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竜星の流れ人  作者: null
終部 五章 約束の夜
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息継ぎの月夜

 その夜は、静かな冬の夜だった。風も眠っているかのように弱く、砂をさらう波の音と、誰かがすすり泣く声以外、何も聞こえなかった。


 月光に照らし出された波間は、白く、人の魂を慰めるように優しく揺れている。


 ジルバーを含め、先日の戦で亡くなった多くの将兵たちの死を悼むため、燐子たちは海岸沿いに来ていた。


 一日がかりで立て直しや遺体の埋葬をしていたために、こんな遅くになってしまったが、それでも、しないよりはマシだということだった。


 死者を悼む言葉と共に、あるいは、仇討ちを誓う言葉と共に、人々は海へと蝋燭を流した。鏡右衛門がここに来てから生まれた風習の一つらしい。道理で懐かしい感じがするわけだった。


 小さくも、強く輝く光が波間へと消える。それを見届けた燐子は、人の群れから一人離れて海岸を歩き出した。


 連合軍とライキンスらの最初の戦いは、連合軍の勝利という形で終わった。多くの兵士が犠牲になったが、それ以上に、敵の軍勢の被害は大きかった。


 ライキンスも、燐子にドラゴンを討たれて逃亡を図ったらしい。その道中でジルバーを低俗な魔物に変えてしまったというのだから、本当に、何度殺しても足りないほどの男である。誰に見つかっても、八つ裂きにされることは間違いないだろう。


 夏のときと同じで、この世界での冬は、日の元にいた頃よりもずっと過ごしやすかった。さすがに薄着では耐えられないが、ある程度着込めば問題はなかった。


 ただ、当然ながら吐く息は白い。


 一瞬で消える白い吐息を目で追う。海のほうでは、まだ暖かな光が揺れていた。


「燐子さん!」後から自分を呼ぶ声がして、燐子は振り向いた。「…セレーネ女王。お怪我は大丈夫なのですか?」


「大丈夫、ではないですが…。こうして死んでしまった者が大勢いるのです、生きている私が、ちょっとの怪我で引きこもるわけにはいきません」

「骨折は、ちょっとの怪我ではないと思いますが…」


 セレーネは右腕を白い布で吊っていた。肩の骨が折れてしまっているらしい。聞いて驚いたのだが、竜に変えられたローザに乗ったヘリオスと、一騎討ちを行った結果のようだ。


「ミルフィに聞きましたよ。彼女を本陣に送り返したのは、貴方の指示だったそうではないですか」

「左様です。私はドラゴンの相手で忙しかったものですから、代わりにミルフィを送りました」

「そうでしたか…。燐子、本当にありがとう。ミルフィが来てくれなかったら、私は地面に叩きつけられて死んでいたでしょう」


 聞いたところによると、セレーネを天馬から落としたヘリオスは、その天馬が主を救おうとするのを阻もうとしていたらしいのだが、ミルフィに鉄矢を放たれたことで失敗したらしい。


 女王の生命を救ったミルフィも大いに称賛されていたが、それ以上に、ドラゴンを単騎で仕留めた燐子への称賛も凄まじいものであった。しかし、朱夏から鏡右衛門の伝言を受けた途端、燐子は口を閉ざしてしまった。


 鏡右衛門が指定した満月の晩は、明日だ。近い日取りに、燐子の神経は昂ぶるばかりである。


「…褒美なら、ミルフィにたっぷりと与えてやってください。カランツへの土産ができれば、アイツも喜ぶでしょう」

「もちろん、そうします。ですが、貴方への褒美を損なうようなことがあっては、女王の名が廃ります」


(そんなもの、私には関係ない)


 辟易とした気持ちになった燐子だったが、続くセレーネの言葉にさらに表情を曇らせる。


「私たちは、貴方に、爵位を与えたいと思っています」

「爵位?まさか、地位に就けるとおっしゃられているのですか?」


 緊張した面持ちで深く頷いたセレーネに対し、燐子はきゅっと唇を固く結んだ。


「何度も言わせないで頂きたい。私は、二度と主君を持たぬと伝えたはずです」

「承知しています」

「では、なぜゆえにそう何度も繰り返すのですか」

「…これぐらいしか、私にできることはないから…」


 急に泣きそうな声を出されて、燐子はぎょっとした。


 幸い、かなり人混みから離れていたので二人のやり取りを聞いている者はいなかったのだが、不安そうではあるものの、簡単には引き下がるつもりもなさそうな女王の瞳を見れば肩も重くなる。


「はぁ、そのような言い方は困ります。セレーネ女王、私は自分の好きに生きているだけです。ですから、誰からも恩返しされる謂われはないのです」

「貴方が言いたいことはだいたい分かっています。ですから、形だけで、何の拘束力も責務もない爵位を与えようと思っているのです」

「それなら尚のことです。そのようなもの、貰ったところで――」


 燐子はいい加減面倒になってきて、ぶっきらぼうに言葉をぶつけて立ち去ろうとしていたのだが、セレーネに発した言葉に面食らって、立ち去るどころではなくなってしまった。


「私が貴方に与える爵位には、『侍』という名を考えています」


 最初は聞き間違いかと思った。しかし、目を丸く見開いた燐子を見返すセレーネの瞳が、ある種の不安と決意に満ちているのを悟ったとき、そうではないと直感した。


 舌が乾いて、言葉が出ない。自分でもおかしいほど混乱しているのが分かった。


 かつて、死ぬほど欲しても手に入らなかった存在が、突然今、自分の目の前に降って湧いてきた。


 もちろん、この世界における『侍』が、自分の渇望していたものとは違うことぐらい、頭では分かっている。だが、女王という壮大な権力が与えるその名が、全くの無価値ではないことも分かってしまっていた。


 困惑する燐子を見かねたセレーネは、緊張した口ぶりで言葉を紡いだ。


「燐子さんにとって、この名がどれだけ重いものなのかも、重々承知しております。その上で、私は貴方の望みを一つでも叶えてあげたいのです。

 元の世界では、女性であった貴方は『侍』という位に就けなかったと聞きました。それは、私が消し去りたいと思っている理不尽にとても近しいものだと感じたのです」


 だから、と言葉を続けようとしたセレーネに片手を突き出して制する。憤然とした感情が爆発してしまいそうになりながらも、燐子は唇を噛み締めて声を発した。


「鏡右衛門殿といい、貴方といい…。どうしてこうも、私の前にそれをチラつかせるのですか…!」


 折り合いをつけたと思っていたことが、再び燐子の心を揺さぶる。


(どれだけ手を伸ばしても手に入らなかったのに、どうして今になって…!)


 地位のために戦ったのではない。

 誰かのために戦ったのではない。

 自分は、自分がそうしたいがために戦ってきた。


 結果的に多くを救うことになったかもしれないが、それでも、自分は…。


 心を落ち着かせるために、佩いた太刀へと手を伸ばそうとするが、あるべき場所に太刀はなかった。そういえば、フォージとスミスの頼みがあって、太刀を貸しているのを忘れていた。修繕してくれると言っていたが、一日足らずでできるのか心配だった。


 感情の矛先を失い、燐子はぎゅっと拳を握りしめる。上手く言葉にできない、やり場のない感情を持て余していたところ、闇の向こうから別の人影が近づいてきてセレーネに声をかける。


「セレーネ、こんなところで何を――」声の主はアストレアだった。彼女は二人の物々しい空気に気付くと、苦虫でも噛み潰した表情になって燐子とセレーネの間に入った。「おい、何があった」


 何がもくそもない、と言い返しかけていた燐子だったが、先日の戦以降、妙にアストレアの態度が変わったこともあって、言葉に詰まってしまう。


「何でもありません、お姉さま」

「しかし…」

「何でもないのです。私が、不用意に燐子さんの心を乱してしまっただけです」


 それを聞くと、アストレアは得心したように相槌を打った。おそらく、彼女もセレーネから爵位の話を聞いていたのだろう。


 それから彼女は、苦笑とも泣き笑いとも言えない顔を燐子に向けると、軽く頷いてみせた。急に大人びた印象を放つようになったアストレアのせいで、自分が子どもじみて思えてならない。


「少しいいか?二人に報告しておきたいことがある」


 承諾を求める言葉にセレーネが頷く。その後に、燐子のほうを見やるものだから、渋々彼女は腕を組み、「…好きにしろ」とだけ言った。


 アストレアが語ったのは、ライキンスの行方についてだった。


 旗色が悪くなるや否や戦線を離脱したライキンスは、どれだけ辺りを捜索しても髪の毛一つ見つからなかったのだが、ようやく暮れの頃になって、少し離れた村の人間から彼が空飛ぶ魔物に乗って王国方面に逃げていくのを見かけたという証言を得られたそうだ。


 おそらくは、ライキンスが宰相時代に根城として使っていた隠れ家が王都内にあるのだろうとアストレアは予測しており、彼が失った兵力の補充に、また例の薬を復興作業中のプリムベールで使おう目論んでいるのではないかと危惧していた。


 一通りの説明を終えたアストレアは、顔を青くしているセレーネに向けて、「…僕はこれから、プリムベールに戻ろうかと思っている」と真面目な顔で告げる。


 アストレアの提案にしばし逡巡してみせた女王だったが、最終的には浅く頷き、優秀な兵士たちを連れて行くように言った。


「いや、大丈夫だ。僕だけで行く」

「お姉さまだけで?駄目です、危険です。許可できません」


 それはそうなるだろう、と二人のやり取りを黙って観察していた燐子は目を細める。


「そうは言ってもな、セレーネ。騎士団にはまだここでやるべきことがあるだろう?」

「それは…」

「本当なら、王族である僕もこの場に残り、自ら愚弟に引導を渡してやるべきなのだろうが…。ライキンスを取り逃がしたのは僕だ。そちらの責任も考えなくてはならないし、本当に王国領内に逃げたのであれば、早々に仕留めなければ危険だ」


 何でもかんでも自分の責任にしてしまうアストレアに、セレーネはむくれたような顔をしてみせた。しかし、彼女が梃子でも動かないということを悟ると大仰にため息を吐いて、くるりと背中を向けた。


「女王の命令に背くなんて…、死罪です。全く」

「おい、セレーネ…。子どもじゃないんだから…」


 その言葉を聞いて、セレーネはじろりと首だけでアストレアのほうを振り返った。その表情には、まさに子どもがするような甘え混じりのワガママが浮かんでいた。


 不貞腐れた妹の様子にアストレアはため息を吐いたのだが、彼女の口元はどこか満足げな微笑を描いている始末だったため、燐子は静かに鼻息を漏らし、再び海岸線を歩き出した。


「燐子!」とアストレアがその背中に声をかける。「何だ」


「僕がいない間、この子が無理しないよう厳しく言っておいてくれ」

「自分で言うのだな」

「僕の言うことだと、変に反発して聞かないからな。頼む」

「ふん…いいだろう」


 彼女なりの信頼の証だろうから、このくらいは聞いてやってもいいだろう。


「燐子」再び歩き出した燐子へ、またアストレアが声を投げた。先程とは違う、深刻な声音に否が応でも足が止まる。「…行くのか?」


 その短い言葉に含まれている意味をすぐさま理解した燐子は、数秒の沈黙の後、「行かねばなるまい」とだけ答え、今度は足を止めずに海岸沿いの闇を進みだした。


 元の世界に比べてマシとはいえ、冬の潮風は体に悪い。決戦前の大事な時期だ、本来はこんなことをしている暇があるのであれば、体を休めたほうがいいのだろうが…。


 かなりの距離を歩いたのか、すでに追悼のために集まった人々から遠く離れてしまっていた。


 久しぶりの一人きりだった。


 風も、波も、月夜も。今だけは独占している気分になれる。

 燐子は夜の地平線の向こうに何かが見えるみたいに、海のほうを向いて砂浜に座り込んだ。


 ずぶりと沈み込む砂の感触。まだ疲れが抜けていないのだろう、体がずしりと重くなった。


 しばらく、燐子はそうして夜風に当たっていた。潮風は冷たく、体を冷やしてしまいそうだったが、そのぶん頭の熱を取り除くのにはちょうど良かった。


(何を迷う、燐子。偽りの称号など貰って嬉しいはずがなかろう、違うか…?)


 本当に欲しかったものは、一体何だったのだろう。


 称号か、目に見えぬ気高さか、それとも、他の何かか。


 答えも出ぬままに波間を眺めていると、未だに追悼の儀が行われている方角から人影がやって来た。誰が貴重な静謐を壊そうというのか、と顔を向けると、見知った人物が小難しい顔をして現れた。


「燐子、なんでこんなところに一人でいるのよ」


 それは、約束の夜を前にしてそぞろな想いでいたミルフィだった。

明日も定時の更新を予定しています。


絶えず更新していますので、毎日見る暇などないよ!という方は、

週末にまとめて読んで頂けたらな…なんて考えてしまいます。


時間という対価に見合うだけのクオリティを生み出せるように、日々精進して参ります。


よろしければ、ブックマークや感想、評価など頂けると、励みになります…。

当然、目を通して頂けるだけでも十分ですよ!

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