痛みの最中で
お久しぶりです。an-coromochiです。
竜星の流れ人、再び更新を始めようと考えています。
以前、残り2部で終わりにするとしていましたが、
どうやら今回で最後の部にできそうです。
二日に一回の更新になりそうですが、
またお付き合い下さる方は、是非よろしくお願いします!
気づけば、空は鉛色の雲に覆われていた。秋の天気は変わりやすいというが、まさにその通りのようだ。
未だに鈍い痛みが、肩口から腰にかけて、鼓動に合わせてズキズキと疼いている。そのため、燐子は襖になだれかかっていなければ、体を真っ直ぐ保てそうにもなかった。
絹代が用意した天地家の一室には、気を失った朱夏と、青痣だらけで膝を抱えたシルヴィアがいた。燐子は一人離れていたが、シルヴィアは朱夏のそばを片時も離れそうにない。
考え事をしたかったが、痛みがその邪魔になった。雨音が激しくなる一方で、暗い部屋の中は次第に静かになっていくようだった。
ずっと黙っていると、やがて、シルヴィアのすすり泣くような声が聞こえ始める。声を押し殺して泣いている少女を一瞥した燐子は、たまらず声をかけた。
「大丈夫か、無理をするな」
シルヴィアは、燐子の気遣いに何の反応も示さなかった。それで良いと燐子は思った。それが、『無理をしない』ということなのだから。
ふぅ、と短いため息を吐く。呼吸をするだけで痛む肩口が、酷く忌々しい。
日が傾き、この一室の暗闇も濃くなったところで、「失礼します」という弱々しい声と共に襖が開いた。顔を向けると絹代がいた。手には濡れたタオルを持っている。
彼女は燐子の顔をチラリと見やってから、シルヴィアと横たわる朱夏を痛ましそうに見つめて、再びこちらへと視線を戻して話を始めた。
「お嬢様も、呼吸が安定してきたみたいですね。――そちらの傷は大丈夫ですか?」
「ああ、お主の治療のおかげで、出血はすっかり止まっている」
「…そういう問題でしょうか」
「構わん。死んでないならば、それでよいのだ」
燐子がそう言うと、絹代は引きつった表情で顔を逸らした。
何か不気味なものでも見てしまったかのような態度は、些か鼻についた。しかしながら、すぐにもっと大事なことを思い出し、燐子は背中を襖から離して、無理やり姿勢を正してから尋ねた。
「…ミルフィの様子はどうだ」
「あの女性なら、傷も浅かったので心配はいりません」
「そういうことが聞きたいのではない。分かるだろう」
苛立たしげに燐子が眉間に皺を寄せると、絹代は慌てた様子で言葉を返した。
「ずっと塞ぎ込んでおいでです。その…、奥様のそばで」
「そうか」
肩を落として、吐息混じりに呟く。そんな彼女に、今度は絹代がおそるおそるといった様子で問いかける。
「あの…、彼女は一体何者なんですか?本当に、奥様の娘さんなのですか?」
「私が知るものか。そんなこと」
こちらだって、その件で酷く混乱していたのだ。ようやく落ち着いてきたというのに、頭の整理もできていないうちに蒸し返すのはやめてもらいたいものだ。
だが、絹代は燐子の無愛想な物言いが気に入らなかったようで、不快感を隠さず顔つきを険しくする。
「…そんなに心配ならば、ご自分で様子を見に行かれてはどうですか?」そう言うと、絹代は襖を開けっ放しにして朱夏へと近寄り、額の汗を持っていたタオルで拭った。
言われずともそうするつもりだったさ、と頭の中だけで負け惜しみのように言った燐子は、ゆっくりと立ち上がり、絹代がシルヴィアのことも心配している声を聞きながら後ろ手に襖を閉めた。
ミルフィがいるエレノアの私室を目指す。道中、建物が死んだように静かなことに気がつく。それこそ、先程までいた部屋と同じように。
屋根を叩く雨音だけがやたらと多弁だった。建物も、廊下も、エレノアの部屋の前の縁側も、どこもかしこも例外なく空虚な静寂に飲まれている。
(…それもそうか。なにせ、この家の住人である天地家の人間は、全員が暗闇の向こうにいるのだからな)
朱夏は、紫陽花との戦いの最中で大怪我を負ったらしく、シルヴィアに連れられて命からがらここまで逃げおおせてきている。彼女が言うには、二人がかりでも全く太刀打ちできなかったとのことだった。
絹代の懸命な治療がなければ、エレノアと同じ闇に沈んでいたかもしれない。
そして、エレノアをそんな死の闇へと放り込んだ鏡右衛門もまた、失意と引き返せぬ混沌の闇をさまよっているはずだ。少なくとも、別れ際の彼の顔はそんなふうに映った。
エレノアの部屋の前に立ち、どうするべきか散々悩んだ挙げ句、燐子は声を発した。
「ミルフィ、私だ。入るぞ」
中から返事はない。分かっていたことだが、だからといって、心配が弱まるわけではない。
ゆっくり襖を開けてみると、最初に、部屋の中心に置かれているエレノアの遺体が目に入った。すっかり血の気が失せて、肌は土色になりつつあった。
ミルフィは、そんな物言わぬ肉塊と化したエレノア――ミルフィの言葉が真実なら、実の母親になるが――の胸の上に頭を埋めていた。泣いている様子はない。魂が抜けたかのようにじっとしている。
「ミルフィ」足早にミルフィの隣に屈み、声をかける。その拍子に肩口が強く痛んだ。「聞こえるか、私だ。顔を上げてくれ」
ぴくり、と燐子の声に反応したミルフィは、とてものろのろした動きで面を上げた。目は真っ赤に腫れており、涙の筋が何本も頬のあたりにできていた。
「ミルフィ、よく顔を上げてくれた。朱夏も重傷だったが、なんとか無事のようだ」
「…燐子は?」
「私か?この程度、かすり傷だ。心配はいらん」
もちろん嘘であるし、ミルフィだってそれくらいは分かっているだろう。
ふと、彼女も鏡右衛門から攻撃を受けていたことを思い出し、燐子はおもむろにミルフィのスカートをめくり上げた。傷口のある右足の太ももあたりまではだけさせると、しっかり巻いてある包帯が薄く血で滲んでいるのが分かる。
「…すまん。私が迂闊すぎた、いや、私の腕が足りなかったばかりに…」
後悔と自責の念に駆られた燐子は、唸るような声を出して唇を噛んだ。しかし、当のミルフィはその点には一切触れず、億劫そうな口調で、「スカート、めくらないで。恥ずかしいから」とぼやいた。
その言葉を受けてようやく、燐子は自分がはしたない真似をミルフィにさせているのに気づき、慌ててスカートの裾を元の位置に戻した。
「ち、違うのだ。これは、そういう下心があったわけではなく、その…」
燐子は、ミルフィから叱責を受けずに済むよう弁解を図ろうとした。しかしながら、すぐにその必要性がないことを悟った。いつもならば鬼の形相で罵ってくる彼女が、痴呆にでもかかったかのように無感情な眼差しでエレノアを見つめていたからだ。
布団の真上、天井付近で、蝿が一匹飛んでいた。まだ遺体が腐るには早いので本当に偶々飛んでいただけなのだろうが、それでも、蝿が腐肉に集ろうとしているように感じられて不愉快だった。
天井に蝿がぶつかる音が、ピシピシ、ピシピシ、と何度も聞こえてくる。まるでエレノアの周りから人がいなくなるのを待っていて、それを急かしているかのようだ。
人形のように動かないミルフィを見かねて、燐子が淡々と、しかし、彼女を傷つけたりしないよう口調に気をつけながら言う。
「エレノア殿は、本当にミルフィの母親だったのか?」ややあって、こくりとミルフィが頷く。「そうか…、それは辛いことだろうな」
このような簡単な言葉で片付けていいのか迷いつつも、燐子は立ち上がった。それからほんの数秒だけミルフィの肩に手を置いて、彼女の心の痛みが少しでも消え去るよう祈った。
それが済むと、燐子はいよいよ動き出さねばと自分に喝を入れ、ミルフィに向けて告げる。
「ミルフィ、私はディプス丘陵の砦へと戻る。ここであったことを話さねばならんし、まだ向こうが片付いていなければ、助太刀せねばならん」
正直、この怪我では普段の半分ほどの力も出せないだろう。だが、足手まといになることはない。燐子にはそういう自負があった。
「お前はここに残れ。後で必ず迎えに来る」頭の端では、エレノアの葬儀も早々に行わねばと考えていた。腐り始めては、なおのことミルフィの心に傷を残す。
怪我はしているが、まだシルヴィアは戦える。雑魚相手なら彼女一人で十分であるはずだ。
燐子は部屋の出入り口に戻ると、襖へと手をかけた。すると、後方からミルフィの虚ろな声が聞こえてきた。
「お母さん、お父さんとの髪結いの儀で使ったリング、まだ髪にはめてたんだよ」
振り向けば、彼女の掌の上に銀のリングが乗っていた。くすんで、錆かかっているようだ。そんな代物でも、ミルフィは愛おしそうに表面を撫でていた。
「そうか。義理堅い方だったのだろう」できるだけ柔らかく、エレノアの想いを称える。
「はは、どうだか…。まさか、流れ人と駆け落ちしてたなんてね…」
自嘲気味な笑いが気になり、燐子はまたミルフィへと近寄った。だが、今度は彼女に触れる前に顔が上がり、わずかながらも光を灯した目と視線がぶつかった。
「私も行くわ」
「だが――」燐子が反対しようとすると、即座にミルフィが言葉を被せた。「分かるでしょ?ここにいても訳の分からない気持ちでいっぱいになるの。何かしてるほうがマシなのよ」
確かに、その気持ちなら自分も痛いほど分かった。なぜなら、燐子自身もつい先日まで、同じような気持ちで帝国の手伝いをしていたからだ。
「分かった。ただし、無理はするなよ」
「うん…、ごめんね、燐子」
「謝罪などいらん」突っぱねるような口調で、燐子は応じた。「…相棒だろ、お前の痛みは、私の痛みだ」
ミルフィが消え入るような声で返事をしているのを聞いて、もしかすると、ルルがララを失って落胆していた際に、今のような言葉が言えれば良かったのかもしれない、と燐子は考えるのだった。