流れの中で
とても寂しく、美しい山だ。
燐子は赤く色づき始めた太陽を西に見ながら、そう思った。
時はすでに夕刻前を差している。
道中、何の障害もなかったこともあって、予想よりも早く目的の山に到着していた二人は、言葉数も少なく、清流と無数の木々のために澄んだ空気が満ちている登山道を登っていた。
冬の山はさすがに体が冷える。外套を羽織っていても、少しずつ体温が下がっていくのが分かる。しかし、それでも燐子は愚痴をこぼしたりすることもなく、むしろ、荘厳で価値ある静謐に彩られた山間の風景を楽しんでいた。
そびえる針葉樹の間から、とうとう夕日が落ちていくのが見えた。一、二時間かけて越えてきた尾根へと消える夕日は、見る者にある種の郷愁を抱かせるものだった。
無意識のうちに、どこかへ帰らなければと思わせる何かが、その大きな夕日にはある。
そういえば、初めてミルフィと共に外を歩いたときも、似たような夕日を見たことがあった。
あのときは、父の介錯をしておきながら、腹を切れなかった自分を責める一方で、とても美しい世界に来たものだと感じたことを覚えている。
泣きたくなるような孤独感は、今はもうない。それは、朱夏が隣にいるからではなく、帰るべき場所があるからだ。
宵の足音を遠くに聞きながら、燐子らは黙々と足を動かし続ける。三十分もしないうちに、鏡右衛門が決戦の地に指定してきた廃村のものらしき看板が見えた。
「…着いたようだな」歩調を緩めながら燐子がそう言うと、朱夏も軽く頷いた。珍しく、神妙な面持ちだった。「うん。そうみたいだね」
村の門は今にも崩れそうなほど老朽化していて、中に見える民家も酷い有様だった。実際、いくつかは柱が腐って潰れている。
「奥の社で待つ、と言ったのだな」
「そうだよ。あそこに見えるのがそうじゃない?」
朱夏が指差す先、少し離れたところに鳥居が連続して並んでいるのが見えた。赤い鳥居が山に向かって規則的に並んでいるのは、どこか風情があるように思える。
どちらからともなく、一度止めた足を動かし始める。腰にぶら下げた刀が、静かな夕刻を喜ぶかのように前後に揺れた。
村の中は、完全に死に絶えていた。ただ、それでいて厳かな場所でもあった。人がいなくなった後の世界とは、きっとこんなふうに静かで穏やかなのだろう。
好き放題に伸びて廃屋に絡みつく蔦や、人間を見て驚き隠れる獣たちが、この静寂を享受できることに少しの羨望を覚える。
やがて、最初の鳥居に辿り着いたのだが、階段のところに腰掛けている女性の姿を見たとき、朱夏は途端に足を止めてしまった。それを見た女性は、何がおかしいのか鈴を鳴らすような声で笑う。
「ふふ、時間通りね。遠いところからご苦労さま」
「紫陽花…」
予想はしていたことだが、彼女もこの場所にいた。
紫陽花は、ゆっくりと視線を燐子たちから、美しいグラデーションを描いている天と山の間に目をやると、「綺麗な夕日だわ…」と夢現のように口にする。
「ああ、美しいな」夕焼けを振り返った燐子も、それに同調する。それから社に続く道を見上げると、「…この場所は時間に置き去りにされたかのようだ」とぼやいた。
「それは違うわ、燐子。この場所が時間を置き去りにしたのよ」
「どういう意味だ?」
「『時間』は、人が目に見えない大きな流れに勝手に名前をつけただけ。そうしないと生きられない人間が、勝手にね。だから、人のいないこの場所は、時間すらも及ばない厳かな雰囲気を保てるのよ」
「…相変わらず、お前の言う事は小難しい」
無意識に口元が緩んでいた。どうやら自分は、意外とこういった抽象的な話を聞くのが嫌いではないようだ。
しかし、いつまでものんびりと聞いてはいられない。自分がここに来たのは、紫陽花と言葉を交わすためではないからだ。
カチャリ、と太刀に手を添える。いつでも鯉口を切れる体勢になった燐子を、紫陽花が、じーっと下から黙って見つめる。しかし、ややあって、ほとほと呆れたと言わんばかりの大きなため息を吐いたかと思うと、燐子に向かって言った。
「いつまでそうやってボサッとしているのかしら?貴方はさっさと上に上がりなさい」
これには燐子も驚き、目を丸くした。てっきり、紫陽花は鏡右衛門と自分の間に立ちはだかるとばかり思っていたのだ。
「いいのか?私を通して」
「当たり前でしょう。鏡右衛門様自身が、貴方との戦いを望んでいるのだから。…私の役目はここまでなの」
「ならば、なぜお前はここにいる」
燐子は、何がなんだか分からないとばかりに問いかけたが、不意に、じっと立ち尽くしたままの朱夏のことを思い出し、そういうことかと合点がいった。
(どうやら二人には、私が想像している以上の確執があるようだな)
真剣な面持ちで沈黙と共に佇む朱夏の眼差しを一身に受ける紫陽花は、燐子の顔からすっと目線を逸らすと、「気を利かせてもらえないかしら?」とぼやいた。
彼女の言い分は分かった。同時に、朱夏の目的も。
朱夏は紫陽花との決着をつけるべくここを訪れ、そして、紫陽花もそれに答えるべくこの誰もいない場所で待っていたのだ。
だが、だからといって両手を上げて賛成するわけにもいかない。朱夏の技量は、紫陽花に到底及ばないからだ。無策で挑めば、無駄死には必定。それではシルヴィアやミルフィに申し訳が立たないというものだ。
「悪いが、そういうわけにも――」燐子が拒絶の意志を示そうとしたそのとき、誰よりも早く朱夏が言葉を遮る。「邪魔だよ、燐子ちゃん」
透き通るような声だった。朱夏がこんなにも大人びた声を出したことにちょっとした驚きを覚える。
「勝ち負けの心配をしてるんなら、余計なお世話だよ。そういう問題じゃないって、燐子ちゃんが一番分かるはずでしょ」
「朱夏、お前…」
「けじめをつけるなら、きっと、今このとき、この場所なんだよ。過去にだって、未来にだって、これ以上の瞬間はない。…お前風に言うなら、今日は運命の日なんだ。そうでしょ、紫陽花」
朱夏はおもむろに大太刀を抜いた。それから、腰構えで構える。今までで最も静かで、最も隙のない立ち姿だった。
銀の刃は、夕焼けを吸い込んで三日月のような光を放っている。逆光になっていて、あまり表情は分からないが、闇の中でも自ら光を発することができるみたいに、彼女のアイオライトの両目だけが浮かんでいる。
階段に腰を下ろしていた紫陽花は、ゆっくりと立ち上がると着物の上から尻を叩き、土埃を払った。
「運命ね…、素敵な言葉」
口元に微笑を浮かべる紫陽花からは、不思議と、いつもとは違う印象を受ける。普段と同じ艶やかな佇まいなのに、どこか…、そう、どこか自然だった。
「そういうことだから、早く二人きりにして頂戴」
二人揃っての要望に頷かざるを得ない。最後に視線を送った朱夏の顔には、今までのあどけなさは残っておらず、立派な剣士としての威厳、その一片を感じさせられる。
背を向け、階段を上り始める。燐子が何一つ言葉を残さなかったのは、勝ち負けではないと口にされた以上、檄を飛ばすのも違うと思えたからだ。
いくつもの風化した鳥居をくぐり、上へ上へと目指す。天に近づくかのようだ。
紅に染まる山並みを横目にしながら、燐子はぐんぐんと進んでいく。一方で、その頭の中では朱夏たちの放った、『運命』という言葉が気にかかっていた。鏡右衛門も、その言葉を使ったからだ。
――運命とは、一体なんだろうか。
燐子の脳裏に浮かんだのは、大きな川だった。
激しく踊り狂う流れに、誰もが成す術なく押し流されていく。
何もかもを飲み込む、川の流れ。その中に、私も飲み込まれているのか。
酸素を求めて必死に浮上しても、またすぐに冷たい水底に押しやられ、砂利と共に削られる。
目の前に迫る、運命の激流。
私をこの世界に流し、こうした役目を与えたものを運命と呼ぶのなら、抵抗は無意味なのかもしれない。
しかし…。
「その中でも、選ぶことはできるはずだ…。どのような流れの中であっても、自分の道を…」
気がつけば、燐子は階段を上り終えていた。
場面は再び、秋霜花の平原へと戻る。
両軍は激しくぶつかり合い、何人もの勇猛な兵士と、それを上回る数の魔物たちが死んだ。少しずつ、死体の数が生者の数に迫っている中、連合軍の本陣では魔竜の羽ばたきによって、次々と天幕が吹き飛ばされていた。
後退を促しても、頑なにその場に踏み止まるセレーネの周りを熟練の親衛隊が守る中、ミルフィはただ一人、魔竜と共に天を泳ぐヘリオスを目で追い続けていた。
矢を番え、狙いを定めようとするが、思っていた以上に機敏に動かれてタイミングが掴めない。このままでは矢をかすらせることすら難しそうだったが、それは相手だって同じはずだ。
「いつまでそうしているの!降りて来て、投降しなさい!」
「悪いがそいつはできないな。俺は、その不出来な妹を消さなきゃいけないんだよ!」
この男は、どこまで勝手なことを言うつもりなのだ。
憤りで体温が上がるのを感じながら、ミルフィは叩きつけるようにして怒鳴る。
「ローザをそんなふうにしておいて、よくもっ!」躊躇なく、指を離す。真っ直ぐ飛んでいく矢は魔竜の翼の間を抜けた。「愛する人のことをちっとも考えてあげられず、独りよがりにしかなれない男の言う事はっ!」
間髪入れずに二射目を放つ。今度は魔竜の横腹を少しだけかすめたようだった。
自分の不甲斐なさを罵る言葉に顔を怒りに歪めたヘリオスは、一度空中で静止したかと思うと、気合のこもった叫びを上げながらセレーネへ落雷の如く降下してきた。
あくまで自分を狙わないヘリオスに得も言われぬ感情が湧く。今一番自らの生命を脅かすのは自分の放つ鉄矢だというのに、彼はセレーネを葬ることに執着しているのだ。
そうしたところで、戦争は終わらない。こちらには指揮者として優秀な人間がまだ残っている。
もちろん、それはこちらだって同じことだ。連合軍とは逆にろくな指揮系統を持たない魔物たちだからこそ、頭が死んだところで負けを悟り、投降するようなことはないだろう。
ならば、なぜヘリオスがそこまでこだわるのか…。
凄まじい風圧と共に、ヘリオスたちが地上付近にまで降りてくる。そのまま流れるようにセレーネを守る親衛隊の盾を弾き飛ばすと、無防備な妹の頭目掛けて三節棍を振り下ろした。だが、違う親衛隊が盾をもってそれを阻み、また違うところから突き出される槍の穂先に押され、たまらず後退する。
「ちっ、烏合の衆の分際で…」
セレーネが下がろうとしなかったのはこのためなのか、とようやく合点がいった。空を飛ぶ相手に距離を取ろうとしても、いずれは詰められる。それなら、複数人で一箇所に留まり、迎撃したほうが得策だ。
「無駄だと分かりませんか、ヘリオス」あまりに冷淡な声に、思わずセレーネのほうを見やる。「私を殺したら、ローザと共に戦線から撤退するつもりだったのでしょうが、そうはいきません。何としてでも貴方を仕留めます」
「守られてばかりの死に損ないが、偉そうな口を叩くなッ!」
「黙りなさい、一人として守ってくれる者もいない、孤独で哀れな男が!」
ぐうの音も出ない言葉を返されたヘリオスは、怒りで顔を真っ赤にして三節棍を強く握り締めたが、背後から狙いを定めるミルフィの気配を感じて再び宙に舞い上がった。
低空から人々を見下ろしつつ、こちらへの警戒も緩めないヘリオスにセレーネは顔を上げて告げる。
「逃げても無駄です。私が生きている限り、地の果てまででも追って貴方たちを葬ります。投降すれば、命だけは助けてあげますが、その身は永遠に暗い牢獄へと放り込む。貴方たちの身勝手に巻き込まれて、これだけの人が死んだのですから当然です。
それすら聞けないというのなら、その罪は、その命をもって償いなさい。たとえ、貴方を殺しても誰も戻りはしないとしても…!」
「冗談じゃねえ、誰が逃げるかよ!」
ヘリオスは再び三節棍を構えたかと思うと、トントン、と軽く魔竜の首を叩いた。すると、竜は首をもたげ、霧状になった火炎を撒き散らした。
ドラゴンが吐くもののように苛烈な炎ではなかったが、それでも炎は炎。肌に落ちれば火傷するし、吸い込めば肺が焼ける可能性だってある。
「みんな、火の粉の届かぬ場所まで下がって!」セレーネの号令に親衛隊が動く。安全圏にいるミルフィだけが、じっとヘリオスの動向を窺っていた。
彼は躊躇なく魔竜の吐き出した火の霧の中へと身を躍らせた。後退してくることに気を取られた上、まさか自ら危険に飛び込むとは思いもしていないセレーネらは、竜と共に降下してくるヘリオスに気づいていない。
「セレーネ!」声をかけるが、号令と鉄のぶつかり合う音で彼女らには聞こえていない様子だ。「まずい…!」
ミルフィは慌てて矢を番え、降下してくる魔竜に狙いを定め放った。だが、勢いの速さと火の粉のために狙いが逸れ、当たらない。
「あぁもう!セレーネっ!」
大きな音と秋霜花の白い葉を巻き上げて、魔竜がセレーネたちの後方に着陸する。ようやく気づいた親衛隊が防御の陣を取って前に出るが、上体を起こした魔竜に前足で薙ぎ払われて、軽々と吹き飛ばされる。
「くたばれぇッ!」再び振り下ろされる魔竜の攻撃。今度は、セレーネを狙ったものだった。
果敢にも、親衛隊の一人がセレーネを突き飛ばし、その身を救う。ただ、彼女は木の枝でもへし折ったみたいに簡単に鎧ごと地面にねじ込まれてしまった。
セレーネの端正な顔が歪む。それでも、彼女は下がろうとはしない。
意地なのか、それとも何か策があるのか。
どうだっていい、やらなきゃいけないことは決まっている。
矢を番えたまま駆ける。竜との距離が縮む。
再び竜が上体を起こして一撃繰り出そうとしたのが見えて、ミルフィはこれ以上は親衛隊ももたないと判断し、正確な狙いをつける間もないままに、三射、早撃ちで魔竜の腹目掛けて矢を放った。
一本、二本と命中する。最後の一発は外れたが、柔らかい腹部に矢が突き刺さる痛みに、魔竜は高い悲鳴と共に後ずさる。
「もう一発…ッ!」とさらに追撃を放ちトドメを刺そうと試みるも、鬼の形相で魔竜の背から飛び降りてきたヘリオスに矢を弾かれて失敗に終わる。「やめろ、ローザを傷つけるなよ!」
その言葉に、一瞬心がぐらつく。しかし、直後、魔竜より放たれた火炎の霧にハッと我に返りすんでのところで横に転がり込んだ。
体を起こすと、ちょうど、丸腰のセレーネがヘリオスへの横から突撃しているところだった。
一体、何を…、と言葉も失ってセレーネの動きを追っていると、彼女は腕を吊る包帯の中から素早く短剣を取り出した。
煌めく銀の刃に、ヘリオスの動きが一瞬だけ止まる。敵も味方にも内緒で仕込んだ刃は、このためにあった。
ヘリオスは慌てて三節棍で刃を防ごうとしたが、一歩手前のところで間に合わず、刃はショートプレートの装甲の隙間から腹部に突き刺さる。
「ぐっ、が…」真っ赤な血が、刃をつたいセレーネの手を染める。「これで終わりです、ヘリオス兄様ッ!」
「な、めんな…!」
ぎらり、とヘリオスの瞳におぞましい殺気が宿る。そのまま片手でガシリとセレーネの前髪を掴む。
互いに睨み合う、灰色の瞳。そこに兄妹の情は微塵も残っていなかった。
セレーネを捕らえたまま、三節棍を握る右手が掲げられる。火事場の底力で頭を殴打されれば、撲殺されかねない。
ただ、対するセレーネのほうも逃げる様子は見せなかった。むしろ、短剣を握り直して、深く刺し込むほどだった。
ごふっ、とヘリオスの口から大量の血が吐き出される。切っ先が臓腑にまで達したのだ。
「俺は…!」どこにそんな力があるのか、彼も妹の体を離そうとしない。「俺はッ…!」
三節棍を振り下ろす力もないヘリオスに代わり、魔竜が鞭のような尻尾をしならせる。直撃すれば全身の骨が砕けるだろう一撃に、セレーネは目を丸く見開く。
「あっ…」
絶命の一薙ぎが彼女の体を頭から粉砕する刹那、気配を殺して近寄っていたミルフィが二人の間に飛び込む。
「その手を、離しなさいよっ!」一突き、狩猟用のナイフを振るう。
短剣を左手の甲に突き立てられた痛みで、とうとうヘリオスがセレーネを掴んでいた手を離した。
慌ててセレーネの体を引き倒しつつ、自らも後退する。間合いを取ったのだ。
尻尾が眼前に叩きつけられ、砂塵を巻き上げる。
視界が遮られ、何も見えなくなる。
それでも、ミルフィは迷うことはなかった。
息遣いが聞こえていた。命の音だ。
生き死にの間にある光が、ミルフィにも見えていた。ただ、彼女にはそれがとても不気味に思えた。
片方の足を引きなら矢を番え、めいっぱい弦を引き絞る。
金切り声のような音は、直に死を宣告する使者を連れて来るのだ。
「ぐ、くそぉ、どこだ、どこに行ったッ!」
口の中に血が溜まっているのだろう、くぐもった声でヘリオスがミルフィらを探す。
やがて、砂煙が晴れる。
そこには、腰を低く落として必殺の一撃を放つ構えを取っているミルフィがいた。
「――ごめん」
静かな、だが重々しい響きのある言葉と共に、死の閃光が放たれる。
風泣きの音が聞こえた。とても、悲しい声が。
そして鉄矢は、直線状に並んでいたヘリオスと魔竜の胸をまとめて貫いた。
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