生きるための
戦闘シーンもなく、単調に感じられるかも知れませんが、
少しでも楽しんでいただけると幸いです。
では、お楽しみください。
燐子が天地の屋敷に戻ったとき、ちょうど台所で絹代が肉を焼いているところだった。彼女に一礼し、その隣で食材の下ごしらえをしているミルフィに声をかける。
「ミルフィ、今帰ったぞ」
「ああ、おかえり、燐子。もうちょっとで絹代さんがお肉を焼き終えるからね」
こちらをちらりとも振り向かないミルフィに、わずかばかり不満を覚えながらも、絹代が焼いている肉を横目で観察する。
分厚い肉に網目状の焼き目がついている。魔物の肉か、家畜の肉か定かではないが、臭いが独特であまり食欲をそそられなかった。用意してもらっておいてなんだが、あまり美味くないのだ。
うぅむ、と燐子は顎に手を当てて唸った。それから少しの間逡巡してみせると、ミルフィの隣に静かに近寄った。
「おい」
「きゃっ!もう、急に声かけないでよ」
キュッと眼尻を吊り上げてミルフィが怒る。ほんの少しだけ低い目線で吠え立てる彼女が、どこか可愛らしく見えた。
「ちょっと、何をぼさーっと突っ立ってんのよ。邪魔よ、邪魔」
蝿でも払うように扱われて、先程の胸が温まるような感情はすぐに消える。
(…少し可愛らしいと思えば、すぐにこれだ。全く、もう少し慎ましくだな…)
燐子はそこまで考えて、急におかしくなった。慎ましく奥ゆかしいミルフィを脳裏に想像して、あまりに非現実的すぎると思えたのだ。
そんな燐子の妄想も知らず、ミルフィが普段の顔つきに戻って問う。
「で、どうしたの、燐子。何か用事があったんでしょ?」
「あ、ああ…」
燐子は視線をまた肉のほうに戻した。舌に合わない肉の味を思い出しながら、今度はミルフィが細かく切っている野菜のほうに視線を落とす。
彼女がやっているのはあくまで下処理だ。本格的な味付けはミルフィではなく、絹代が行う。つまり、ミルフィが手を加えようと根本の味は変わらないのだ。
エレノアの世話になっている間は、ほとんど彼女の手料理が食卓に並んでいた。
今になって思えば、懐かしさを感じるあの味は、かつてミルフィが自分に食べさせてくれていた味そのものだったわけだ。故郷が同じなのだ、当然である。
不意に、強烈な空腹感が胃を刺激した。きゅるる、と鳴った音を聞いてミルフィがどこか幸せそうに笑う。
「なぁに?味見でもしにきたの?しょうがないわねぇ」
そう言うとミルフィは、中途半端に盛り付けられたサラダから、無造作に果実を一つつまんだ。
「ほら、口開けて?あーん、してあげる」
「な、なに?」
ひょいと出されたミルフィの指に、違うと言い出せなくなりつつも、燐子は威厳を損なわぬようにと咳払いをして応じる。
「ごほん。お前…、その、恥ずかしくはないのか?」
「はぁ?恥ずかしい?なにがよ」
「だ、だから、若い娘が、そのような真似をしてだな…」
「何をモゴモゴ言ってんのよ。だいたい、恥ずかしいがどうとかなんて、人前で平気な顔して下着一枚になるアンタに言われたくないわよ」
「前にも言ったが、サラシは下着では――」
すると、ミルフィは言葉の途中で燐子の口に果実を突っ込んだ。
むぐ、とくぐもった声を上げてから諦めたように咀嚼を始めた燐子に、ミルフィは満足そうに口角を上げた。
「どう?これで夕飯まで大人しく待てる?」
「ん、んん…」口の中に広がる、酸っぱさと青臭さに顔が歪む。「…やはり、妙な味だ」
「はあ?」ぴくり、とミルフィのこめかみに青筋が走る。「アンタねぇ、食ってるだけの人間が、作ってる人間に意見すんじゃないわよ!ありがたみってもんを知らないわけ?」
「お、おい、落ち着け!文句を言ったわけではない、ただ――」
「ただ、なによ!?」
絹代は二人のやり取りを、困ったように、それでいて微笑ましそうな表情で眺めていた。その何かを懐かしむような、悲哀を含んだ横顔に気付くことはなく、燐子は狼狽していた。
思わず耳を塞ぎたくなるような声だったが、さすがにもう慣れを感じ始めていた燐子は、なんとか冷静さを装うことぐらいはできた。
「ただ、エレノア殿の飯を食い慣れていたからな…。そうだ、おいミルフィ、お前もカランツ出身なのだから同じ味の飯が作れるだろう。作ってはくれぬか?」
それを聞くと、ミルフィは複雑そうな顔をした。
「なぁに、それ?お母さんが作れないぶん、しょうがないからお前が作れってこと?」
「ち、違う。どうしてそう曲解するのだ」
「ふん、冗談よ。全く、何で最初から私のご飯が食べたいって言えないのかしら――」
すると、急にミルフィは口を開けたまま固まってしまった。燐子が彼女の名前を不思議そうに呼ぶも、ミルフィはそれが聞こえなかったのか燐子のほうは見ずに絹代のほうを振り向いた。
「絹代さん!私のご飯なら、朱夏も食べるかも!」
「貴方の…?あぁ、なるほど!貴方はエレノアさんに手料理を習っているのね?」
「そうなんです。お母さんのご飯を食べたら、朱夏も少しは元気になって、また立ち上がれるかもしれないわ」
二人の盛り上がりを聞いて、燐子はようやく、朱夏が母の手料理なら食べるとワガママを喚き散らしていたのを思い出した。
飯だけであの水底から這い上がって来られるのだろうか、と燐子が内心訝しがっているうちに、ミルフィと絹代は手際よく立ち位置を入れ替えた。
そして、絹代は自分が焼いていた肉を大皿に乗せると、燐子に向けて「食べますか?」と問いかけた。
だから、それが要らないからミルフィに飯を作るよう頼んだのだが…、とまではさすがに口には出せなかったものの、どうやら表情に出ていたらしい。
絹代はじっとりとした目で燐子を睨みつけ、「お外の兵隊さんたちに分けて来ますね」と言って屋敷から出て行ってしまった。
「あーあ、絹代さん、怒ったんじゃない?」からかうような口調に、燐子も思わずムキになって返してしまう。「あれしきのことで気分を損ねられては困るな」
「作ってもらってる身分で、偉そうにぃ」
上機嫌でコツリと肘で小突いてくるが、危うく鳩尾に入りかけてヒヤリとする。
それからミルフィは、カランツの郷土料理である野菜スープを作り始めた。
燐子は彼女の背後をチョロチョロしたり、座ってみたり、手持ち無沙汰な様子で庭に出て、太刀で素振りしたりしていた。
普段の日課の倍の数の素振りをこなしたあたりで、台所からミルフィが声をかけてきた。その後ろには絹代の姿も戻っていた。
「燐子!できたわよ!」
「…ああ、すぐに行く」
本当はもう少しだけ調子を見たかったのだが、ミルフィに呼ばれたとあってはすぐにいかねばならない。以前、カランツで同居していた頃、遅れて食卓に参加した際に食器が片付けられていたことがあったからだ。
縁側から中に戻る。佩いていた太刀も満たされぬ思いにカタカタ鳴っていた。
暖簾をかき分けて台所に入ると、食卓には件の野菜スープと絹代の姿しかなかった。胃袋を刺激する良い匂いに、自然とよだれが出る。それでもすぐには手をつけず、燐子はミルフィの姿を探した。
「絹代殿、ミルフィはどこに行った?」
「それはもちろん、お嬢様のところですよ」
「…そうか」椅子を引いて、食卓につく。「お主は行かないのか?」
「ええ…、どれだけ私が声をかけても効果がないことは、もう分かっていますから」
「ほう…。まぁ、私はどちらでも構わないがな」
口ではそう言っていたが、燐子はほんの少しだけ絹代の態度が気に入らなかった。
鏡右衛門無き今、朱夏こそが絹代にとっての主であるはずだ。それにも関わらず、その命運をよそから来た者に任せるとは、いかがなものか。いくらミルフィと朱夏に血の繋がりがあろうと、重ねた時間の差は歴然ではないか。
すっかり手慣れた動作で、スープをすくう。それを口元に運んで、ゆっくりと液体を流し込む。
口腔、食道、胃…。流れるように駆け抜けた液体の温かな旨味に、燐子は思わず唸った。
「うん、旨いな」
これならば、朱夏も気を取り戻せるかもしれない。
なぜなら、この料理は『生きるための』活力に満ちているように思えるからだ。
あの日、腹を切ろうとしていた私に言ったミルフィの言葉。
――私に、アンタが死ぬためのご飯を作らせないで。
ふ、と懐かしい記憶に頬が緩む。そして、さらにもういっぱい口に含む。
(お前の飯のおかげで…、私は生きている。感謝するぞ、ミルフィ)
「入るわよ」
一応声をかけて朱夏の部屋の襖を開けたが、彼女が返事をしないことはここ一ヶ月で知っていた。
朱夏は布団の中でぴくりともせず、横になったままだ。そんな彼女の枕元に膝を着き、カランツの郷土料理であるスープの蓋を開けた。
「朱夏、ほら、これを食べて」
だが、朱夏は何も答えない。
彼女がまともにご飯を食べなくなって、もう一ヶ月にもなる。フラフラになっても自主的に食事を取ろうとしないので、今は定期的にシルヴィアが来て、わずかながら食事を与えている状況だ。彼女相手であれば、いくらか話もしているとのことである。
とはいっても、もちろんまともな食事ではない。ゼリー状のお菓子ばかりだ。あれでは、いつ体を壊してもおかしくはないだろう。
ただ、今回ばかりは勝算があった。
朱夏が唯一食べたいとせがんだもの、それがエレノアの手料理だった。すでに彼女は亡くなっているため、その味を教え込まれた自分の出番だというわけだ。
どれだけ味を近づけられているかは分からないが…、やってみる価値はあるはずだ。
「ねぇ、朱夏。匂いだけでも嗅いでみて。きっと、懐かしい匂いがするから」
どこまでも無視を貫く朱夏にも、ミルフィは根気強く待った。せめて、スープが冷めないうちに顔を出してくれればいいのだが。
どれくらいの時間が経過しただろうか、おそらく、30分くらいだろう。ようやく朱夏が布団の中でもぞもぞと体を動かし始めた。
「…まだいるの」
「ええ」
「なんで」
「なんでって…」呆れるような問いかけに、ミルフィは苦笑する。「ご飯、せっかく作ったんだし、もったいないじゃない。それに――」
そこでミルフィは、その先を口にするべきかどうか迷った。すれば、朱夏を不用意に刺激することになりかねないと思ったからだ。
だが、結局は続きを口にすることにした。今は、諍いを避けて日和っている場合ではない気がした。
「――私は、貴方のお姉ちゃんだから」
ミルフィが漏らした小さな呟きを聞いて、朱夏は布団を跳ね上げた。それから上体を起こすと、彼女は鬼の形相で『姉』を睨みつけた。
「うるさい!お前が私のお姉ちゃんなはずあるもんか!」
耳鳴りがするのではと思えるほどの叫び声だった。尋常ではない様子だったので、下手をするとまた大太刀で斬りかかられるのではとも思ったが、予想外にも、彼女はすぐにぴたりと動きを止めた。
鼻をひくつかせた朱夏は、じーっとスープのほうを見つめた。それから、ズリズリと引きずられるようにして布団から這い出て、スープの目の前まで四つん這いで移動した。
「これ…」と目を丸くして透き通る水面に目を落とす朱夏。「ど、どうやって作ったの?だって、ママは…ママは…」
「言ったでしょ。私は貴方のお姉ちゃんで、貴方のお母さんの娘なんだから」
これには朱夏も反論しなかった。いや、できなかったのかもしれない。なぜなら、朱夏の目の前にあるのは、確かに自らの母が作ってくれていた愛すべき料理だったからだ。
冬が近づく畳の上には、ひんやりとした冷気が忍び寄っていた。部屋には火鉢も置かれていたが、炭からはもうなんの熱も発せられていなかった。冷え切ってしまった炭の黒は、朱夏の心を映しているようだった。
おそるおそる、朱夏は木製の匙を握った。湯気の立つスープをひとすくいして、揺れる水面をじっと見つめていた朱夏は、おもむろにそれを口に含んだ。
それからは、あっという間の出来事だった。
アイオライトの目を見開き、夢中になってスープの中身を胃の中にかき込んだ朱夏は、行儀悪く箸の先端で人参の欠片を貫いた。それから、串刺しになった人参をほぼ丸呑みするみたいに口に放り込むと、そのまま一気にスープを平らげてしまった。
ふぅ、と満足そうに一息ついた朱夏は、ややあって、ミルフィのほうへと顔を向けた。生気がいくらか戻った瞳からは、以前の彼女にあったような無邪気な狂気は消えていた。
「…ねぇ」
「なぁに?おかわりならあるわよ」
「そうじゃなくて…。赤髪のお姉ちゃんが、本当に、私のお姉ちゃんなの?」
なんだか、頭がこんがらがりそうな言い回しだったが、どうにか聞き返すことなく朱夏の問いの意味を飲み込む。
「ええ、そうよ」浅く頷いたミルフィは、そのまま朱夏の言葉をじっと待った。
だが、朱夏がこぼしたのは言葉ではなく、大粒の涙だった。
流れ落ちる彗星は雪原のような頬を幾筋もの軌跡を残して滑り、やがて顎の先に達すると、一滴、一滴、畳の上に落ちた。
それにつられて、ミルフィも自分の目頭が熱くなるのを感じた。ここで泣いては話が進まない、そう思い、歯を食いしばって熱を抑える。
「…っ、ママは、戻って、こないの?」
「…そうよ」
「どうして?なんで?」
「朱夏、死ぬっていうのはね、そういうことなの」
「…帰ってこない」ぼそり、とうわ言のように朱夏が呟く。やがて、ぎらつく眼光を翻して続ける。「それは、誰のせい?」
言葉の内側で蠢く憎悪に、背筋がすうっと冷える。彼女が望んでいる言葉が何か、ミルフィには分かった。だが…、それを言うことで救われるものがないことも、ミルフィには十分に分かっていた。
ミルフィは短く首を左右に振って答えた。
「誰のせいでもないわ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘、殺したのは、パパでしょ」何かを呪うような瞳だ。「じゃあ、悪いのはパパだ。だったら、パパを――」
「ダメ」言葉を遮って、朱夏の肩に触れる。驚くほど緊張して強張った体だった。「貴方がそれを口にするのは、とても恐ろしいことなのよ。だから、そんなこと言わないで」
「そんなの知らないよ!だって、ママは、ママは…」
朱夏が繰り返す呟きは、次第に弱まっていった。狂気と殺気で張り詰めていた風船が、ゆっくりと萎んでいくように。
すっと、朱夏の指がミルフィの服にかかる。そのまま、一つ一つ確かめるように胴体に回される。
先程とは反対に、朱夏は少しずつ声を大きくして、やがてむせび泣き始めた。ミルフィは、朱夏が――半分だけ血の繋がった妹が泣き疲れて眠るまで、じっと彼女を抱き締め返すのだった。
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