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竜星の流れ人  作者: null
終部 五章 約束の夜
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約束の夜

決戦前に、燐子とミルフィの関係にも形を与えてあげようと思います。


長くはなりましたが、お楽しみ下さい。

「ミルフィ…、いや、特に理由などないのだがな…」

「あっそ」


 臙脂色の髪を三つ編みで結んだ彼女は、確認など取ることもなく燐子の隣に座った。肩が触れそうな距離が落ち着かない。


「聞いたわよ?セレーネからのプレゼント、突っぱねちゃったんだって?」


 いたずらっぽく笑う彼女を見て、胸が高鳴る。これが見られただけでも、生き残った価値はあったと素直に思えた。


「突っぱねたつもりはないが…。いや、結果的にはそうなったのか…」

「馬鹿ねぇ、燐子ってば。貰えるものは貰ってやればいいのよ」


「む、そう簡単な話ではない」


 ついムキになって応じると、ミルフィに、頬を人差し指でさされてしまう。


「あはは、なぁに怒ってんのよ。冗談よ、冗談。燐子にとって、サムライとかいうのがとても大事なものだってことぐらいは分かってるわよ」

「そ、そうか」


「私が言いたいのは、受け取らない理由もないでしょってこと」

「受け取らない理由だと?」


「そう。だって、その位が燐子のことを変えちゃうわけでもないし、何か果たさなきゃいけない責務が生まれるわけでもないなら、別にいいじゃない」

「何を言う、責務なら生まれる。『侍』という位が仮にまやかしのものであったとしても、その名に恥じぬ振る舞いは必要となろう」


 やはり、肝心なところが分かっていない。


 そう考えた燐子が、横目でミルフィを睨みつけようとしたところ、妙にニヤついた目つきでこちらを見ていた彼女と目が合った。


「な、何だ。何がおかしい」

「じゃあ聞くけど、燐子はその位が無いと、恥と思わなきゃいけないような振る舞いをしちゃうの?」

「馬鹿馬鹿しい。そんなわけがなかろう」


 ぴしゃりと言い切ってから、ようやくミルフィの意図するところが理解できた燐子は、バツが悪そうに頭の後をかいた。


 そんな燐子の姿を、してやったりといった表情で見つめていたミルフィは、やがて、肩を寄せて燐子に体重を預けた。


 夏を彷彿とさせるミルフィの爽やかな香りは、孤独を加速させる冬の寒空には不似合いな感じがした。


「ほら、あってもなくても、燐子は燐子じゃない。だったら、大人しく貰ってあげたほうがみんな喜ぶわよ」


 言葉巧みに行く手を遮るミルフィを前に、燐子は自ずと黙らざるを得なくなる。


 普段は熱くなりやすく、支離滅裂な発言が目立つこともあるミルフィだったが、冷静なときは頭の良いところを披露することもあるというわけだ。


 燐子が不服そうな顔つきで無言になっていると、不意に、ミルフィが珍しく甘えたような声を出した。


「何かあるなら、包み隠さず言ってね…?燐子の考えていることなら、私、何でも知りたいから」


 不意を打たれるようにして告げられた言葉からは、ハッキリと好意が感じられる。純粋な想いに刺し貫かれるような息苦しさを覚え、燐子は何かに操られるようにして口を開いた。


「ここでおいそれと受け取ってしまったら…、今までの私はどうなるのだ。

 何の対価を得られずとも、気高くあるために剣を振るい続けてきた過去の私に対し、面目が立たん。まるで道化ではないか。哀れすぎると思わんか…」


 燐子自身、理解してもらえるとは思っていなかった。この世界の人間と、私たちとでは、価値観が違いすぎる。この大きな差異に、鏡右衛門も苦しめられたのだ。


 だが、てっきり妙な顔をしていると思っていたミルフィは、むしろ、燐子以上に深刻な面持ちでこちらを見つめ返していた。


「道化でも、哀れなんかでもないわよ。燐子は、今までずっと頑張ってきたんじゃない!その努力が報われることに、まやかしもクソもないわよ」



 すっと、視線を逸らされる。理解への拒絶ではない。何かを躊躇したのだと直感的に分かる。


 そのままの状態で、ミルフィは尋ねる。


「それとも燐子は…、まだ、元の世界に帰りたい?」意外な問いに、燐子は面食らった。「燐子にとってこの世界は、今でも異世界のままなの?」


 滲み出るミルフィの不安にも気づかず、聞かれたことに対して素直に燐子は答える。


「帰りたいかと聞かれれば、肯定するしかあるまいな」


 確かにあの場所には、やり残したことが無数にあるのも事実だ。


 今なら、父と自分の国を滅ぼした仇敵にもその報いを受けさせることができる気もしたし、あちらの世界にある美しい風景たちのことにも、もっと興味を持つことができる気もしていた。


 ただ、問題もある。


 燐子は自分の左手の甲を見つめた。あの極彩色の輝きが嘘だったかのように、流星痕は沈黙を保っている。


(向こうには、私を強くしてくれた者たちはいない…。私と真正面からぶつかり続けてくれる相棒も…)


 どういう言葉にすれば、今の自分の想いが伝わるだろうか。上手く自分の気持ちを表現できない自分がもどかしい。


 そうこうしているうちにミルフィは、弾かれるようにして立ち上がった。手を後ろに組んで、「ふぅん」と震える声で呟く彼女は、そのまま無造作に靴を脱いだかと思うと、波打ち際まで足を運んだ。


「うわっ、冷たいなぁ」

「おい、風邪をひくぞ」


 燐子が声をかけても反応はなく、ミルフィはただ真っ暗な海を一点に眺めるばかりだ。


 そんな姿に、様子がおかしい、そのまま海に溶けていくのではないか、という荒唐無稽な不安を抱いた燐子は、靴が濡れるのもおかまいなしで彼女の背中を追い肩に手をかけた。


「聞いているのか、ミルフィ」半ば無理やり振り返らせたミルフィの顔を見て、燐子はぎょっとした。「お、おい…」


 柘榴石のようなミルフィの瞳が、月光を吸い込んでキラキラと輝いていた。やがて、美しさが凝縮されたみたいな透明の雫が目元に浮かび上がったかと思うと、すぅっと流線形を描いて顎のほうまで滑っていく。


「泣いている、のか…?」


 あまりにも心当たりがなくて呆然と呟いた燐子の手を体の動きだけで払ったミルフィは、肩を震わせながら言った。


「嘘でもいいから、帰りたくないって言って欲しかった。今の自分の居場所は、ここだって。よく分かんない世界じゃなくて、私の隣が――」


 涙で言葉を詰まらせた彼女は、くるりと背を向けると嗚咽を漏らしながらじっと立ち尽くしていた。


 波が白い泡をかきまぜて、二人の足元の砂をさらう。その美しい規則的な音を聞きながら、燐子は空いた口が塞がらないまま、ミルフィの出方を窺っていた。


 やがて、少しばかり落ち着きを取り戻したらしい彼女は、それでもまだ涙に濡れた声で続ける。


「私の隣が、帰るべき場所だって…!アンタ、自分の気持ちを言ってくれるって、今日こそ…なのに…!」


 そこで再び言葉を詰まらせたミルフィの声に、ようやく自分がどれだけ情けのない真似をしているかを燐子は理解した。


 ――私は、一体何をやっている…。


 ミルフィを悲しませたくないと言いながら、いつまで経っても私はこうだ。


 彼女の苦しみを理解してやれず、気付いたときには、いつもミルフィを悲しみの淵に追いやった後ではないか。これでは、相棒などと聞いて呆れる。


 ぎゅっと両手を握りしめる。頼りの太刀もなく、空を掴んだ燐子の手は小刻みに震えていた。


 燐子は、すがるものを探している場合か、と自分を戒め、大きく息を吸い込んだ。だが、何をどう口にすれば自分の想いが過誤なく伝わるかが分からず、結局は力なく項垂れる。


「…私は、どこまでいってもこうだ。大事な人の気持ち一つ分からず、自分の気持ち一つ上手く伝えられない」


 情けなさから勝手に口が動いた。自分を貶めるような言葉を吐き散らすのは、燐子にとって珍しいことだった。


「きっと、所詮は剣鬼でしかない私には誰かを幸せにする資格などないのだな…」


 そう言うと、燐子は自分の髪をまとめていた紙紐を解いた。それは、かつてカランツの村にて決戦が行われたとき、ミルフィが燐子に与えたものだった。


 意図せずとはいえ、この世界における婚姻の儀である、髪結いの儀をその紐で二人は行っていた。


 二人を繋ぎ止める、一番大事な鎖だった。


 垂れ下がる黒髪が夜の闇に溶けた。一つになろうとしているかのようだった。あるいは、闇に引きずり込もうとするみたいに。


「こうやってお前を悲しませるぐらいなら、いっそ…」


 肩の震えが段々と大きくなっているミルフィの背後に近づく。燐子は一瞬手を止めながらも、何かを断ち切るように素早くミルフィの三つ編みを留めている夜緑色の紙紐を解いた。


 バサリ、とミルフィの赤髪が背中に落ちる。美しい夕焼けみたいだった。夜の中でも、それはハッキリと感じられた。


 一際大きく、ミルフィの肩が跳ねた。それから、こらえきれなくなって彼女はこちらを振り向く。


 臙脂色の瞳に大粒の涙をためたミルフィの唇が震えているのを見て、どうしてこうも、自分は不器用なのだろうかと胸が痛んだ。


「強く、優しいお前を幸せにするのは、同じように平和を愛せて、慈愛に満ちた人間なのだ。私ではない、私のような人間であってはならない…!」

「燐子…!」


 この手は、ただの薄汚れた破壊者の手ではない。父や兄妹たちの血で染まった、正真正銘、生粋の修羅の手なのだ。


 たとえ、今彼女が苦しむことになっても。結果的には、これが正しいことなのだと、燐子は心の底から思っていた。


 一時の感情に乱され、本当に大事な人の幸せを損なうわけにはいかない。


 人を斬って生きてきた私が、優しい女と幸せになる資格はないのだ。


 本気で、そう思っていた。


 だからこそ燐子は、解いた二つの髪紐のうち片方――元々ミルフィのものであった髪紐で、彼女の髪を結ぼうと触れた。


 だが…。


(…どうしたことだろうか、なぜ、指先が動かん?)


 燐子のしなやかな指は、冬の潮風で凍りついてしまったかのように動かなくなっていた。


 驚きで目を丸くしていた燐子を案ずるように見つめ返す、そのルビーの瞳を覗き込んだとき、ようやくその呪縛は解けた。だが、今度は無意識で指先が動いた。


 指先が、ミルフィの髪をなぞった。柔らかな感触に胸が熱くなっていると、ミルフィのほうから燐子の掌と自分の掌を重ね合わせてきた。


 そのまま、涙で濡れた頬に押し当てられる。冷たい風になでられながらも、確かに彼女の頬も自分の胸と同じ熱を帯びていた。


「嫌だ…」気がつけば、燐子はそう口走っていた。「到底納得できない、お前の隣を誰かに譲るなど、納得できるものか!」


 自分でもわけが分からないくらい頭が真っ白になって、戦っているときと同じくらい大きな声が出てしまう。これにはミルフィも驚いて、硬直していた。


 同じ熱を共有していると悟った瞬間から、手を伸ばせば手に入ると悟った瞬間から、もう後には引き返せなくなっていた。


 今度こそ、自分が欲しい物に素直な気持ちになろう。そうしなければ、欲しい物は手に入らない。


 次から次に迫る波に急かされるみたいに、燐子は言葉を紡いでいく。


「私は、私自身の愚かさでお前を傷付けてでも一緒にいたい。同じものを見て、感じ、喜び、悲しみ、時に罵り合ってでも、共にあること選びたい。

 旅の最中だろうと、豊かなカランツだろうと、プリムベールだろうと、どこでもいい。問題はそこじゃない。

 私とミルフィが違う生き物であっても、一生、理解し合えない溝を互いに持ち合わせていたとしても、私はミルフィと共にありたい」


 心の水底から次々と水泡みたいに浮かんでくる言葉に、なんだ、存外簡単じゃないか、とおかしくなった。自分の膝が震えているのにも気づかずに。


 初めはぽかんとした表情で聞いていたミルフィも、次第に顔を赤くしながら、これ以上ないくらいの微笑を浮かべ始めていた。彼女の胸のうちにあった不安や戸惑いが、波にさらわれていくのが肌で感じられた。


 言いたいことは次々と溢れてくる。とはいえ、肝心なことを言えていない。これを伝えなければ、二人の関係はいつまで経っても変わりはしないだろう。


 腹をくくるときだ。太刀に頼るな。冷静にも戻るな。


 こういうことには臆病な自分だからこそ、月夜の魔力と、勢いに頼って伝えるしかない。情けないかどうかなど、この際二の次、三の次である。


 大きく息を吸う。冷たい空気が肺に入り込んでくるが、胸の中心の熱は冷えることはなかった。


 ――単純な言葉でいい。単純なものほど強いと、誰かも言っていた。


「…ミルフィ、私はお前のことを愛している」


 肩を強く掴む。それで彼女は、「きゃ」と小さい悲鳴を上げていたが、懸命な燐子の顔を見て、とうとう黙っていられなくなり泣きながら声を発する。


「なによぉ、私だって好きよ、大好きに決まってるじゃない。もう、変なことばっかり言って、不安にさせないでよ…」

「そうだな…、すまん」

「だいたい!勝手に私の幸せを燐子が決めないで、馬鹿!」

「…あぁ。本当に、馬鹿だ、私は」


 いてもたってもいられなくなって、燐子はミルフィの体を両腕で抱きしめた。二人の長い髪がふわりと浮いた。


 寄せ合った胸から、彼女の温もりが伝わってくる。柔らかい感触、甘い香りに自分の中の何かが満たされていくような気がして、燐子は思わず瞳を閉じる。


「危うくお前を失うところだった…」


 少しだけ身を離し、至近距離で見つめ合ったまま燐子はこんこんと告げる。


「私が抜き身の太刀だとすれば、ミルフィ、お前は鞘なのだ。抜かぬ太刀が一番良い太刀だという。だからお前が常に共にあってくれなければ、私はなまくら同然になってしまうことだろう」


 我ながら気の利いた表現ができた、などと考えていた燐子だったが、充血した瞳でじっとりと睨みつけられて、どうやら見当違いだったと悟る。


「あのさぁ…、そんな例え方、女の子相手にするぅ?」

「べ、別にいいではないか」

「ま、燐子らしいと言えば燐子らしいかもね、ふふ!」


 突然、上機嫌になったミルフィの視線から逃れるように、再び髪を元の形に結び直そうとする。しかし、ミルフィはやんわりと手を出してそれを制した。


「どうした?」と問う燐子に対し、ミルフィは紅葉を散らしながら応じる。「んー…、今くらいはこのままでもいいかも。だって、髪下ろしてる燐子、とても綺麗だから」

「き――」


 燐子は言葉を失いつつも、またからかわれていると考え、ふいと顔を背けた。だが、あまりにも彼女がしつこく髪のことを褒めてくるものだから、つい視線を戻して、本気かどうか確認してしまう。


「燐子」ほんの少しだけ低い位置にある柘榴石の瞳と目が合う。そのまま、ミルフィの両手が首の後ろに回される。「あのさ、キス、してもいい?」


「き、キス!?」驚いて、大声が出てしまう。「ちょっと、そんなに大きな声出さないでよ。みんなに聞かれてもいいの?」


 慌てて人がいるほうを見やる。かなりの距離があるおかげで、声はおろか存在すら気づかれていなさそうである。つまり、今のミルフィの言葉はこちらをからかったというわけだ。


 とはいえ、動転して大きな声を出したのは確かに品のない行為だ。こほん、と一つ咳払いして、ヒソヒソ声で尋ね返す。


「…私が、そのぉ、される側なのか…?」

「ぷっ、何よ、される側って?どっちもする側、される側でしょ。変な燐子」

「そ、そういうものなのか…」


 あまりに不慣れなことで、緊張から口ごもってしまう。どうにもこうしたことには弱いと自覚する。


 ミルフィがひとしきり鈴のように笑うのを待ってから、精一杯の強がりを見せるために深く頷いて答える。しかし、頷いた拍子に喉が鳴ったので、冷静ではないことは彼女には筒抜けだったことだろう。


 くすり、と彼女が微笑む。一回り大人びて映る表情に、目を奪われる。


 やがて、燐子は相手に言われるがまま瞳を閉じた。これには内心大助かりだった。なぜなら、これ以上、ミルフィの顔を見ていたら緊張で逃げ出したくなりそうだったし、胸の鼓動も限界を越えて破裂しそうだったためである。


 彼女が唇を寄せるまでの寸秒は、燐子にとって、そしておそらくミルフィにとっても、一瞬のようでいて、永劫にも感じられる時間だったに違いない。


 ただ、その奇術のような時にも終わりはくる。福音は、ミルフィの短い吐息と共にやって来た。


 最初の感想は、思っていた以上に柔らかいものだな、という安っぽいものだった。そして次に浮かんだのは…。


(なんだ、いざやってみたら案外どうということはないではないか)


 妙に意識していた自分が馬鹿らしくなった燐子は、唇が重なったままなんとなく目蓋を上げた。それが燐子にとっては、致命的な行為となってしまう。


 いつからか分からないが、瞳を開けて至近距離でこちらを見つめていたミルフィと目が合う。


 刃と刃がぶつかる刹那に弾ける火花のように、互いの瞳の間に閃光が走る。それで燐子は、たまらず体を離そうとした。だが、完全に離れきる直前にミルフィの両腕に力が込められ、逃れることができなかった。


「ど・こ・に・行・く・の・よ…!」首の骨でもへし折るつもりかと言いたくなる力だった。「たわけ!な、なぜお前は目を閉じていないのだ!いつから見ていた、いつから!」

「最初からだけど」

「なぜだ!?私には目をつぶらせておいて、卑怯だぞ!」

「はぁ?私も目をつぶるなんで言ってないわよ」

「屁理屈だ、そんなもの!断固、抗議する!」

「あぁ、もう、うるさいわねぇ!いいから、大人しくしてなさい!」


 ぐいっ、とさらに体を寄せられる。

 ミルフィのあどけなさの残る顔が眼前にまで迫った。


「こっちは、随分と待たされてるんだから…。少しぐらい、私の好きにさせて」


 ね、と甘えるような声で念押しされて、燐子はたまらず言葉を失った。そうしているうちに、再びミルフィから唇を寄せたのだが、今度は重ねるだけではなかった。


 舌の表裏によって違う、ざらりとした感触とぬるりとした感触が、小さく開けた唇の隙間から入り込んでくる。


 朱夏のときも同じようなことはされた。しかし、今回はまるで体の反応が違った。


 快、不快を通り越した感覚に全身が総毛立つ。

 頭の中が混沌として、自分が今何を考えているかも分からなくなる。


 聞こえるのは、足元で囁き声を漏らす波の音とミルフィのかすかな息遣い。そして、自分のものとは思えない、呻くような、空気を求めるような声。


 無意識のうちに、片手でミルフィの肩を押し返そうとするも、力の差がありすぎてまともに動かない。


「み、ミルフィ、少し待て、待ってくれ」なんとか顔を離して懇願するが、「ごめん、無理」と再び舌を絡められる。


 そうして、どれだけの時が経っただろうか。燐子はとうとうこらえきれなくなって、がくりと膝を曲げた。


 ようやくやりすぎたと反省らしいミルフィは、赤らんだ顔で燐子の体を支え真っ直ぐ立たせると、「あー…、ごめんね?」といたずらがばれた子どもみたいにぎこちなく微笑んだ。


 ごめんねではない、と言い返したくなったが、酸素を求める脳みそが優先すべき事項を書き換えていった。


 無言のまま、ぼうっとした頭で燐子は月を見上げていた。


 ――月が、とても綺麗だ。


 生まれてから、何度も目にした月なのに。

 今日は不思議と、青く幻想的に輝いていて、美しく感じられた。


 今日という日を――ぞっとするほどの多幸感に包まれた日を、自分は一生忘れないだろう。

 きっと、この身が朽ち果ててしまう刹那にすら、思い出せるはずだ。


 ちゅっ、と濡れた唇の感触が頬に落ちる。


「なぁに可愛い顔して呆けてんのよ?もう」


 言葉を紡ぐことのできない唇が、いつまでもミルフィの柔らかな感触を記憶している。そんな気すらする。


「…ずっと、私のそばにいてね、燐子」

読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!


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