飯と、戦争と 参
またも現れた聞きなれぬ言葉に、燐子が眉をひそめて「帝国?」と繰り返した。
部屋の中を照らしていたランタンの炎がゆらりと震え、一瞬だけ室内が赤々と照らし出される。
それによってはっきりと照らされたエミリオの顔が、深い悲しみに沈んでいるのを見て、燐子は臭いを感じ取っていた。
嗅ぎ慣れた、戦場の臭いを。
「王国がずっと戦争している相手だよ」
なるほど、と話の陰りを敏感に察知していた燐子は、良い潮時だと思い質問を重ねる。
「どれくらいだ」
「さあ、僕が生まれる前から」
十年近く前か、とドリトンのほうを確認の意味を込めて首だけで振り向くと、「もう二十年になります」と答えたので、反射的に「二十年だと?」と驚きを露わにしてしまう。
そんなに長い間戦争をしているとは、よくもまあ互いに国力が尽きぬものだ。
それとも小規模国家による小競り合いが続いているだけなのだろか。
しかし、それについて質問したところ、この大陸を二分する大国家同士の争いだと言うではないか。
そもそもどれだけの土地かは知らぬが、統一が半分は済んでいるということにも驚きを禁じ得ない。
「大国が、そんなに長い間戦争を続けているのか」
「迷惑なことにね」ミルフィがつくづく迷惑そうに顔を斜めに傾ける。
そんなに長期間戦争を続けていては、兵は荒れ、民は疲弊し、ただ泥沼に陥るだけであろうに。
ほとんどの人間はそんなにも長く戦い続けられるようにはできていない、それができるのは名誉と国、そして民の為に戦い続けられる英雄か、一種の狂人だけである。
それが私の考える戦争だった。
だから定期的に休戦し、同盟を組み、国家の存続のために領主が死力を尽くすのだと…。
「あの森の向こうは、もう帝国の所領なのか」
ドリトンが神妙な顔で頷く。
「馬鹿な、目と鼻の先ではないか。ならばこの国の領主は何をしている。戦時中の国境に、兵を駐屯させないとはどういう了見だ」
「そのために、アズールの駐屯地に赴いて陳情を申し上げておるのです」
「陳情?」と冷ややかな笑みを零した燐子は、無礼と分かっていながらもあまりにも悠長な発言をするドリトンを真っすぐ見据えた。
「国境に兵を置かぬことについての申し立てを、その領民からされるなどと、いい恥晒しだ。無能の集団なのか、王国とやらの兵隊は」
自分が領主ならば、そのようなうつけ者は即座に斬首してくれる、と他人事に物騒な怒りを燃やす燐子だったが、それを咎めたのは意外な人物であった。
「違う、帝国が全部悪いんだよ」
底なしの沼の、あるはずもない底から響いてくるような無感情な声はエミリオのものだった。
普段の天真爛漫な彼からは、遠く及びもしないような卑屈さを感じ、燐子はじっと横目でエミリオを観察した。
「何故だ、領民を守るのは、領主の仕事だ」
「戦争を仕掛けてきたのは帝国だよ」
本当か、とドリトンに目だけで合図を送ると、彼は重々しく頷いた。
確かにそれならエミリオがこれだけ毛嫌いするのも理解できる。彼の父親が戦っていた相手もおそらくはその帝国だろう。
戦争に善い悪いはない。だが、それを説くにはエミリオはあまりにも幼すぎた。
彼の頭の上に手を優しく置いて、「そうか」とだけ呟いた燐子は、何となくエミリオの姉が過保護になる気持ちが分からなくもないなと思った。
ちらりとミルフィのほうを一瞥すれば、彼女は彼女でエミリオのことを心配そうに見つめており、その純朴さが争いによって汚されていくのを憂うようにため息を吐いた。
彼女から時折感じる母性は、きっと母のいないエミリオを、彼女なりに必死に守ってきた証なのだろうと勝手に解釈する。
姉と弟の血の絆、というだけでまとめてしまうには些か短絡的すぎる。
私にも、血の絆はあった。
父や腹違いの兄弟たち。
戦争の中で侍として死んでいった兄弟たち。
侍でも何でもない私の手で葬られていった、兄弟たち。
血筋は、戦国の世においては死の絆だ。
決してこのように美しく、儚く、見るものに望郷の念を抱かせるものではなかった。
この二人と、私たちは何が違ったのか。
同じ戦国の時代に生きて、どうしてこうも違う絆を見せるのか。
私には分からなかった。きっと、分からないままだ。この先も、ずっと。
一度分かってしまえば、私の中の何かが悲鳴を上げて崩壊する予兆を感じて、不毛な思考を素早く遮断した。
「それで、どうだったのだ。その駐屯所の連中というのは」
話題を戻しながら、ステーキの最後の切れ端を口に放り込んだ燐子に対して、ドリトンは残念そうに首を左右に振った。
「西の砂漠で別の戦線が開かれたらしく…このような場所に回す兵力はないとのことでした」
「やっぱりね」ミルフィが小さく舌打ちをして口元をハンカチで拭おうとするが、先程、燐子の喉元を綺麗にしたものと同じであったため、彼女はしばしハンカチの表面を眺めて、言葉もなくそれを仕舞った。
そうしているうちに、「王国の騎士団たちは忙しいんだよ」と必要とは思えないフォローをエミリオが行う。
それにしても…。
「隣町、か」
正直言って大変興味をそそられる話の内容だ。
この村はいい場所だ、それは数日住んでいるだけの燐子にも十分理解できた。
心が研ぎ澄まされるような大自然の息吹、美味い飯を作る女、緊張に凝り固まった体を解す純真な少年、異世界の人間であっても文句一つ言わずに住まわせてくれている優しき村人たち…。
心が決まるまで、ここにいても良いと思っていたが、まだ大きな町があるのであれば一度訪れておきたい。
この世界のことを知ってどうする、と叱咤する自分の影に見つめられながら、その影に対して、本当に腹を切るべきときは今なのか、と問い返している日々を繰り返し過ごしていた。
少なくとも、この少年の前で腹を切ることだけはするべきではないと理解していた。
あまりにも、ここと日の本では、死生観が違いすぎている。
そう燐子は、ミルフィに説教された日からはっきりと感じていた。
「興味がおありですか?」
「ええ、まあ」
「でしたら…」と一度席を立って、奥の部屋に消えたドリトンはしばらくして戻ってきたかと思うと、その片手に書簡らしきものが握られていた。
日焼けして古めかしくなっていた紙を燐子のそばまで来て広げると、中身を読むように促された。
しかし、異界の言葉を聞いたり話したりすることは可能だったが、どうにも文字の読み書きまではできないようで、小さく苦笑いをして、それをドリトンに思い出してもらう。
彼は何度か頭を下げると、代わりにミルフィのほうへと書簡を手渡した。
彼女は乗り気ではないようだったが、敬愛すべき祖父から直々の頼みだったこともあって、文句一つ言わず承諾した。
その内容を要約すれば以下のようであった。
『先日申し立てしたように、帝国との国境に位置するこのカランツでは、昨今、近隣の森で帝国軍による放火の被害を受けております。
このまま森がなくなれば、動植物は消え村での生活も覚束なくなってしまいます。
どうか、勇猛なる王国騎士団のお力添えを頂ければと存じます。
何卒、もう一度だけご一考のほど、よろしくお願い致します』
その文面を読み上げ終わったミルフィは、いかにも大儀そうに首を回して、自分も最後の一切れを行儀よく口へと運んだ。
言いたいことは色々とあるようだが、祖父の手前我慢しているようだった。
それから彼女は空になった皿をまとめて、洗い場のほうへと持っていった。
皿同士がぶつかり合う危なげな音を絶え間なく響かせながら、その汚れを流していく。
彼女の気の短い性質からは想像できないぐらい細やかな手付きは、ミルフィがどのように生きてきたのかを考えるのには、十分な内容だった。
「これは?」と分かりきったことをあえて燐子が尋ねる。「陳述書です」
「それは分かっていますが、どうするのです。また軽く扱われるだけでは?」
「かもしれませんな」
そう笑って言い放ったドリトンの明るい表情から、あくまでこの陳述書は、燐子がアズールに出かけるための言い訳にしか過ぎないのだと察した。
また戻ってきても大丈夫である、そう言ってもらえているような気がして、燐子はついほっとした心地になってしまう。
右も左も分からないままの生活だ、頼りになる人がいるほうが、正直、安心して情報収集に専念できる。
もう少し、この世界のことを知ろう。
そうすれば、自分がこの先どうするべきか見定められる。
理解ある者を探して腹を切るのか、
諦めて、後始末も無しに腹を切るのか、
可能な限り早々に腹を括らなければならない。
このままでは――。
その先を考えそうになった燐子は、皮肉な笑みを口元に浮かべた。
それを見て不思議そうに自分を見つめるドリトンに向けて首肯しながら言葉を発する。
「分かりました、お心遣い感謝します」
ドリトンが朗らかな笑顔でお礼を告げる声は、右から左に聞き流して、燐子は頭の中では全く別のことを考えていた。
このままでは、何だ。
私の志は、侍の子としての意地は、
覚えてはいられない夢のように儚く消えるものではないはずだ。