一つ先へ
終部に入ったので、二人の関係も、一つの結末に近づけなければなりませんね。
なにはともあれ、二章はここまでとなっております。
気づけば、何も起こらないまま本格的な冬が到来していた。草木に霜が降り立つようになり、吐き出す息は真っ白に凍りついている。
シャツとズボンだけではとてもではないが寒すぎたため、鏡右衛門のものらしき陣羽織を勝手に使っていたのだが、不謹慎だというよく分からない指摘をミルフィたちから受けて、今は古い着物をミルフィが手直ししたものを着用していた。
朝の日課である鍛錬を終え、黒を基調としてデザインされた一着に袖を通す。生地は並のものだったが、ミルフィが自分のために余った時間で作ってくれたと思うと、それだけで陽だまりのような温みが感じられた。
縁側で一つ、息を吐いて庭を眺める。凍りかけている鹿威しは、水の流れを忘れて身動き一つしていない。
――静かだ。二月前の喧騒と血が嘘のようだ。
そうして心を落ち着かせていると、廊下の奥から物音が聞こえてきた。ミルフィのものではない。ミルフィが寝泊まりで使っているエレノアの部屋は建物の真逆に位置しているからだ。
「あ、燐子ちゃん」曲がり角から、やや覚束ない足取りでやって来たのは朱夏だった。「おはよー…」
以前は眉の上あたりで切り揃えられていた前髪が、今では目にかかりそうなほど伸びていた。
ミルフィがエレノアの味を再現したスープを朱夏に与えて以降、少しずつ彼女はまた元気を取り戻しつつあった。
時折、悪夢でも見ているかのように支離滅裂な発言をすることはあるが、明らかに回数が減っている。これもひとえに、ミルフィとシルヴィア、今は隔日で看病に訪れている絹代の尽力のおかげだろう。
「うむ」眠そうな朱夏をまじまじと見つめたまま、トーンを変えずに続ける。「今日は調子が良さそうだな。今朝もシルヴィアがお前に会いに来ていたぞ」
「…うん。知ってる」
「知ってる?お前、分かっていながら狸寝入りしていたのか?」
朱夏は燐子の問いかけに苦い顔をすると、面倒そうに顔を逸らし、燐子の脇を抜けて台所に移動しようとした。
「待て、朱夏」彼女の小さな背中に声をかける。「なぁに…?」
燐子は寸秒、朱夏の目の奥を覗き込むようにして静止していた。やがて、ほんの少しだけ口元を綻ばせると、太刀の柄に手を乗せて言った。
「どうだ、久しぶりに手合わせでも。お前も太刀を握らなくなって久しいだろう?」
その手のことを珍しく燐子のほうから切り出したのには理由があった。
前は暇さえあれば小うるさく手合わせをねだった朱夏だったが、今ではすっかり大人しくなって、大太刀と共に布団の中にいる時間のほうが多くなっていた。
大太刀を失った両親の代わりにするように掻き抱いて寝ている姿は、年相応でとても愛らしかった。とは言うものの、ライキンスや鏡右衛門との決戦がいつ始まってもおかしくない今、朱夏という刃が錆びついていくのは見過ごせない。
彼女も強力でかけがえのない戦力だ。朱夏が最前線で敵と戦うだけで、一体どれほど勝率が上がり、どれほどの人が救われるだろうか。
願わくば、剣となってほしかった。だが…。
「嫌」燐子は、朱夏の明確な拒絶な言葉に目を丸くしつつも、素早く聞き返した。「なぜだ?」
「剣術はパパに教わったものだもん。あんなの、二度と使わない。ママを殺した力なんて」
そう吐き捨てるようにして遠ざかっていく朱夏に構わず、独り言のように続ける。
「エレノア殿が身をもってお前に示したことから目を背けるな。恐れていては、何も変わらんぞ」
朱夏は、人が死ぬということの意味を知った。二度と帰らぬということを、最も鮮烈な形で脳髄に刻み込んだのだ。
だが、だからといって怖気づいてしまうのは看過し難い。
今彼女は、武芸者として、いや、人間として一つの過渡期にあるのだろう。ただ、黎明が見られるかは定かではない。朱夏を包む暗闇はそれだけ濃いのだ。
朱夏は誰にも聞こえない声で、「うるさい」と呟いたかと思うと、逃げるようにして去っていった。その後ろ姿を見送りながら、やはり、朱夏は次の戦いには間に合わなさそうだと落胆した。
すると、朱夏が角を曲がった頃に燐子の後ろの襖が開いた。その先から覗いたしかめ面を見て、肩を竦め応じる。
「言いたいことは分かる。あまり追い詰めるなと言いたいのだろう」
「当たり前よ」声の持ち主はミルフィだった。「朱夏はね、お母さんを亡くしたばっかりなの。それなのに剣を持たせようなんて、正気じゃないわ」
正気じゃないときたか、と燐子は辟易した。
ミルフィは、朱夏が自分の妹だと知ってからというものの、次第に姉の顔を表に出すようになっていた。特に朱夏と一応の和解を遂げ、彼女が自分を『お姉ちゃん』と呼び出してから、いっそうその傾向は強くなっていた。
「ミルフィの言い分は重々承知だ。だがな、今は緊急時、国の存亡がかかっているのだ。戦える者には武器を取ってもらわねばならん」
「はぁ?まさかアンタ、兵士でもない人にまで戦わせる気じゃないでしょうねぇ?」
「そんなわけがなかろう。いよいよのときは自分の身ぐらいは、とも思うが、最初からアテにするつもりは毛頭ない。そもそも、そんなことをしたらミルフィ、お前に後ろから撃たれるだろ」
「ふふん。分かってるならいいわ」
軽快に鼻息を漏らすミルフィを見て、胸が温まるような、むしろ鼻白むような、矛盾した気持ちを覚え、燐子は奇妙な感覚に渋面を作った。それから、誤魔化すようにこれ見よがしにため息を吐く。
「はぁ…。可愛くない奴め」
ぴくり、とミルフィのこめかみに力が入る。臙脂色の瞳がきゅっと収縮するのも分かった。
(これは小言を――いや、文句を大声で言われるな)
そう考えて身構えていた燐子だったが、意外なことに、ミルフィは口を尖らせて背中を向けた。
「なによ、分かってるわよ。そんなこと…」
「な、なんだ。やけにしおらしいではないか。お前がそんなことでは私の調子も狂うぞ」
半分冗談、半分本気の言葉にも振り返らず、ミルフィはそのまま台所へと移動してしまった。いつもの怒っている様子とは雰囲気が違い、どうしたものかとミルフィの背中を追う。
彼女はそのまま無言のうちに朝食の支度を始めた。今日はカランツの郷土料理ではなく、シンプルに魚の塩焼きと味噌汁だ。茶碗に盛られた玄米からは湯気が昇っている。
冬の冷気が足元に忍び寄ってきていたが、燐子は気にせず座卓に着いた。ミルフィの意図を探るため、何度か視線を飛ばしてはみたが、彼女はまるで無視していた。そのため、燐子も色々と諦め、大人しく朝食に専念した。
「綺麗な人だったわね」唐突にミルフィが口を開いた。「綺麗な人?何の話をしている」
ミルフィはやや逡巡した素振りを見せてから、どうでもないことのように魚をつくじりながら、「あの紫陽花って人のこと」と答える。
「アイツか…。そうだな、美しい使い手だった」
「ふーん…?」
ミシッ、と何か音が聞こえた。だが、周囲には何の気配もない。家鳴りだろうと話を続ける。
「正直、あれほどの女は初めて見た。忌々しいアストレアも相当のものだったが、紫陽花はさらにその上を行っている」
バキッ、と次は大きな音が鳴った。今度はそれが何の音かが分かった。なぜなら、目の前に座っているミルフィが握っていた木のフォークが半分に折れていたからだ。
「な、何をしている…!?」
「んー、別に?」
別に、という顔をしていないではないか。そう思ったものの、折れた半分をぷらりとぶら下げたフォークで魚を食べるミルフィに、空恐ろしいものを感じて、中々言葉が出ない。
そうして恐る恐るミルフィを観察していると、彼女は変わらず魚を見つめたままで口を開いた。
「私がプリムベールの復興で死ぬほど忙しいときとか、死ぬ思いして砂漠を渡っているときにも、燐子ちゃんはあの人と『よろしく』やってたってわけねぇ」
嫌味ったらしく吐き出された言葉でようやく合点がいき、呆れ半分、こそばゆい気持ち半分で燐子は答える。
「おい、それは誤解だ…。私が言ったのは『太刀筋の美しさ』のことだぞ」
「ふぅん、別に誤魔化さなくていいのよ?」じろり、とミルフィの深く濃い赤の瞳が自分を映した。「聞いたんだから、私がいない間、あの人が『相棒』だったんでしょ?」
「おい…」と再び同じ呟きが漏れてしまう。
一体誰なのだ、そういう誤解を生みそうな伝え方をミルフィにしたのは。頭の中に何人か心当たりのある人物の姿が浮かぶも、今更詮無いことだと思い直し、一先ず燐子は、ミルフィのご機嫌を戻すことにした。
「私の相棒はお前一人だ」
「へぇ」
率直に伝えたのに、まるで響かなかった。金槌で地面でも叩いているかのようだ。
「お前も見ただろう、紫陽花とは斬り合う立場にある。すでに袂は分かたれたのだ」
「でも、立ちはだかる壁が分厚いほど恋愛は燃えるって言うじゃない?」
「ふん、そんなもの知らぬ。生憎、まともに色恋沙汰を経験した身ではないのでな」
ああでもない、こうでもないといったやり取りを繰り返しているうちに、すっかり朝食が冷めてしまった。これ以上、味を落とすようでは自然の恵みに申し訳ないと、二人は慌ただしく食事を再開した。
テーブルの上に空の皿だけが並んだ頃、いよいよミルフィの小言が小うるさく感じられてきて、耐えかねた燐子はほんの少しだけ苛立ちを滲ませて言葉を発した。
「全く…。ミルフィは私がどう言えば納得するのだ。謝ればいいのか?謝れば」
たっぷりと皮肉を込めたつもりだったが、思いのほか真剣そうにミルフィはじっとこちらを見返していた。何か言いたいことがあるのは明白だが、中々言い出しにくいようだった。
そぞろな様子で、足元に置かれていた水の入ったバケツに引っかかり、妙な声を出している。
「謝って欲しいわけじゃぁ…ないんだけど…」
どうにか振り絞った言葉も、そうして曖昧だった。久しぶりに、ミルフィの考えていることがまるで分からなかった。
(さて…、どうしたものか)
頭の後ろをかきながら立ち上がり、ゆっくりとした歩調でミルフィの隣に並ぶ。それから声をかけようしたのだが、すっと、距離を離されてしまった。さしもの燐子も困惑して、早口になる。
「ミルフィ、口にせんと分からんぞ。教えてくれ」
「うぅん…」
煮え切らない態度が続くかと思われたが、何かが吹っ切れたのか、ミルフィはようやく顔を真っ直ぐ上げて燐子のそばに小走りで戻ってきた。どうでもいいが、珍しく小動物っぽい仕草に胸が高鳴る。
口をつぐみ、沈黙を守る。今はミルフィの言葉を聞くことのほうが大事だった。自分の考えの的外れさにばかり直面していると、これが手っ取り早く思えてしまうこともあるものだ。
やがて、ミルフィは口を開いたのだが、その発言は燐子を酷く動揺させるものだった。
実際に燐子は、ミルフィの健康的な赤い唇からこぼれた言葉を耳にして、一瞬聞き間違えかと錯覚し、聞き返すほどだった。
「す、すまん。聞き間違えたようだ、もう一度言ってくれ」
「だからぁ…」朱に染まるミルフィの顔を見て、間違いではなかったのだと直感する。「そろそろ、ちゃんと言ってほしいの。私のこと、どう思ってるかって」
そうでないと不安になるから、と付け足したミルフィは、本人はそのつもりはないのだろうが、燐子を試すかのように真っ直ぐ視線を彼女に向けた。
「それは、もう、この間言ったではないか」
「えぇ?いつ?」
「しゅ、秋霜花の平原でだ。ほら、再会したときにだな…」
「…あんなの、遠回しすぎて伝えたうちにも入んないわよ。そもそもそういうつもりで言った言葉だったの?あれ」
「…いや、確かにそういう意味では…」
「ほら」と若干、こちらを責めるような口調になったミルフィは、数秒で表情を雨雲でもかけたように暗くすると、「…言いたくないの?それとも、言えない…?」と小さく、今にも泣き出しそうな声で続けた。
どこからどう見ても落ち込んでいるミルフィの姿に、燐子は自分を恥じる気持ちを覚えた。口では相棒だなどと言っても、結局は彼女を一番悲しませているのは自分のように思えたからだ。
シュレトールで、何も聞くなとミルフィに伝えたとき。
プリムベールで、ひょんなことから喧嘩してしまったとき。
一人の少女の死をきっかけに、傷付け合ってしまったとき。
思い返してみれば、喧嘩ばかりだ。春も夏も秋も…、ずっと衝突を繰り返している。
たまには、彼女を苦しめることなく話を進めたいものだ。そう深く思うと同時に燐子は、「言えるに決まっているだろ」と静かに呟いていた。
今回は、あの平原のときのように、挑発や誘導尋問に引っかかったわけではない。
戦争が始まる前に、きちんとミルフィとの関係を明らかにしておく必要がある。
――そうでなければ、もしものときに死んでも死にきれないだろうから。
燐子は静かに空気を吸い込み、肺を膨らませた。これから紡ぐ言葉が、真っ直ぐにミルフィへと届くように。
「ミルフィ」
短く、相棒の名を呼ぶ。
「は、はい…」
緊張感に満ちたミルフィの表情と声音。それによって、自分の鼓動も強くなる。今ここに生きていることを、誰かに証明しようとしているかのようだ。
父は、娘が他人に愛を告げる姿など想像したこともなかっただろう。お見合いでも相手を斬り殺そうとした女だ、そう考えたほうが自然だというもの。
(数奇な運命だ。まさか自分が睦言を――しかも、女相手に告げることになろうとは)
だが、それが間違っているとは微塵も思わなかった。そもそも否定する人間もいないのだから、これも当たり前、自分の気持ちに正直になれる場所だったというわけだ。
「私は、お前のことが――」
すると、燐子が万感の想いを込めて、言葉を紡ごうとした刹那、ガンガン、ガンガン、と規則的なリズムで鐘のくぐもった音が聞こえてきた。
祝いの鐘ではない。これは、敵襲を知らせる鐘の音だ。
その音を聞いて、ミルフィがどこかホッとしたような、残念そうな顔をしたのが印象的であった。
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