飯と、戦争と 弐
エミリオは燐子と一言、二言交わすと急いで姉の元へと駆け寄り、今日の夕飯である肉料理に釘付けになっていたのだが、昼間の件で反省の色が一向に見られない彼は、頭頂部に拳骨を食らっていた。
馬車に踏まれたヒキガエルのような悲鳴を上げたエミリオは、実の姉にあらん限りの文句をお見舞いするも、二発目の制裁を受けて完全に沈黙する。
そんな二人の姿を、微笑ましいものを見るような目つきで眺めていたドリトンに、そういえばあの騒ぎの間どこにいたのかと尋ねると、丁度、隣町に用事があって出かけていたのだと返された。
「隣町?」とドリトンの心からの謝辞を遮って、燐子が問う。
聞くと、この蜘蛛の巣のように伸びた川沿いの果てに大きな湖があって、そこにここよりも大きな規模の町があるとのことだった。
町、か。ここより栄えた場所となれば、色々とこの世界のことについて分かるのではないか。
もしかすれば、自分の心だって定まるかもしれない。
「お祖父ちゃん、また駐屯所のこと?」
「うむ…」
「無駄だよ、あんな奴らに何言ったってさ」
ただでさえ険しい顔つきをしていたミルフィが、その話を始めた途端、一段と不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
燐子はそれよりも隣町に関しての話をもっと聞きたかったのだが、会話の中心は直ぐにその駐屯地の兵に関するものへと変わっていった。
「あいつらは、辺境のちっぽけな村になんて、興味ないのよ」
「まあまあミルフィ、そう邪険にするものじゃない。彼らの全てが我々を軽んじているわけではないのだからね」
「どうかな、少なくともアズールの連中は、この村が滅んでも構わないと思ってるんじゃない?」
さすがに度が過ぎた発言だと判断したのか、ドリトンが彼女を優しく咎める。
それに対して不服そうに次なる言葉を探していたミルフィだったが、二人の会話に燐子が横槍を入れる形で口を挟んだ。
「話の腰を折って申し訳ないが、あの獣はよく村に下りて来るのか」
「いいえ、普段は森の中で大人しくしているのですが…」
そこでドリトンは言葉を区切ると、言いにくそうに燐子の目を覗いた。それによって彼女が「ああ、自分が同胞を斬ったから下りてきたのか」、と呟くと、彼は苦笑いを浮かべながらかすかに頷いた。
もちろんそれに関して彼が燐子を責めるようなことはなく、むしろ感謝しかないというふうではある。
だが、ドンっと机の上に獣の肉を豪快に焼いた料理を置いたミルフィが、鼻を鳴らしてドリトンの言葉に異を唱えた。
「違うでしょ、迷惑なお隣さんが、あいつらの住む森を焼いて回ってるのがそもそもの原因なのよ」
胃袋を刺激するいい香りを吸い込みながら、燐子が首を捻る。
「隣人が森を焼いているのか?何故罰しない」
「さあ?違う問題で大喧嘩中だから、それどころじゃないんじゃない」
何が何だかさっぱり分からん、といった様子で、人数分の皿を食卓に並べ終えて席に着いたミルフィに説明を求めようとしていたところ、代わりにエミリオが「お姉ちゃん、それじゃあ燐子さんには分からないよ」と言ってくれた。
弟の忠言を無視して、ミルフィは一人で先に肉をナイフでカットし始める。
後から聞いたのだが、『ステーキ』と呼ぶらしい。
今まで何度か肉料理が出たことはあるが、このような豪快なものは初めてである。
ふっ、と燐子は口元を歪めた。
日を追うごとに激増していく異世界言語の語彙が、どことなく燐子には虚しく感じられていたのだ。
皿の上で、未だに熱を持って肉汁を迸らせているステーキに、形の不揃いな箸で手をつける。
こちらに来て悲嘆に暮れていた頃、エミリオがせっせと手作りしてくれた一点ものである。
使いづらいが、その心遣いが何よりもの装飾品となって、この箸の価値を高めてくれているのは言うまでもない。
ほんの数秒間だけ思い出に浸っていた燐子は、気を取り直して、ステーキの解体に取り掛かったのだが、どうにも千切ることができず、結局箸で摘まみ上げて噛み千切ることにした。
最初のころはあんな獣の肉を食べるなど、野蛮人でもあるまいし、と正気を疑っていたのだが、これが一度食べてみると中々どうして美味であった。
重厚な歯ごたえ、溢れる肉汁、そして胃に入れた後に湧き出て来る、この不可思議な活力ときたら…。
燐子が、牛や馬も、焼いてみたらこのような味がしたのだろうか、と不謹慎なことを考えてしまったとしても無理はない。
喉元に滴り垂れる肉汁には気にも留めず、それこそ獣じみた動作で肉に食らいついていた燐子を見て、エミリオが大きな声で笑い声を上げる。
明らかに馬鹿にされたのが分かったので、彼女はエミリオを無言で睨みつけたのだが、そんな態度も、彼はお気に召したようでより大きな声で笑うのだった。
「あぁ、ああもう、そのシャツだって私のなんだからね、全く、汚れちゃうじゃない」
そう言ってハンカチ片手に身を乗り出したミルフィは、燐子の喉をつたう肉汁を拭き取った。
それから「こういうときくらいナイフを使いなさいよ」と愚痴を零しながらも、燐子の皿の上に乗ったステーキを自分のナイフで切り分け始めた。
そして自然な手つきで、等分に切ったステーキの一片をフォークで刺して、燐子の口元に運ぶ。
「口開けなさいよ」
「いや、しかし…」
これでは子どもだ、と思い恥ずかしくなった燐子だったが、彼女の押しつけがましい目線と言葉に負けて口を開き、その肉片を頬張った。
噛む度に溢れ出る肉汁に、舌が小躍りしながら喜んでいるのが分かる。
その弾力のある触感と、ここ最近で学んだ極上の旨味を堪能すべく無言で咀嚼していた燐子へ、彼女らしくもない朗らかな笑みで「どう?」と尋ねたミルフィに、少なからず驚きを感じた。
「ああ、美味い」素直に答える。「そう、良かったわ」
先程と同じ種類の笑みを向けるミルフィに、燐子は無意識のまま言った。
「いつもそんな顔をしていろ」
そんな不躾な物言いを受けて、「はあ?どういう意味よ」と元の顔に戻った彼女に尋ねられ、燐子は言葉を続けるべきか迷った末に目を閉じた。
「そうしていれば、多少は愛嬌があるように見える」
彼女は一瞬面食らったような表情をしたが、直ぐにつっけんどんな顔に戻り「別に要らないわよ、愛嬌なんて」と返して自分の座席に腰を下ろした。
やはりエミリオのような可愛げがない、と内心で呟きながら、二人のやり取りを嬉しそうに見つめていたエミリオに顔を向ける。
こちらに来て日が浅いうちは机の片側に燐子が一人、その反対側に三人が並んでいたのだが、それでは燐子が可哀そうだ、とエミリオが彼女の隣に座るようになっていた。
「で、どういう意味なのだ」
「え?」と目を丸くする。
「森を焼く者がいると言う、このような山村では森は宝であろう。そのような行為を何故許す?」
森が燃えれば、植物や木の実が取れなくなる。
そうなればそれを食料にしていた草食動物が消え、さらにそれを餌にしていた肉食動物も消える。
そうして次から次へと連鎖反応を起こして自然資源が姿を消していくのを、どうして黙って見ていられるのか。燐子はそれが奇妙に思えてならなかった。
「それは――」と何かを口にしかけたドリトンの言葉を遮って、突然忌々しげにエミリオが吐き捨てた。
「帝国だよ」