる。「死ななきゃ負けじゃないんでしょ?じゃあ、ずっとこうしていれば、一生負けにならないよね」
「ちょ、朱夏」
再び、二つの影が重なった。
夕日も沈み、辺りには薄闇が徘徊する時間になっていた。
このときを待っていたような気もするし、そうじゃないような気もする。
はっきりしているのは、この時間が永遠に近しい密度を持っていたことだ。
ただ、終わってほしくないけれど、実際には永遠なんてないから、夢が覚めるときが必ず来る。
抑えつけている紫陽花の指が、少しずつ、夜が深くなるほどに自分の指に絡みついてくるのが分かった。
紫陽花も、同じ気持ちだと信じたかった。
思い込みでも、なんでもいい。
それがないと、今日が死んだ後のことを思い出しそうになって、胸が痛くなるから。
戦争犯罪人である紫陽花に、この先の居場所なんてない。
国に戻れば死罪だろうし、そうでなくとも国外追放が関の山。
――どうしたら、この時間を永遠のものにできるのかなぁ。
そこまで考えて、朱夏はふっとおかしくなった。
少女のアイオライトが妖しく、寂しく光る。
――そのための手段なら、私、誰よりも知ってるじゃん。
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