各々の理由
セレーネらの見送りを受けた燐子は、寄り道一つせずグラドバランの城下町を出た。
雪でも降るのではないかと思えるほど空気は冷たく澄んでおり、外套の隙間から入り込んで来ては、燐子の体を固くした。
馬を使うべきかとも迷ったが、結局は徒歩で進むことにした。
地図を見たところ、急がずとも、東の山の中腹までは夕暮れ前には辿り着けそうだった。途中で休むところも散見されることから、公平を期すため、あえて鏡右衛門がそうした場所を指定した可能性も考えられる。
しかし、そうだとすれば彼はまだ甘さを捨てていないのかもしれない。
(…いや、そうではないだろう。完膚なきまでに私を叩きのめし、自らの仮説の証明が欲しいのだ)
そうして燐子は、黙々と歩き続けた。日が昇り、正午を回った頃には街道沿いの茶屋に辿り着いた。
(幸い、金銭も十分にあるし、腹が減っては戦はできぬとも言う。一度、このあたりで休憩を挟んでいくとするか)
農業の間に休みを取っているらしい中年の男女がベンチで休んでいる横を抜け、暖簾をくぐり、店内へと入る。そこで燐子は適当な団子を注文していたのだが、自分の分を一通り注文し終える前に、後ろから声が割り込んできた。
「それとぉ、追加でみたらし団子を三本!あ、お会計は一緒でいいよぉ」
まるで気配を感じなかったこともあって、びくり、と肩が跳ねるも、すぐに甘ったるい砂糖菓子のような声の主が分かって、燐子はため息を吐きながら振り向いた。
「おい、なぜいる」
「んー。私もちょっと用事があってねぇ」
「用事だと?まさか、私と鏡右衛門の戦いに割り込むつもりではあるまいな」
「そんなことしないよぉ。あ、ほら、あそこ空いている!」
みたらし団子を受け取った朱夏は、燐子の話を適当に受け流して水車の見える窓際の席へと移動した。仕方がなく、その小さな背中を追って席に着く。
「あぁん、これ美味しい!ね、燐子ちゃんも食べる?」
席に着くや否や、朱夏は行儀悪く団子にかぶりつき、咀嚼しながらそう尋ねてきた。
「随分と調子が戻ったみたいだな。で、用事とは何だ?」
尖った串の先をこちらの顔に遠慮なく向けてくる朱夏の姿を睨みながら、相手の問いなど無視して燐子も尋ね返す。
「えー、言わなきゃダメ?」
「無論だ。邪魔するつもりならば、足の腱を斬ってでも置いていく」
「うわぁ、こわぁい」
ころころと笑う彼女は、以前の狂気を取り戻しているように見えた。しかし、あっという間に二本目を平らげてしまった朱夏は、店員が温かい緑茶を運んでくるのを待ってから、意外にも理知的な声音で淡々と説明を始める。
「…まぁ、私にも腐れ縁の一つや二つ、あるってこと」
「それはシルヴィアのことか?」
「シルヴィアもそうだけど…。もっと古くから因縁のある相手がいるの」
「古くからの因縁だと?」そこでようやく、燐子は鏡右衛門の傍らにもう一人、重要な人物がいることを思い出した。「なるほど、紫陽花のことか。お前がもっと幼い頃から世話になっていたと本人から聞いたことがある」
「世話ぁ?ほんっと、いちいち癪に障る言い方するなぁ、あの女」
「紫陽花自身はとても満足そうに話していたぞ。よほど朱夏の世話係は退屈しなかったと見える」
ちょっとした皮肉を口にしながら、団子を頬張る。餡の甘さが体の隅々まで行き渡り、活力を補充してくれているような気がする。喉に流し込む緑茶の渋みと温度は、この真冬と言うべき時期にはありがたいものだった。
朱夏は燐子の言葉を受けて、ぷくりと頬を膨らませた。やがて、風船から空気が抜けるようにゆっくり元の顔に戻ると、三本目のみたらし団子を口に運んだ。
「切っても切れない縁だってことに間違いはないけどね」
食べ終わった団子の串を、朱夏はくるりと手元で回す。付着した茶色のタレが高い粘性を保ったまま揺れていたかと思うと、彼女はそのまま目にも留まらぬ速さで燐子の顔目掛けて串を投げた。
とっさに反応し、手に持っていた団子で串を受ける。大太刀の扱いに長けている上に、ナイフ投げが達者な朱夏らしい一撃だった。
「だから、私たちの決着は、私たちでつける」文句を挟む暇もなく、朱夏は機械的な口調で告げる。「邪魔…しないでね、燐子ちゃん」
アイオライトの瞳が真っ直ぐこちらを捉えている。そこには以前のような、狂気に染まった少女の姿はなかった。もちろん、それも薄まってはいるが確かに存在している。しかし、それ以上にある種の信念じみたものが感じられたのだ。
「…どういう理由かは聞くまい。私としても、鏡右衛門との戦いの邪魔にならないのであればそれでいい」
「ありがと。そう言ってくれると思ってたけどさ」
素直に礼を言われて面食らう。冗談かとも思ったが、窓越しに水車の回転を見つめる朱夏の白い横顔は真面目そのものといった様子だ。
「朱夏」
「んー…?」
「ジルバーの一件、よくやったな」
「なにぃ、急に。ジルバーを倒したのはあの女だよ」
顔を上げたまま机に突っ伏し、少しだけ気恥ずかしそうに言い訳する朱夏に、燐子は続ける。
「それは結果的にそうなっただけだろう。お前がシルヴィアを助けるため、間に入ったと聞いた。心を追い詰められながら、よくぞ立ち上がり、剣を振るった。同じ剣士として、そして、仲間として、私はお前を誇りに思うぞ」
自然と、朱夏の頭に手を置いていた。エミリオやエレノアとは違い、曇ったような金色をしているものの手触りは滑らかだ。
こうして彼女を称えるのも、大事なことだと思った。それだけのことをした。二度と太刀を振るわないと言った朱夏が、大太刀を手にあの戦場に来ていただけで立派なことだった。
――もう、朱夏を幼稚だなどと言えないな…。
彼女は剣士として、十分な素養を持っている。さすがは天地の血を持つ者だ。後は精神が成熟し、使命感や責任意識さえ芽生えれば問題ないだろう。
「えへへー、燐子ちゃんに褒められちゃった。お姉ちゃんがするみたいにぃ」
へらへらと締まりのない顔からは、鏡右衛門の血は見受けられないが…。
「あ!そっかぁ、お姉ちゃんと燐子ちゃんが結婚したら、燐子ちゃんも私のお姉ちゃんになるのかぁ」
頭を撫でる燐子の手がぴたりと止まる。
「な、何を言い出す、急に…」
「ぷぷ、知ってるよ。昨日、海岸でチュッチュしてたんでしょ?やだなぁ、はしたなくって」
「き、貴様…」
こういう人をからかう癖もなくす必要があるだろう。厳格な剣士としては。
「で?その後は帰ってから続きをしたのぉ?みんなに言わないから、私だけに教えてよぉ」
「…少し黙れ」
「どっちが上?見た目だけなら燐子ちゃんだけどぉ、どう見ても経験なさそうだしなぁ」
こういう下品な悪癖も矯正しておいたほうがいいのだろう。女子としても。
顔を赤らめてガタン、と立ち上がった燐子は、足早に店の外に出ようとしたのだが、後ろから追いかけてきた朱夏がそれを呼び止める。
「あ、燐子ちゃん。もう一本だけ奢って!歩きながら食べるからぁ」
相変わらず、とんでもない厚顔無恥さを発揮する奴だと飽き飽きしながら振り返り、じっとりとした目つきで朱夏を捉える。
「おい、ふざけるのもいい加減にしろ。どうしてこれだけ侮辱されて、私がお前に甘味を奢らねばならんのだ。ええ?」
髪を左右に揺らし、いつもの白いノースーリブという出で立ちでそばに寄ってきた朱夏は、あざとい上目遣いで小首を傾げた。
「えー、私にそんなこと言っていいのぉ?」
「なんだ、何が言いたい」
「燐子ちゃんのファーストキスが私だって知ったら、お姉ちゃん、どんな顔するだろうなぁー?」
「なっ…」
にやにやした顔で自分の周りをくるくる回り始めた朱夏の、あまりに情け容赦のない一言に燐子は唇を噛んだ。
最近になってようやく、朱夏も道徳心の欠片ぐらいは学んだと思っていたが、とんでもない勘違いだった。
「じゃ、邪悪…!」
キラキラした菫青石の瞳の中には、あどけない少女の顔をした悪魔が住んでいるようで、そいつは善悪の秤を持っていないらしい。
「はいはーい、邪悪でぇす」
「お前の胸には、私やミルフィへの恩義が微塵もないのか…!?」
「恩義ぃ?ねぇ、そんなのキャンディの包み紙みたいにどうでもいいから、早くぅ」
こちらの屈辱や悔しさなど踏みにじる価値もないと言わんばかりに、差し出した掌を小刻みに動かし、さっさと金を寄越せとジェスチャーで伝えてくる。
(こんな奴の言いなりになるなど…、それでいいのか、燐子)
朱夏にいいように使われる自分の姿と、ミルフィに愕然とした眼差しを向けられて硬直する自分の姿とを想像して、頭の中で天秤にかける。
しばらくして、はぁ、とため息を吐いた。
荷物から財布を取り出し、硬貨を漁る。
「…いくらだ」
「きひひ、話が分かるねぇ、燐子ちゃん!」
満面の笑みの中に邪悪なものが入り混じっているのも、朱夏らしいとは思えた。
燐子らが茶屋を出て、再び東の山を目指し始めた頃、グラドバランの本陣では激戦の火蓋が切って落とされていた。
敵軍は総力を注ぎ込んでいるらしく、先日よりも敵の数が多かった。下手をすると連合軍の倍近い兵力があるのかもしれない。しかし、個の力という点では連合軍のほうが圧倒的だった。
特筆して目立った活躍をしているのは帝国特師団だ。怪我をしているとはいえ、メンバーの半数が残っていて、例外なく前線に出ている。最後の戦いということもあってか、普段以上の力を発揮しているようだった。
戦況は決して油断できるものではない。前向きに見積もって、五分強といったところだろう。
ただし、裏を返せば、相手ももう余裕がないというわけだ。この戦いにさえ勝利を収めることができれば、それは大きな戦争の決着を意味することとなる。
ミルフィは、いつものように前線に出ることなく、最高司令官でもあるセレーネのそばに付いていた。
理由は一つ。またヘリオスが単騎で彼女の首を狙いに来たとき、確実な有効打を持っているのが自分しかいないと考えたからだ。
あの魔竜――ローザだったものの鱗を撃ち抜けるのは、自分しかいない。
…だが、果たしてそれでいいのか。救う術はないのか。
戦争が始まる前に聞かされた衝撃の事実に、ミルフィは我を忘れて激昂したが、不安そうなルルに手を引かれ、なんとか自分を取り戻すことができた。
あのジルバーという人間も同じような薬を注入され、魔物と化してその生涯を終えてしまったらしい。あまりにも酷く、とても人の死に方とは思えなかった。
選ぶしか、ないのかもしれない。痛くなる心臓にそう言い聞かせる。
騎手だけを射るだとか、翼だけを撃ち抜くだとか、色々と考えた。だが、自分の甘さが原因でセレーネの生命や軍全体が脅かされる可能性があると考えたれば、決めるしかないと腹をくくるべきなのだろう。失敗してからでは、何もかも遅い。
親衛隊のマントとスカートがたなびく。普段は着用しない軽鎧も今回は身につけてきた。絶対に死にたくはなかった。
ようやく、両想いになれた。もっと、これから先がある。終わらせるわけにはいかない。
意外と甘味が好きな燐子のために、デザートが美味しい店に行くのも良い。絶景や、文化財にだって燐子は目がない。帝国を周るのも悪くはないだろう。
ぎゅっ、と拳を握る。視線の先、すでに大半が焼け焦げてしまった秋霜花の平原では、多くの兵士が戦い、傷つき、そして死んでいった。
見ているだけしかできないこの場所は、とても歯がゆい思いをミルフィに強いた。それを悟ってか、セレーネが俯きがちに寂しそうに声を発する。
「…一刻も早く、この戦争を終わらせたいけれど…、それは、ヘリオス兄様と、愛すべき友、ローザを葬らねば得られない…。どうして、こんなことになるのでしょうか…?」
「分かんないわ、そんなの。私のほうが知りたい」
「もしかすると、何かを望む気持ちが、人を悪魔に変えるのかもしれません」
「でも、そんなの誰の心にだってあるわ。私にも、セレーネにも」
ミルフィがそう言うと、ますますセレーネは深く俯いた。
「そうです。誰の心にだって闇は巣食う。私、ヘリオス兄様やお姉さまの話を聞いて思ったんです。立場が違えば、ヘリオス兄様のようになっていたのは、私なんじゃないかって。
もしも、お母様がお姉さまを排斥したのを知っていたら、絶対にお母様を憎んだ。生かしておけないほどの憎悪を抱いた、そんな気がするんです」
「セレーネ…」
「ほんの少し、ボタンをかけちがえただけ。ヘリオス兄様も、きっと、鏡右衛門という人も、もしかすると、ライキンスだって…」
「セレーネ、もうやめて。そんな『もしも』の話をしたって、しょうがないじゃない」
「でも…!私はきっと、たまたまかけちがえなかっただけなのよ…!」
「…ええ、そうね。そうかもしれない。だけどね、そうならなかったのよ。かけちがえなかったのよ、アンタも、私も」
隣に立つセレーネのほうに体を向ける。すると、彼女も不安そうな顔でミルフィへと向き直った。
真正面から見つめ合っていた二人の間を、白い、秋霜花の葉が強風に巻き上げられて駆け抜ける。
「セレーネ、逃げちゃ駄目。背負わなきゃ」
「ミルフィ…」
「私も、逃げない。重たいものは一緒に背負うから。だから…!」
ミルフィが言葉を紡ぎ終える前に、頭上、空高くで甲高い魔竜の咆哮が聞こえた。
――彼が来たのだ。彼女と共に。
びくり、と肩を震わせながらも、ミルフィは素早く鉄矢を手に取った。そんな彼女を見て、セレーネが表情を歪める。
「やっぱり、貴方が一番強いのかもしれないわ、ミルフィ」
言葉とは裏腹に、声色は全て悲壮に染まっている。決着の時が迫っているのを肌で感じ取っているからなのかもしれない。
すぐに、天空から魔竜に騎乗したヘリオスが降下してきた。垂直落下してくるみたいな直線的な敵意と殺意に、近くにいた兵士共々、ミルフィは体を固くした。
ここからでも、痛ましいヘリオスの顔が見える。
戻ることのできない隘路を、彼は今進んでいるのだろう。
「セレーネぇッ!」
落雷の如く、彼らが突っ込んでくる。
その軌道を遮るようにして、ミルフィは鉄矢を放った。
「くっ!」
危うく鉄矢を飲み込みかけた魔竜は、慌てて側転して攻撃を躱した。それで大きく減速したヘリオスの前に歩み出て、その追い詰められた瞳を睨みつける。
「もう、終わりにするわ。ローザを解放して、投降しなさい、ヘリオス」
「ミルフィちゃん…!一度とならず、二度までも…!」
次第に込められていく敵意に怯まぬよう、燐子から貰った夜緑色の髪紐に一瞬だけ触れ、それから、ゆっくりと鉄矢を弦に番えて構える。
「それができないってのなら…、私がアンタを撃つわ。たとえ、この手をローザの血で染めてでもね!」
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