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竜星の流れ人  作者: null
一部 三章 駆ける、光
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異世界の景色 壱

 幾重にも伸びる水流が、平地の果てまで続いているように思えたが、次第に水脈は収束し、一帯は大きな湿地に変わりつつあった。


 ぬかるんだ足場は避けて、とても整備されているとは言えない街道沿いを歩いていく。


 そう、歩いているのだ。


 カランツの山中から、放射状の河川を辿り、数時間ほど進んでいくことで、この湿地帯に出られる。


 ただ、その道程は決して楽なものではなかった。


 繰り返し現れる妖怪じみた獣――魔物たちのせいである。


 以前相手にしたハイウルフほどではないものの、徒党を組んでこちらに襲いかかってくるものだから、決して気が抜けない時間が続いていた。


 湿地の入り口を過ぎて、中央付近まで進むことでようやく魔物の襲撃が収まり、何とか肩の力を抜くことができた。


「…普通、こういうときは馬を使うものではないのか」と、カランツの村を出た時点から心の中だけで留めておこうと努めていた言葉が、ぽつりと、燐子の唇から零れ落ちた。


 それに呼応するかのごとく、少し離れた水辺で魚らしきものが水中から飛び上がり、水面に波紋を作る。


 日の本にいた頃にはあまり馴染みのない景色だ、と初めは感動したものだが、いよいよこの景色も二日目に差し掛かったとなると、憂鬱に近い感情を抱く。


 水、水、水。


 湿気ているという程度では甘すぎるじめじめした空気、けたたましく鳴く蛙の声、飛び回る虫、野宿中に這い寄る虫や爬虫類。


 異世界といってもやはり野宿は楽なものではないな、と燐子は汗を拭った。


「馬車なんて使うわけないでしょ、高いのよ、アレ」


「馬車ではなく、馬だ。馬に跨って行けば、もう到着している頃ではないのか」


「え、燐子、馬に乗れるの?」とミルフィが意外だという様子で目を見張る。


 その姿に屈辱感を覚えて、「馬鹿にするな」と呟いた。


「そもそも、何故ミルフィまでついてくる必要があったのだ」


「そんなの、アンタ一人に任せていたら、何をしでかすか分からないし、アズールに辿り着けるかも怪しいじゃない」


 思いのほか正論が返ってきて、文句の言いようがなかった燐子は、一つため息を吐いた。


 確かにそうなのだが、よりにもよって、ミルフィのように口やかましい人物でなくとも良かっただろうに。


 荒れた街道沿いを進む二人は、何かといえば小言を言い合って、気を紛らわせていたのだが、日が昇り切る前から歩き始めて、夕暮れまで休憩もなしに足を動かしていたものだから、さすがの二人も、のしかかるような疲労感を覚え始めていた。


 何とか気力の続く限りは足を止めたくはない、というかミルフィよりも先に、休憩を申し入れたくない燐子であったが、彼女の底無しの体力の前にはどうしても白旗を振らざるを得なくなっている。


 燐子が、「少し休憩しよう」と諦めて口にしたところ、ミルフィはやたらに勝ち誇った様子で「もう疲れたの?」などと言うものだから、プライドの高い燐子は、一度止めた歩みを無言のまま再び動かし始めた。


 ミルフィはにやけ面で燐子の隣に走って並び、からかうように「別にいいのよ、疲れたんでしょ?燐子ちゃんは」と告げた。


 挑発としか思いようがないその発言に、燐子は険しい表情で答え、黙々と遠くを見据えていた。


 湿原に広がる水面の上に、赤く燃える夕日が映り込んでいる。


 山の向こうへと落ちようとしている夕日を、水面越しに見ていた燐子は、ふと、足を止めた。


 急に立ち止まった燐子に、「どうしたの?」と真面目な顔をして問いかけたミルフィだったが、彼女の目線の先を辿ってから、首を傾げた。


 灼熱に煌めいた黄昏の光が、やけに眩しく、燐子の黒曜石を象ったような瞳に反射している。


 その跳ね返った輝きが消えるのを惜しむように、燐子はゆっくりと、だが強く目を閉じた。


 そうすることで、朱色の光を、永遠に瞼の裏側に閉じ込めておける気がしたのかもしれない。


 燐子は、はっきりとした口調で隣に立つミルフィの名を呼び、それから彼女のほうへと向き直ると、もう一度休憩を提案した。


 同じように夕日を眺めていたミルフィは、怪訝そうにそれに応じたものの、燐子の真剣な面持ちの前には、これ以上、からかってやろう、という気には到底ならなかった。


 手頃な場所を選んで、燐子はおもむろに腰を下ろした。それに続くようにして、少し離れた場所にミルフィも座り込む。


 しばらくは、二人とも黙っていたのだが、夕日の半分ほどが山陰に隠れたところで、燐子が静かな口調で呟いた。


「父の亡骸の前で、腹を切れなかったことを死ぬほど後悔している」


 普段のミルフィなら、その批判的な発言に対して、文句の一つでも返したであろうが、今回は燐子の様子が明らかに違った。


 思い詰めるように、あるいは全てを受け入れようとするかのように、凪いだ湖面のような穏やかさをまとっていた。


 ミルフィは小さく返事をすると、燐子にバレないように横目で彼女の顔を観察した。


 白い肌に、整った顔つき。頑固さと気高さを両立させた、歳不相応の貫禄のある瞳。


 ふと、ミルフィの脳裏に、先日大立ち回りを演じた燐子の姿が思い起こされる。


 真っ白の上半身に血塗れの布を巻いて獣を葬る姿は、グロテスクな怪物にも見える反面、真紅のドレスを纏う天の遣いのようにも見えた。


 彼女は、燐子が再び口を開くまでの間、オレンジ色の光に照らし出された燐子の横顔を黙って眺めていた。


「それができなかった結果がこれだ」ぽつり、ぽつりと吐き出す。


「私を知るものはおろか、武士も侍もいない…この世は、あの日、腹を切り損ねた私にとって、生きるに値しない」


「また、それ?」と今度は彼女の言葉に反応するが、その声色には悲しみの色が塗られている。


 横目で燐子がミルフィを一瞥したことで、二人の目線が交わった。


 泣いている、と初めミルフィは思った。


 だが直ぐにそれは、彼女の目に反射した、死にかけの陽光だということに気が付く。


「だが――」と燐子が再び夕焼けに目を戻す。


 もう、日が落ちそうだ。


「――この世界は、本当に美しい」


 次にミルフィを見つめた瞳は、確かに濡れていた。


 瞳を波打たせる燐子を、唖然とした表情で見ていたミルフィは、彼女に言ってあげられる言葉を何も持ち合わせていないことに気がついて、その奇妙な悔しさに歯噛みしたくなった。


 今、彼女に何か言ってあげられたら。


 せめて慰めの言葉一つでもかけてあげられたなら…。


 そうミルフィは考えたが、きっとそんなもの、燐子は望んではいないことも分かっていて、行き場のない無力感を覚える。


「時折、自分が生きている意味を忘れてしまいそうになるのだ」


 彼女の瞳から、雫が溢れるのではないかと、恐ろしくなった。


「…意味なんて、きっと誰も持ってないわよ」その言葉を耳にして、燐子は小さく自嘲するように笑った。


「私はそうでなかった。持っていたのだ、意味を」


 一つ、嘆くようなため息が零れた。


「だが、それも今となっては無意味だ。花の咲かない蕾と同じ。生きていても、死んでいても変わらない」


 これ以上、聞いていられない。


「やめてよ」


 ミルフィの心からの嘆願を耳にした燐子は、我に返ったように目を大きく開くと、苦虫を噛み潰したような顔をして呟いた。


「忘れてくれ」


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