弔いの火
その日の深夜、帝国本領グラドバランの郊外では高い火柱と煙が上がっていた。少し離れた場所では秋霜花が風に揺れている。
無数の刃が踊っているような光景を横目にしながら、燐子は口を真一文字に結んで考え事をしていた。
――何人の民が死んだのだろうか。
理不尽の業火に炙られた命が、今、再び激しい弔いの火に焼かれようとしていた。
木の枠を組み上げ、その中に骸を重ねる。それから、薪を焚べて着火する。すでに、これを三度繰り返していた。やっと、この点火でほぼ全ての骸が葬られることとなる。一部の個別で葬りたいと願い出る者がいた骸だけが、各々の手で葬られることになっていた。
エレノアもその一人だった。今頃、天地家のほうで火葬の準備が行われているはずだ。燐子も、こちらが終わり次第参加するつもりだった。
火付け役の男が後ずさるようにして、木の囲いから離れていく。慣れた手付きだった。スラムの人間のようだったが、おそらくは元からこうしたことを生業にしていたのだろう。
月光を縫って、男に近寄る影があった。スラム区域を担当している帝国特師団員、ガラムだ。
短く刈り上げた頭をかきながら男に何事か声をかけていたが、男のほうが深く何度も頭を下げているところを見るに、何か世話を焼いたらしい。
グラドバランの隅のほうに押しやられていたスラム貧民たちは、皮肉なことだが、そのおかげで紫陽花によって行われた虐殺から難を逃れたようだった。もちろん、全員が助かったわけではないが、一般区画の住民よりは遥かに生き残っている。
ガラムはぽん、と男の背中を叩くと、くるりと振り返って炎の柱から遠ざかった。偶然、こちらに向かって歩いて来ていたわけだが、彼は燐子の顔を見るとしかめ面をしてから、反対方向へと歩いて行った。
嫌われたものだ、とぼうっと考える。そういうふうに考えられるということは、自分にとってはどうでもいい問題だということだ。
オレンジの光を反射した秋霜花は、降り注ぐ火の粉から逃れるように身を捩っていた。それを見ていると、犠牲になった民のことを思わずにはいられなくなる。
「…このような骸の山の上に君臨したとして、それが一体何になる…」
そこに、燐子が元の世界でかき集めていたような、誇りある勝利はない。
ただの破滅と非道、そして、支配を望まんとする浅はかな心だけがそこにある。
ため息を一つ漏らす、センチメンタルな燐子の心を慰めるように、カチャリと太刀が鳴った。
「燐子さんも、こちらにいらしていたのですね」不意に、声をかけられる。声のしたほうを振り向くと、そこには金糸に炎を映したセレーネの姿があった。「…今夜は、追う相手もいないですから」
「まぁ、皮肉ですか?」
「そちらこそ、あの少女にした仕打ちへの皮肉のつもりだったのでは?」
「そのようなこと、このように悲惨な夜にするはずもありません」
セレーネの瞳がわずかながら反感を宿し、煌めいた。天を舞う灰を吸い込んだような色をした瞳は、相変わらず美しかった。
「それもそうですな…。すみません」素直に謝った燐子に対し、女王は、「…いえ、私の日頃の行いも問題なのです」と軽く頭を下げた。
それから二人は、無言のままに煌々と燃える炎を眺めていた。民の死を薪にして鮮やかに燃える炎に、燐子は薄ら寒さを感じた。
やがて、セレーネが呟いた。
「…結果として、貴方をこのようなことに巻き込んでしまいました」
このようなこと、と脳裏で反芻する。その意味を噛み砕く前に、こちらに向き直って女王が続ける。
「誰かの手先となって戦うことはしないと言っていた貴方に、『敵』や『味方』を与えてしまい、申し訳ございません」
深々と下げられた頭を見下ろしながら、燐子は辟易とした気持ちになる。それが抑えきれなくて、彼女は両腕を組んで視線を逸らした。
「それが何の謝罪なのか、私には分かりかねますな」
「それはもちろん、貴方を竜王祭に引き込み、ライキンスとの因縁に巻き込んだことへのものです」
ゆっくりと目を開く。視線の先には、いつまでも勢いを失わない業火があった。この炎は、どこか戦う人間の運命に似ている、と燐子は考えた。
あまりに多くの犠牲がある。それはいつの世の中も変わらない。私が私を形作る全てを手にするために奪った命も、その中の一つであろう。
燃やす命の数に比例して、名声は高まる。敵兵は私を見ただけで縮み上がり、味方はこの太刀が煌めくだけで気炎を上げた。
(戦いの中で生きる者が、全て等しく破壊者であるとするのなら…自分は、鏡右衛門やライキンスとさして変わらないのではないか)
物思いに耽り、うんともすんとも言わない燐子に耐えかねて、セレーネはさらに言葉を重ねた。
「もしかすると、燐子は私を恨んでいるかもしれませんね。貴方の力を利用したくせに、貴方を批判するような真似をした私を」
「――全ては私が、私の意思で選んだこと」反射的にそう口にしていた。遅れて、ミルフィもか、と頭の中で付け足した。「ですので、王女が気に病むことはありません。ましてや、私の怒りを、自分を慰めるための手段として扱うのはやめて頂きたいですな」
その発言に、セレーネは一瞬だけを目を大きく見開いた。しかし、すぐに苦笑してみせると、後ろ髪を手で払いながら燐子の隣に並び立った。
「…ふぅ、燐子もよくよく人の気持ちが分かるようになりましたね」
「お褒めの言葉、ありがたく頂戴します」
「もう、可愛くありませんね?ふふ」
珍しく、セレーネは幼子のように破顔した。ある意味、彼女が最も望んでいた言葉だったのかもしれない。
「…責められることで、自分が楽になりたい。そのようなことでは、女王は務まりませんよね」
「はい、そのように私は考えます。――貴方は聡明で勇敢です。貴方自身で国の未来を拓ける。…くれぐれも、あの女に甘やかされてしまわぬよう、お気をつけください」
燐子のほうは、余計なことを言ったつもりはなかったのだが、最愛の姉のことを引き合いに出されて、セレーネはぴくりと青筋を立たせた。
「ええ。気をつけます。幸い、今はお姉さまには王国に戻ってもらっていますから、その心配はありませんね」
「王国に?」
「そうです。失った戦力の補充を行います。兵隊だけではなく、資材、武器もです。ああ、シュレトールやアズールからも力を借りることになるでしょうね」
「…左様ですか」
自分が立ち寄った二つの街のことを思い出し、燐子は少しだけ郷愁の念に駆られた。まだ、こちらに来て一年も経っていないというのに、そうした感情が湧くことが不思議でならなかった。
セレーネは燐子の微妙な表情を勘違いしたのか、「安心してください、徴兵などは行いません」と断言した。そういうつもりはなかったのだが、ミルフィが聞けば喜ぶだろう。
二人はしばらくの間、来るべき戦争について意見を交わした。現状、どのような課題があるか、助言を求められた燐子は淀みなく、自分の知る限りの知識をセレーネに伝えた。かつての自分が活かされるようで、どこか誇らしい気持ちになる。
やがてセレーネは、そろそろ騎士団のテントに戻ると告げ、燐子の元を去ろうとした。しかしながら、「あ、そうです」と思い出したように引き返してきた。
一体どうしたのだろう、と燐子が不思議に思っていると、セレーネは目にも留まらぬ速度で燐子の頬を思い切り打った。
高く、乾いた音が響き渡る。あまりに良い音がしたので、周囲にいた人間の多くが彼女らに注目していた。
はられた頬を赤くしながら、現状が飲み込めないままにセレーネのほうを見やる。すると、彼女は明らかに機嫌を良くした様子で微笑んだ。
「ミルフィと約束していたのです。燐子さんに再開できたら、難癖つけてでもぶちかましてやりましょう、って。あー、スッキリしました!」
燐子は、うふふ、としてやったりといた感じで笑うセレーネを見ながら、もしもミルフィも同じことをしてきたらと想像して、青くなるのであった。
天地家に戻ると、ちょうどエレノアの亡骸を包んだ白い布が、木の囲いに乗せられようとしているところだった。
絹代とミルフィの二人がかりでそっと亡骸を置く。二人の表情には拭いきれない悲しみがあったが、ある種、人間として健康的で当たり前なもののように感じられた。
(私には、アレが欠落しているのかもしれん)と燐子は、かつて、自分の母が亡くなったときのことを思い出そうとした。
しかし、当時の記憶は激戦の最中にあり、思い出せるものといえば、初めて大将首を取ったときの感動と、城に戻って来てから知らされた母の訃報への現実感に乏しい驚きだけだった。
燐子は二人に近づき、少し離れた距離から声をかけた。
「間に合ったようだな」
短い間だったが、エレノアには世話になった。それに、ミルフィの母親ということであれば、決して他人ではない。
緩やかな夜の時間の中でなら、燐子の胸にも自然と死者を悼む気持ちが湧いた。自分で思っていた以上に薄情というわけではなさそうだ。
ただ、そうは思いつつも、結局のところ自分は、この誰しもが持ち得る『優しい』感情よりも、剣士としての本能が強いということらしいと気づき、肩を竦めたくなった。
「あぁ、燐子。そっちはどうだった?」
「無事に終わった。これで、犠牲になった者たちの魂もいくらかは浮かばれることだろう」
燐子は、本心ではそんなことは考えていなかった。
死ねば、そこまでだ。何かのために死ぬことが無意味だとは一切思わないが、死んだ後に、その者たちが何かを想うことはできないと燐子は考えていた。
少しだけ、自分も器用になったな、と考えつつ、燐子はふと朱夏の姿を探した。辺りを見渡しても、あのアイオライトは見当たらない。
「お嬢様なら、未だに部屋に籠もられたままです」燐子の視線を追って、絹代が説明する。「奥様の葬儀があると言えば、出てきてくれると思ったのですが…」
「逆効果だったかもしれんな」我ながら冷たい物言いだとは思った。「まだ朱夏は、人が死ぬということを本当の意味で理解できていなかったのだろう」
「あの、どういうことでございますか?」
ちらり、と燐子は絹代の顔を一瞥した。
一体、絹代はどれだけ朱夏の凶行を知っているのだろう。もしも、彼女がそれをほとんど知らないのだとすれば、今自分の口から真実を語るのは得策ではあるまい。
「剣を取るには、幼稚すぎたということだ」
適当に誤魔化しながら、二人の間に並び立つ。すでに星は光を弱め、天の縁は橙色がかってきていた。
絹代は火の点いていない松明を篝火に寄せると、煌々と燃える炎をその手に宿した。それから、少しばかり逡巡した後、松明をミルフィに手渡した。
「…いいんですか?」とミルフィが尋ねる。「はい。奥様も、私より貴方に葬ってほしいでしょうから」
それを聞いたミルフィはこくりと頷くと、エレノアが横たわった木の囲いに近づく。朱夏を待たないのが意外だったが、遺体が傷むのを避けたかったのかもしれない、と一人納得する。
ゆらゆらと揺れる炎が、ミルフィの頬を照らした。彼女の表情は憂いに染まってはいたが、ようやく普段の気丈さを取り戻しつつあるように見えた。
それでもミルフィの様子が気になって、燐子は声をかける。
「大丈夫か?」
「大丈夫かって、なにがよ」
「重荷ではないか、と聞きたいのだ」
「…問題ないわよ、自分を捨てた女の後始末なんて」
吐き捨てるように言ったミルフィの言葉に、燐子は顔をしかめる。
「よせ、ミルフィ。お前らしくもないぞ」
「…ごめん」
燐子は、悄然とした様子のミルフィを見て胸が痛くなった。やはり空元気だったのか、とため息を吐き、ミルフィの手に自分の手を重ねるようにして松明を持った。
「この炎がお前を苦しめる十字架になるなら、私が代わる」
真っ直ぐ、相棒の瞳を覗き込む。臙脂色の瞳は炎を吸い込んだみたいだと思った。
「ありがとう。でも、本当に大丈夫よ」
「そうか。いや、すまん。余計な気を回しすぎた」
「本当、それ。燐子のほうこそ、らしくないじゃない?」
おどけてみせるミルフィの姿に切なさが宿る。彼女が無理をして冗談を言っているのが分かっていたから、燐子も自分自身の感情に嘘を吐いて、多少大げさに不平を漏らす。
「全く、気遣いは素直に受け取らんか」
「ごめんごめん」とミルフィは微笑む。目は暗がりに住んだままだ。彼女は短く息をこぼして続けた。「…ありがとね、燐子。ごめん」
ごめんは余計だ、と口にしかけていたところで、やおらミルフィがエレノアの遺骸に火を灯した。
あまりに不意を打った行動だったため、絹代も燐子も目を丸くして立ち上る灼炎を見上げた。燃料が多かったのか、想定よりも強い炎になっていた。
炎は天を目指すように高く揺らめいていた。あるいは、水底で踊る海藻のように。
「…っ」
息を詰まらせるような声に、燐子はミルフィのほうを横目で確認した。彼女は、声を押し殺して泣いていた。
声をかけるべきだろうか、と散々悩んだ挙げ句やめた。
それは、ミルフィの頬を滑る流星が美しかったためではない。もちろん、言葉が浮かばなかったわけでも。
(この時間は、彼女だけのものだ。何人たりとも、その心を惑わせるべきではない)
しばし、燃える木が弾ける以外の音がしない、静謐に満ちた時間が流れた。生を感じさせるものは、ミルフィと、途中からこらえきれなくなって涙し始めた絹代のすすり泣きの声ぐらいのものだ。
だが、その時間も長くは続かなかった。いつの間にか縁側に出てきていた朱夏が、灰に還ろうとする母の姿を見て、泣き叫びながら駆け寄ってきたからだ。
「待って、待ってよぉ!そんなことしたら、ママが死んじゃうよぉっ!」
火を消そうと考えたのか、朱夏は白い両手を炎に向かって伸ばした。危険極まりない行為に絹代らが止めに入るも、朱夏が両手に抱いていた大太刀を抜き放ち、一閃したことで近寄れなくなる。
「お嬢様、危のうございます!」
「しゅ、朱夏!アンタ、バカ、こっちに来なさい!」
二人が懸命に呼びかけるも、大太刀を引きずりながら火の棺桶に近づこうとする朱夏には届かなかった。
そんな彼女の前に立ちはだかる、一つの影があった。
「…邪魔、しないで。燐子ちゃん」
「私が何の邪魔をしている」
「私は、ママを助けるの。ママが、火傷して死んじゃう前に――」
「エレノア殿はもう死んでいる」
冷たい言葉を言い放つ。今度はあのときとは違う、あえて冷血な物言いをした。
「な、なんでそんなこと言うのぉ…?ママは、ママは!」
「朱夏、辛いだろうが、それが現実だ」燐子は目をつむった。「お前が殺してきた者と同じように、二度と戻りはしない」
刹那、朱夏が大太刀を振りかぶった。
ものすごい勢いと叫び声を連れて、一気に燐子へと肉薄する。
燐子、とミルフィが叫ぶ声が聞こえる。だが、それに気を取られることもなく、燐子は素早く鯉口を切り、朱夏の唐竹一閃を太刀の腹で受け流した。
そしてそのまま、バランスを崩した朱夏の肩口を手で思い切り押して、彼女を突き飛ばした。
「きゃっ!」可愛らしい声と共に、砂利の中に倒れ込む。
絹代とミルフィは慌てて朱夏の元へと駆け寄ると、彼女を気遣うような声をかけたのだが、それを聞いた瞬間、朱夏は大声で泣きわめき、ミルフィの胸元に顔を埋めた。
「ひぐっ、えぐ…、ママは、ママは死んでないもん…」
「朱夏…」
「死んでないもぉん!燐子ちゃんの、ば、バカぁ!」
二人が朱夏の頭を撫でて、哀れみと慈しみで彼女を包み込む光景を眺めながら、燐子は考えた。
(鏡右衛門…、お前の罪はこの無限の夜闇の如く深い。それが分からんわけではあるまい…)
やがて、オレンジ色に輝き出していた夜の縁が、暁に染まった。数奇な運命が産声を上げた一日がようやく終わったのだ。
みなさん、お疲れさまです。
みなさんのちょっとした楽しみになれればと、執筆しておりますが、
一ミリくらいはそうなれているでしょうか?
何はともあれ、ご覧になって頂きありがとうございました!