戻らない日々
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その姿を見た途端、セレーネはいても立ってもいられなくなって、一目散に愛馬のリリーの元へと駆け出していた。
てっきり、彼はもう逃げ出しているのだと思っていた。王族の身でありながら、国家転覆の片棒を担いだあの男は、愛する女性を手にしてどこへなりとも消えたのだと、そう思っていた。
だが、違った。見間違えようもないあの姿は、自分が二十年ほど共に暮らしてきた男のものだった。
セレーネは自分を制止する人々の声と手を振り切って、天馬を飛翔させた。吐く息が霧のように白く、とても冷えた空だった。下方向へとかかる重力加速度に耐えて、高い位置から戦場を見渡す。
最初に目についたのは黒いドラゴンの姿だ。燃え盛る炎で自身を囲い、周囲の人間を睥睨している。
…あんなものに人間がどう対抗するのか。指揮者としても、戦士としても経験の浅い自分には良策など持ちようもない。申し訳ないことだが、連合軍を――燐子やミルフィ、そして、アストレアを信じるほかない。
ドラゴンの周囲以外は、敵味方入り乱れての乱戦になっているようだった。圧倒的優勢に立っていたはずの連合軍も、ドラゴンの登場でまた振り出しに戻されてしまった。
その後もセレーネは、小刻みに視線と首を動かし続けた。探している人物の行方が未だに判明していないからだ。
「どこ…、どこにいるの?」
辺りを警戒していたセレーネの天馬が、高い声でいななき、天を見上げた。その視線の先には、分厚い鉛色の雲が広がっている。
何かが空を引き裂いて、真っ直ぐこちらへと降下して来ているのが分かる。おそらく、彼もこちらに気が付いていて、奇襲を仕掛けようと考えているのだろう。
――来る。
突如、暗雲を切り裂いて、一匹の魔竜が襲いかかってきた。
天馬を横に回転させて、敵の突進をやり過ごす。すれ違った瞬間に、夜空のような瑠璃色の残像が視界に映る。
「速い」
予期していなければ避けられなかったかもしれないと思うと、リリーに感謝しなければならない。
セレーネはそうして天馬の首をさすりながら、眼下で旋回し方向転換を図っている彼と魔竜の姿を睨みつけた。
「卑怯者!正々堂々を忘れましたか、ヘリオス兄様!」
名指しで罵られたヘリオス王子は、前より短く刈り上げた頭で顎をしゃくった。
「はっ、忘れたか?元よりそんなもん、俺にはねえよ!」
王国で使っていたものとは違って、魔竜と同じ瑠璃色の鎧で身を包んだ彼は、三節棍を右手で一振りした後、真っ直ぐとこちらに向かってきた。対するセレーネも唇を噛み締め、槍の矛先を兄へと向けて落ちるように飛ぶ。
激突する瞬間に合わせ、槍を一薙ぎする。拍子抜けするほどあっさりと相手の棍を弾き返した。
「チッ」ヘリオスの顔が悔しさに歪む。思い通りにいかぬ不自由さへの怒りも見える。
セレーネが力負けせぬようにと気合を入れたのもあるだろうが、それでも、こうも簡単に押し返せるのは妙だ。試すつもりで、もう一度彼女はヘリオスへと向かう。
今度も、容易に押し込めた。むしろ、ヘリオスの体勢は宙でわずかに崩れ、ぐらいついていたようにすら見えた。
そうか、と思い至り、セレーネは気炎を上げる。
「王族としての誇りがその身にないのなら、同じ血を分けた者として私が引導を渡してあげましょう!」
「誇りだと、ほざきやがって」
それから、両者は何度となく交錯した。
瑠璃色と白の体が細い線のようになって空を舞う。その姿は燕が飛び交う如く鋭く、激しいものでもあり、極彩色の蝶がたわむれながら飛ぶように美しくもあった。
槍を横に構えて、すれ違う瞬間に素早く振るう。多少、軌道を読まれつつあったが、未だに攻勢の色は濃い。
――戦える。
セレーネはそう確信していた。
明らかに、空中戦であればこちらに分があった。よく考えてみれば、ヘリオスは空中戦など縁のない戦士だ。そんな彼が慣れない舞台をわざわざ選んで戦う理由が気になったが、おおかた、その手で自分を仕留めるつもりなのだろう。
ぺろりと舌で唇を湿らせ、手綱を持つ左手に力を込める。それからすぐに、天馬はヘリオスの頭上を平行に横切る軌道で直進した。
手綱を操り、ヘリオスの頭上に到達するわずか前、180度天馬の体を横に回転させる。自身は天地が反転したことになるが、こんなものは慣れている。鞍だって、そうそう簡単には落ちないよう設計されている。恐れることはない。
驚きに目を見開くヘリオスの顔が見える。今更攻撃の構えを取っているが、もう遅い。
肘を引き、勢いよく彼へと突き立てる。惜しいことに、すんでで弾かれた。
制動をかけ、槍を突き出した体勢のまま、天馬だけが90度回り込むよう動かす。
背後に回った。首筋に狙いを定める。
セレーネの心に躊躇はなかった。元より、王族の責務をひとかけらも果たそうとしない、尊敬に値しない相手だ。
「やあっ!」遠慮ない一撃が放たれる。直撃する刹那、ヘリオスは前を向いたまま首を傾け、これまたギリギリのところで躱した。
ヘリオスの首から赤い血がすぅっと垂れる。あと少しだったのに、と悔しく思う一方、彼の勘の鋭さに驚かされる。
槍を引く間に魔竜が反転し、ヘリオスの怒りに満ちた顔がこちらに向けられた。
「セレーネぇッ!」
三節棍が振り下ろされるが、腰が入っていない。浮遊しているという独自の環境下、地上での感覚が抜けずにいるのだ。
受け止め、薙ぎ払うようにして瞬時に弾き返す。姿勢を崩した彼は恥辱に塗れた顔で無力と嘲笑ってきた妹の顔を睨みつけた。
「王族としての気高い責務。それを忘れた貴方に負ける道理はありません!」
「気高い責務だと?んなもん、聞くだけで反吐が出るなぁ」
力任せに振り下ろされた棍と、槍がぶつかる。衝突の瞬間に散った火花に興奮して、顔を突き合わせた天馬と魔竜が声を発した。
「貴方は恥ずかしくないのですか…!?権力、財力、教養…それらが惜しみなく降り注ぐ恵まれた身分に生まれていながら、全ての責任を放り出すなど!」
「黙れっ!俺はそんなもの望んでなかった。押し付けられたものを、俺の好きに使って、一体何が悪い!」
「散々それらを享受しておきながら、何を今さら!果たすべき責務の重さを考えぬまま、受け取っていいものではなかったでしょうに!」
「責務、責務うるせぇんだよ!」
一際強く吠えたヘリオスは、ようやく力の入った一撃を振り抜くことに成功していた。それを受けて、セレーネがわずかにふらつく。
「それが俺たちに何を与えてくれた!?本当に欲しいものは、それのせいで俺の指の隙間からこぼれ落ちていったんだ!」
「本当に、欲しいもの…?」
「兄貴も、俺もそれに追い詰められた。アイツの目を見ただろう、あれは孤独な人間の目だ。誰にも悩みを話せず、諦めの中で生き続けた人間のなぁ!」
「お姉さまは…」とセレーネはアストレアの顔を脳裏に思い浮かべ、呟きを漏らす。
「お前だけなんだよ、セレーネ。兄妹たちの中で、ぬくぬくと責務とやらを大事にしながらゆりかごに揺られて育ってきたのはな」
途端に強烈な威圧感を覚えて、セレーネは天馬を後退させた。攻撃を仕掛けられたわけでもないのに、こちらの警戒心を刺激する敵愾心が見えたのだ。
翼を大きく動かして、滞空する魔竜。その首を大事そうにさすった彼は、低く唸るような声でぼやく。
「…俺は兄貴みたいに、諦めて生きたくなかった。自分が我慢すればいいなんて気味の悪い考え方、まっぴらごめんだった」
どこか、狂気を感じさせる声音だった。ヘリオスの瞳が暗い、水底を映したような色に染まる。
覗き込んでいたら、自分までその底なし沼に引きずり込まれていく。思わず、そんな錯覚を抱いてしまう瞳の色だった。
セレーネは、彼の言う言葉の中でどうしても引っ掛かっている部分を問おうと思った。穂先を軽く下げ、深刻な目つきで兄に尋ねる。
「ヘリオス兄様の、大事なものとは何ですか?」
彼は答えない。ただ、無感情な顔だけが酷く印象的に魔物や戦士の声が響いて来る天空で揺れていた。
そんな兄の姿を見て、セレーネは確信めいたものを感じて口を開いた。
「…ローザなんですね」ぴくり、と彼が顔を上げる。「兄様は、本気で従者であるローザのことを…」
それ以上のことをセレーネは口にしなかった。
ようやくこれで合点がいった。ヘリオスがあれほどまでに自由を欲していたのは、身分違いの淡い恋心を実らせるためだったのだ。
ローザ自身、彼が裏切りを示すまではヘリオスのことを慕っていた。口に出さなくても分かる、直情的な彼女のことは火を見るより明らかだった。
王族と従者、これらが結ばれることなどありえない。もちろん、王女同士もだ。
彼はこの国を心の底から憎んでいたのだ。二十年以上燃え続けた憎悪は、ライキンスとい邪な風に煽られ、国家転覆という道を辿ってしまったわけである。
どうしようもないやるせなさを覚える反面、セレーネは、その当人であるローザの行方が分からないことを思い出した。
「兄様、ローザはどこに?どこかで監禁でもしているのですか?」
これだけのことをしてまで、ローザと結ばれることを望んだヘリオスのことだ。手荒な扱いはしていないだろうが、その所在が明らかになるまで、安心はできなかった。
しかし、ヘリオスの口から聞けた事実は、セレーネの考えとは全く真逆のものだった。
「ローザがどこにいるかだと?」ヘリオスは歪な笑みを浮かべた。ぞっとするような、背筋の凍る笑みだった。「いるじゃねえか、お前の目の前に」
「私の目の前…?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。だがやがて、彼が執拗と表現しても差し支えないほど首筋を撫でている魔竜へと視線が吸い寄せられた。
「ま、まさか…」
血の気が引いていくのがまざまざと感じられる。気さえも遠くなりそうな感覚だ。
瑠璃色の体皮に身を包んだ魔竜が、ほんの少しだけ首を上げてこちらを見やる。そこに彼女の面影などない。だというのに、一度そうだと考えてしまえば、それが真実だと思わずにはいられなくなる。
「なんてこと…。どうして、そんなことに」
「どうでもいいさ。今更」無気力な口調でヘリオスは続ける。「どうせもう、アイツには戻らない」
淡々と言ってのけるヘリオスに、眠っていた獅子が目覚めるようにむくむくと怒りが湧き上がる。
アレがローザなのだ。
私たちと幼い頃から付き合いのある、生真面目で、少しだけ恥ずかしがりなローザ。
彼女がもうこの世にいないことが、どうしようもなく認められなかった。
「私はもう…、貴方のことを兄とは呼びません」ギュッと、槍を握る手に力を込める。「セレーネ・リル・ローレライ、現女王の名のもとに誓います。逆賊ヘリオス、貴方はここで討ち取る。そして、無縁塚に葬り、二度と我が親友のそばにはいられなくしましょう!」
セレーネは高らかに宣言すると大きく勢いをつけてから、一気にヘリオスに肉薄した。
一瞬で間合いに入り込んで来たセレーネに対し、ヘリオスは苦しそうな顔を浮かべて迎撃を行う。
鋭く放たれる連続突きも三節根の両端で鮮やかにいなされるが、それでも彼女は攻勢の手を緩めない。
未だかつてセレーネに宿ったことのない、鬼気迫る闘志が彼女の猛攻を後押ししている。
セレーネは、槍の穂先が彼の心臓や首筋などの急所を狙う度、自分の決意が固くなっていくのを感じていた。
こんなことになったのは、ヘリオス自身の弱さが原因だ。彼がもう少しきちんと周囲に頼ったり、ローザ本人と腹を割って言葉を交わしていたなら、ここまで極端な結論には至らなかっただろう。
しかし、自分にも責任の一端はある。二人の関係性におぼろげながらも気付いていたのに、ヘリオスを不埒者として扱い、遠巻きにしてしまった。
それに、ローザが攫われた後も、自分と周囲の感情を優先して素早い追撃に踏み切らなかった。燐子の出した解答が、国を背負う者としては的確な冷徹さだったのかもしれない。
攻撃に意識を割きすぎていたためか、ヘリオスの振るった棍がセレーネの肩を打った。鈍い痛みはあったが、分泌され続けているアドレナリンが脳に攻撃を促す。
直撃を与えることに成功したことでヘリオスのほうに油断が生じ、一縷の隙が懐に見えた。
「覚悟、ヘリオスッ!」
セレーネは大きく腕を引き、研ぎ澄まされた一突きを天空を穿つようにして放った。
放たれた一突きは、わずかに棍で防がれながらもヘリオスの腹部を捉えた。
「ぐっ…!」ヘリオスの顔が苦悶で歪む。鎧がへこみ、魔竜ごと彼が弾け飛ぶ。
(届いていない…!?)
タイミングは完璧だった。しかし、貫通したような手ごたえはなかった。
手に響く痺れが呼び声となり、肩に感覚がないことに気付く。
どうやら、先ほどの一撃で大きな痛手を負ったようだ。そのせいで、本来は致命傷となり得る一突きが不十分なまま終わったのだ。
「やってくれたな、セレーネ…!」未だ苦しそうな表情のまま、ヘリオスが間合いを詰めて来る。魔竜も彼の殺意に応じ、一つ高い鳴き声を発した。「ずっと、目障りだったんだよ…さっさと、消えろ!」
ヘリオスが棍を振りかぶるのが見えて、防御のために槍を構えようとする。しかし、腕が上がらなかった。
呆然と、彼の一撃が迫るのを見やる。やがて、先ほどの意趣返しのような一撃が腹部に突き刺さる。
胃液が逆流する嫌な感覚の後、落下に伴い、内臓が浮き上がる強烈な感覚がセレーネを襲った。
――落ちる。落ちている。
死に向かって、真っ逆さまに落ちている。
打ち勝てなかった。想いの丈の全てを穂先に乗せて戦ったが、実力の差をひっくり返すことはできなかった。
それも当然なのかもしれない。彼は十年以上、どうにか血の呪縛から逃れられないかと模索し続け、来たるべき日のために腕を磨いていたのだ。
邪魔する者の一切合切を打ち払うために。
(なんて、悲しい人なんだろう…)
薄れゆく意識の中、愛馬であるリリーが急降下してくるのが見えた。
私を助けようとしてくれている。できた天馬だ。死の間際にあっても、それが誇らしかった。
だが、天馬を追うようにして降下してくる魔竜とヘリオスの姿がある。おそらく、行く手を阻まれた天馬は、私を助けることは叶わないだろう。
意識の淵、追憶が駆ける。
そのほとんどがアストレアとのものだったが、中には、ヘリオスやローザ、使用人との日々、そして、燐子やミルフィのこともあった。
「――…お姉ちゃん」
落下するセレーネとは逆行するように、透明な涙の粒が昇天していった。
後書きまで目を通していただいている方々、いつもお世話様です。
拙い作品をご覧になって頂いてありがとうございます。
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いっそうの感謝を申し上げます!
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