戦火の前に
今回はセレーネ視点になっております!
三連休は毎日アップしますので、よろしくお願いします。
今後の動きについての話を終え、セレーネはグラドバラン城から疲弊した面持ちで出てきた。
周囲はすっかり深く暗い闇の中にある。もしも今闇討ちでもされようものなら、絶対に不意を打たれる自信がある。
妙なことでいらない自信を抱いているな、とセレーネはどこかおかしくなりつつも、乱れのない足取りで騎士団が野営を敷いている平野まで戻った。
静かな道のりだった。長年敵対していた帝国の首都が、こんなにも静寂に満ちているとは思いもしなかった。
(…いいえ、違うわ。町が、死んでいるのね。プリムベールと同じ…、人も、町も、死にすぎているんだわ)
いくら同盟を結んだ相手国内とはいえ、護衛も連れずに歩くのには危険すぎる道だ。だが、そうまでして一人夜道を歩かなければならない理由が、セレーネにはあった。
一月ほど前は、破壊された屋台で塞がれていた道の真ん中で、セレーネはぴたりと立ち止まった。
息も凍るような冬が、身近に迫っていることを感じさせる夜だった。彼女は、しんとした空気に耳を澄ますように口を閉ざすと、おもむろに空気を吸った。
「そこにいるのでしょう、出てきてください」
意識は後方。そこにいる何者かに声をかける。
だが、誰も何も応じない。セレーネは、「強情っぱり」と独り言のように呟くと、不服そうな表情で首だけねじって後ろを向いた。
「もう…、分かっていますよ。城を出てからずっとついて来てるでしょ、お姉さま」
追撃のつもりで、「誤魔化そうとしても、無駄ですからね」と加えると、バツの悪そうな顔をしたアストレアが物陰から姿を現した。
黒の外套を身にまとった彼女は、セレーネからはかなり遠い距離で立ち止まった。意図して距離を取っているのは明白だ。しかしながら、女王はそんなことはどこ吹く風と、手招きして姉を呼び寄せる。
初めアストレアは、それが見えないかのように微動だにしなかったのだが、ややあってセレーネが、「お姉さま」と苛立ち混じりで言ったことで、渋々近づいてきた。
「で?どうして密偵みたいにコソコソしていたんですか」じっとりとした目つきで、姉を責めるように続ける。「下手をすると、変質者みたいですよ」
「へ、変質者…」さすがのアストレアもこれには表情を歪めた。「実の姉を捕まえて、変質者はないんじゃないか…」
「そう言われたくなければ、堂々としていればいいのではないですか?」
「…そういうわけにはいかないだろう」
「む。どうしてですか」
アストレアは、視線を宙にさまよわせて沈黙した。明らかに言い訳を考えている様子だ。彼女はしばらく抵抗するみたいに沈黙を保っていたのだが、セレーネの圧のある眼差しに耐えられず、やがては肩を落とし、諦めた様子で口を開いた。
「僕には、セレーネの隣に立つ資格はないんだ」
暗くとも、月明のおかげで彼女の顔がよく見えた。
伏し目がちな瞳には銀色のまつ毛がかかり、中で月光を吸収して煌めく灰色の瞳はある種の宝石のように美しい。なにより、腰よりやや高い位置まで下りた銀糸が、気品に満ちて神々しかった。
(本当に、この人が『男性』で通る世の中は…、どうかしてるわ)
どこからどう見ても、花も黙る絶佳な女性だ。髪が短く見えるかどうかなんて関係ない。目鼻立ちの柔らかさ、近づいたときにする甘い匂いから分からないものかと不思議でならない。
アストレアの陰のある表情と容姿に釘付けになっていたセレーネは、姉が苦しそうに謝罪の言葉を口にしたことで我に返った。そして、向けられた言葉の意味を再び考えたところ、胸の奥に冷ややかな怒りが湧くのが分かった。
「なんなのですか、資格って」セレーネの不機嫌さを感じ取ったのだろう、アストレアも言い淀んだ。「あ、いや…」
弱気な反応を見せるアストレアは、およそ燐子と死闘を演じた剣士には見えなかった。しかし、やがていつもの決然とした顔つきになると、ぎゅっと剣の柄を逆手で握りながら言った。
「僕は国を捨てた。女王を守る剣になるには、あまりに重い過去だ」
「…お姉さま。でも、それはお母さまが――」
「分かっている。だが、それだけじゃないんだ」アストレアは、妹の言葉を遮って静かに続ける。「僕は、お前と一緒にいることが怖くなった。国と民を大事に想うセレーネのそばに、自分のような…、自分のような、心のどこかで国を恨んでいる人間がいることが、怖くなったんだ」
セレーネは目を丸く見開き、驚愕に満ちた心でアストレアの顔を見返した。こちらを見返してくる彼女の瞳もまた、大きく見開かれていた。きっと、言うつもりのないことまで口にしてしまったのだろう。
まさか、アストレアがそこまで王国を恨んでいたなんて思いもよらなかった。国を出た事情は再会してからすぐに聞いた。だが、それでもセレーネは、無意識のうちにアストレアも国を大事に想い、それを脅かそうとする悪しき者には轡を並べて対抗すると考えていたのだ。
甘かった、とセレーネは歯軋りする。
自分が高い城壁に囲まれた場所でぬくぬくと暮らしている間にも、アストレアは何一つ守ってくれるもののない外の世界で生きていたのだ。
男装しているとはいえ、女の一人旅だ。怖かっただろう、寂しかっただろう。いや、もしかするとそれすらも超越して、虚しさの波間に沈んでいたのかもしれない。
「すみませんでした…」気づけば、セレーネはそう口にしていた。「どうしてお前が謝る?」
「私は、何も知りませんでした。お姉さまの気持ちなんか、まるで考えてなくて…」
「いいんだ。気に病むな。お前は何も知らされなかったんだから、仕方ないんだ」
仕方ない、本当にそうだろうか?
あの嵐の夜、自分を捨てて出て行く姉を許せなかったのは事実で。
見当違いの怒りと悲しみを胸に押し込めてこれまで生きてきた自分が、晴れてその呪縛から解放され、再び姉の温もりにすがりたいと考えているのもまた事実だ。
自分だけが、いつまでも甘えている。燐子が言ったように。
ふと、燐子の仏頂面がセレーネの頭に浮かんだ。
――貴方は聡明で勇敢です。貴方自身で国の未来を拓ける。
あ、と言葉が漏れそうになった。
(そうよ、私が自信を失い、一緒になって落ち込んでどうするの。この人の未来を間接的に奪ったのが国家なら、それを返してあげられるのも、私しかいないはずよ)
セレーネは、固く拳を握りしめた。頬を打つためではない。自分自身にはっぱをかけるためだ。
「お姉さま、手を貸してください」
「なに?なぜだ」
「い、いいから」
困惑した彼女の手を無理やり取る。初冬の夜気のためか、思ったよりも冷え切っていた。
「あ、温かいですか?」
「え、あ、ああ…」
奇妙な沈黙が流れ、羞恥で体が熱くなる。
(ち、違う、こんなことが言いたいわけじゃなくて…)
見切り発車したせいで、自分の頭の中がまとまっていないのが分かる。しかしながら、今さら引き返すことはできない。ここは下り坂だ。走り出した以上、行くしかない。
「私は、お姉さまのことを信じてあげられませんでした!」
口を開いた勢いのまま、掴んだアストレアの手を無意識のうちに自分の胸元に引っ張り、押し付けた。自分の鼓動を聞かせるような動作に、アストレアは酷く動揺していたが、肝心のセレーネは気付いていなかった。
「何も聞かず、疑わず、母が言うことを信じ、お姉さまの苦しみも分からないまま、のうのうと生きてきたんです」
「だから、それは――」
「最後まで聞いてください!」
ほとんど自棄になって大声を出したセレーネは、濁流が押し寄せるかの如く言葉を紡ぎ続けたのだが、そこに一国の女王の姿はなかった。ただ、少女の抜け殻を捨てきれていない女がいるだけだ。
「私は、そんな自分が許せない。そんな弱い『女王』ではいたくない。自分が正しいと信じたことを、胸を張って貫ける女王でありたい。燐子さんのように愚直なままに!
母の――前女王のように、自分の言い分を一方的に押しつけて、立場の弱い者を蔑ろにし、抑圧するようなことは絶対にしたくない!
そうした行為が、ライキンスのような毒蛇の勝手を許したのです!」
そうだ。結局、母がそうした振る舞いを続けてしまったせいで、ライキンスの手下ともなる竜神教の信徒が生まれてしまった。
帝国でも同じだったらしいが、ライキンスに狙われたのは権力に抑圧された人々だ。
二つの国を窮地に追いやったものが、この一方的な抑圧ならば。
――私は、これを倒さなければならない。
「だからお姉さまには、再び国に戻ってほしい!」
アストレアは苦い顔をしてセレーネの顔を見返した。これは拒絶からくるものではない。迷いだ。
「お姉さまが国に戻り、女王の隣で剣となることが、私の最初の一歩になる。抑圧された者の解放という、大きな目標の!」
「抑圧、解放…」
アストレアの表情に差していた陰鬱な影が弱まっていった。潮が引くように、ゆっくりと、しかし、確実に。
「それが、僕の目標にもなるのか?」
「もう!なんでも私に聞かないで!」じろり、と下から上目遣いで睨み返す。「とにかく、お姉ちゃんのやりたいことをやってよ!」
たいして意味もなく口を突いて出た言葉だったわけだが、アストレアがますます真剣な表情になったものだから、妙に恥ずかしい気持ちになる。
彼女は何かを考えるふうに瞳を閉じて、しばし硬直した。命令ですと言っても、今ならまだ間に合うだろうか。そんなことを考えていると、唐突にセレーネの体が引き寄せられた。
きゃっ、と短い悲鳴が漏れると同時に、全身が温もりで満たされる。アストレアの腕の中に、自分の華奢な体が抱き込まれていることに気付いてからは、息をする度に彼女の香りで胸がいっぱいになる。
「そうだな…ああ」頭の上から、低く、アストレアの声が響く。「そのほうが、分かりやすくていい」
女性特有の柔らかな体つきと、甘い匂い。それらによって呼び覚まされる、暖かな追憶にセレーネは目を閉じた。
プリムベール城の庭園で駆け回った日。
こっそり城下町に下りて、喫茶店の主人と仲良くなった日。
恋人として寄り添い合った、人生で一番、幸せだと思えたあの日。
そのどれもが、錆びついた過去の記憶の中で崩れ落ちないようにと懸命に息をしていた。そうして絶え絶えだった呼吸が、今、ようやく楽になったような気がする。
一度息を吹き返せば、次にそれらは、今という時間の流れに戻ることを望んでいた。
また会えた、それだけで良かったのに。
私のことが忘れられなかった、偽りでも構わない、ただそれが聞ければ満足だったのに。
――どうして、それだけでは足りないと思ってしまうのだろう。
セレーネは、自分が浅はかな女なのかもしれない、そう考えながらアストレアに体を預けた。彼女の胸に顔を埋めるようにしながら、酸素を求めて深く息をする。それでまたくらくらするような甘い香りを覚えて、頭が回らなくなる。
「また、あの頃みたいに…」
自分の口が、まるで自分のものではないみたいに勝手に動く。
「そばにいてください。私のために、私、だけのために…」
夢を見ているみたいだった。
冬の夜に見る、過去を絵の具にして彩られた幸福な夢。
顔を埋めた自分の額に、ほんの少しだけ冷たい柔らかな感触が落ちる。
誰も奪えない時間の中で、しばらく二人はそうして抱き合うのだった。
読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!