運命
エピローグとなります。
刹那、鏡右衛門が動いた。
瞬間移動したのかと錯覚するほどにキレのある動きは、燐子の優れた動体視力をもってしても、ギリギリでしか反応できない代物だった。
地表すれすれを這い上がるような太刀筋を、慌てて刀の腹で逸らす。それから、燕が身を翻すかの如き機敏さで真一文字に斬り払われる。
すんでのところで、太刀の柄で防ぐ。だが、勢いに押された結果、燐子は大きく後ろに弾かれてしまう。
「り、燐子っ!」悲鳴にも似た、ミルフィの叫び。返事をしてやりたいが、それどころではない。
体勢を戻し、正面を向く。すると、すでに鏡右衛門の姿はそこにはなかった。
――くそっ、どこだっ!?
左右を見回しても、彼の姿はどこにもない。一瞬で視界から消えるなどありえない、そう考えて呆然としていた燐子に、ミルフィが再び叫ぶ。
「後ろよ!」
反射的に振り返り、太刀を構える。だが、一寸反応が遅くなったために、鏡右衛門の太刀が燐子の右肩を引き裂いた。
「ぐっ…!」
舞う鮮血を見て、思ったよりも深く斬られたのだと気づく。致命傷ではないにしろ、痛手だった。しかし、それよりも燐子は、鏡右衛門が躊躇なく背後から斬りかかってきたことに驚きを禁じ得なかった。
「背中から斬るなど…、本気で侍の在り方を捨てるおつもりか、鏡右衛門殿」
よろめきながら後退し、右肩を抑えながら問うと、彼は憮然とした様子でそれに応じた。
「何を今更、私は確かにそう言ったはずだ」
「貴方ほどの男が…あまりに情けがございませんぞ!」
「そうかもしれん。だが、見てみろ、その情けの無さが今お前に傷を負わせた。ああ、私はコレに殺されたのだ。私がどれだけ無念だったことか、お前には分かるまい、燐子」
「分かりませぬッ!勝てばそれで良いのですか!?」
燐子は歯を食いしばって背筋を正し、続ける。
「誇り高き侍として名の知れていた父は言いました。『誇りを貫いて得られる勝利こそが、本当の勝利』だと。
汚いやり方で勝利したとして、そこには何も残りませぬ。ただの虚無だけが、勝利の旗に宿るでしょう。第二の人生の中で、そんなものが欲しいのですか、貴方は!?」
「自分が、それで天下を取れる器と知れば、試したくもなる」
「私は、私ならばそんなものはいりませぬ!」
強く、ハッキリと燐子が断言すると、鏡右衛門はにわかに顔色を変えた。そして、何を思ったか、小太刀を抜いて燐子に背を向けた。
一体、何をするつもりだろうか。
燐子が訝しがっていると、鏡右衛門はおもむろに小太刀を振りかぶり、縁側で燐子の言いつけどおりじっとしていたミルフィに投げつけた。
「ミル――」ハッとして、彼女の名前を呼んだときには全てが遅かった。
「ああああっ!」
甲高い声で上がった、ミルフィの痛みに満ちた悲鳴。鏡右衛門の投擲した小太刀の切っ先が、彼女の太ももに突き刺さっていた。
滴る鮮血が、ミルフィの健康的な太ももをグロテスクに濡らした。そのあまりにも鮮烈な赤は、燐子の血液を怒りで沸騰させるのには十分すぎるほどであった。
「鏡右衛門ッ!貴様ぁッ!」怒号と共に、燐子が鏡右衛門に斬りかかる。彼は半身になって剣撃を受け止めると、鋭い目つきのまま言う。「私もな、こんなものはもういらん」
「こんなもの、だと…!」鍔迫り合いの状態で、互いに睨み合う。「そうだ。こんな…甘ったれた感情などな」
重なり合っていた刃が離れる。かと思えば、再び肉薄し、何度も鉄のぶつかり合う音と火花が散った。
「『こんなもの』などではないッ!」
振り下ろされる唐竹を流し、燐子は叫ぶ。
「私たちの重ねたものは、貴様のように落ちぶれた人間に『こんなもの』呼ばわりされるような代物ではないッ!」
叫びに呼応するように、燐子の流星痕が輝きを放つ。頭がクリアになっていく感覚と共に、燐子は太刀を振り下ろした。
「ふん、そうか」だが、鏡右衛門は涼しい顔つきで、燐子の渾身の袈裟斬りを受け止めた。「だがな、私は目に見えぬものに執着したが故に、志半ばで散ったのだぞ!」
燐子は、初めて彼の大声を聞いた。それはまるで獣のように荒々しく、放たれた逆袈裟に似た鋭さをもって虚空に轟いていた。
すんでのところで身を引いて躱すも、それを予期していた追撃の刃を浴びて、燐子はふらふらと後ろに下がりながら膝をついた。
――しまった。この傷は深手だ。
ドロリとした感触が、胸の下辺りを流れる。サラシのおかげで致命傷は免れたようだが、襲う激痛を避けられはしない。
情けなくのたうち回ることだけは避けたかったので、歯を食いしばり、膝を地に着けた。右肩の出血もあって、極限に達していた集中が月に雲がかかったかのように四散した。同時に、流星痕の輝きも消える。
(おのれ、この程度のことで…!)
声にならない声で呻く燐子のそばに、鏡右衛門が寄って来る。トドメを刺しにきたのか、と首だけ動かして見返すと、彼はそのまま立ち止まり、心底悔しそうに言った。
「あまりに容易い…。これでは、なんの確信も得られんではないか」
自分の腕を侮辱され、頭に血が昇りそうになるが、それで余計に出血したのか、くらりとして顔を上げていられなくなった。
ふぅ、と上からため息が聞こえる。身を焦がす、とんでもない屈辱だった。
「燐子、人を最も強くするものがなんだか、分かるか?」
説教でも垂れるような口調が、ますます燐子の激情を加速させた。顔を上げて相手を睨みつける余裕がないことが、酷く忌々しい。
しばしの沈黙の後、鏡右衛門が言った。
「怒りや悔しさ、そして憎しみだ。仇を討とうと言う者が往々にして強靭な精神力を持つのはこのためだ」
鏡右衛門は、顔を上げられない燐子の髪をぐっと掴んで持ち上げ、無理やりにでも視線を合わせた。彼の狼の如き獰猛さ、冷血さと邂逅し、燐子は一時は言葉を失ったが、それでも相手を睨みつけることだけは忘れなかった。
「怒れ、燐子。私を許すな。さすれば、お前はより強くなれる」
「そんなもの、偽りの強さだ…」
「強さに真贋などない」顔面蒼白になった燐子へと、吐き捨てるように彼は言った。「あるのは、勝つか、負けるか、二つに一つ。そして、今お前は負けたのだ。お前の言う、偽りの強さに」
そう言い切ると、彼は燐子の顔を太刀の柄で殴りつけた。鈍い痛みと共に、体が地に伏す。情けないが、立ち上がる余力が湧かなかった。早々に止血しなければ、本当に死ぬかもしれない。
「…お前も、敗者だ」それでも、燐子は毅然と言い放った。「私が、お前に敗れたとすれば、すでにお前は自分自身の弱い心に敗れ、支配されてしまっている」
「戯言を」カチャリ、と太刀を握り直した彼が言う。そのまま、彼は今度こそ燐子を斬ろうとした。
しかし…、直後、鋼鉄の矢が彼を後ろから襲った。鏡衛門は後ろに目でもついているのか、それを振り向いて叩き落とすと、矢を放ったミルフィを睨みつけた。
「蚊帳の外で大人しくしていればいいものを…、よほど死にたいと見える」
そうして、鏡右衛門は砂利を鳴らしてミルフィへと歩み寄った。
「ミ、ルフィ…、よせ、逃げろ」燐子の呟きは聞こえない。
足に力が入らないのだろう、彼女は片膝立ちの姿勢で次の矢を番えた。そして、真っすぐ歩いて来る彼に狙いをつけると、二射目を放つ。
ぶん、と剣閃が陽光を弾き、鋼鉄の矢を半分から両断した。どれだけの修羅場をくぐれば、このような芸当がこの距離でできるのか。
続く三射目は、太刀も振るわず身をよじっただけで躱される。その頃にはもう、二人の距離は太刀の間合いであった。
すっ、とミルフィがナイフを抜いたのを見て、燐子は腹の底から叫び声を上げた。
「逃げろ、ミルフィ!」
「うるさいっ!黙って見てらんないわよぉ!」
追い詰められて尚、彼女は強く、美しかった。
ほとんどゼロ距離で放った矢も、苦労を要さず避けられて、ミルフィは悔しそうに顔を歪めた。
その頭上に、白刃が煌めく。命絶つ、無慈悲なる剣だ。
声にならない叫びが喉を突き破るより速く、鏡右衛門が一閃を描いた。
爆ぜる鮮血が、縁側を酷く濡らす。鏡右衛門の顔と着物を赤く染めた上げた血飛沫は、やがて、血溜まりを作った。
人一人分の命が流れ出て出来た死の海は、葬られた者が言葉なくこの世を去ったことを嘆くように、おどろおどろしく揺れている。
その場にいる全員が、口をぽかんと開けたままだった。やがて、ゆったりと鏡右衛門が独り言のように呟く。
「…エレノア、なぜだ…」
ミルフィを絶命の一太刀から救ったのは、鏡右衛門の妻であるはずの天地エレノアだった。すでに彼女は首筋から右脇腹にかけて大きく斬撃を受けており、虚ろな目で天井を見つめていた。
ふらり、と鏡右衛門が後退する。その彼の動きと反比例するかのように、我に返ったミルフィがエレノアの顔を覗き込んだ。
「そ、そんな、嘘…、いや、どうして…!?」
ぶるぶると震えだす彼女の体。明らかに様子がおかしかった。
ミルフィの異変に気づいた燐子はなんとか立ち上がろうとしていたが、どうにも足に力が入らず、前のめりに倒れ込んでしまった。
ぽつり、ぽつりと、細やかな雨が降り始める。天は晴れているのに、不思議なものだった。
「嘘よ、嘘、嘘ぉ…こんなの、う、なんで、あぁ…」
念仏のように低いトーンで繰り返していたミルフィは、やがて、唐突に大きな声で泣き出すと、エレノアの遺体にしがみつきながら号哭した。
雨脚が激しくなりつつある中で、ミルフィの流す涙も留まることを知らなかった。鏡右衛門も、あまりのショックに呆然自失となっている。
そして、ミルフィが涙の中言った。
「お母さん、なんで、こんなところに…!お母さん、お母さんってばぁ!」
流れ出たエレノアの血に染まった言葉は、鏡右衛門と燐子の両人を酷く動揺させるものだった。
「お母さん、だと…?馬鹿な…」目を丸くして、信じられないものを見るような目つきをしていた鏡右衛門は、ややあって肩を大きく落とすと、「…これも運命ということか」と自嘲気味に笑い、体を反転させた。
そうして、たった今妻を己の手で斬り捨てた男は、天地家の屋敷の裏手にある雑木林へと消えようとした。彼は、ちょうど燐子の横を通り抜けるときにぴたりと立ち止まった。
「…燐子、お前が私と同等の腕を持たねば、私の問いに答えは出ない」
彼の横顔が雨に濡れて輝く。幾重にも渡る水の筋は、果たして雨だけだっただろうか。
「強くなれ、そうでなければ意味がない。そうだ、意味が…」
そう言うと、彼は燐子の返事を待たずして雑木林へと消えていった。普段のピンとした背筋は跡形もなく、ただ、疲弊しきった中年の背中が最後まで燐子の脳に残った。
脅威の全ては去った。紫陽花がどうしたかは分からなかったが、おそらくは鏡右衛門と命運を共にするつもりであれば、城下町で長居はしないだろう。
彼女らの胸に、安堵などなかった。
――城下町、城、帝国軍、王国騎士団、民衆、そしてエレノア…。
損失があまりにも大きい。
力の限り這いずって、泥に塗れながらミルフィに近づく。彼女の臙脂色の瞳は充血し、涙は滝のように溢れた。
(また、強者の都合で弱者が犠牲になっている)
ぎりり、と歯を食いしばり、燐子は己に問いかける。
――強者の務めとは、一体何だったのか。
父は、それに誇りや誉れと名付け、私に義務として成すよう教え育てた。
――私たちの剣は、それを邪魔する者たちを斬るためにある、そうではないのか。
この世界に来て、私は多くの強大で不条理な力を見てきた。それに淘汰される弱者も。
目を閉じ、目蓋の裏側に宿る闇に意識を傾ける。すると、その暗がりに鏡右衛門の丸い背中が蘇った。
(このままでは済まさぬ…)失われた血液を埋める、爆ぜる激情が燐子の胸に湧く。(鏡右衛門、地の果てまで追い詰め、必ずお前を斬ってみせる。貴様の描く理不尽な野望諸共な…!)
燐子が屈辱の中、泥を握りしめている間、ミルフィの泣きじゃくる声と、鹿威しの空虚な音だけが、天高く、雨に逆らうようにして昇っているのだった。
これにて四部はおしまいとなります。
ここまでご覧頂けた方々、本当にありがとうございます。
ブックマーク、評価、感想等をして下さった方、重ねてお礼申し上げます!
今後も、少しだけ時間を置いて続きをUPしようと思います。
だらだらと続けている『竜星の流れ人』ですが、
六部で完結にしようと考えています。
もしも、続きに興味がある方がいらっしゃれば、
のんびりとお待ちして頂けると幸いです。
物語はきちんと完結させるつもりですので、ご安心ください。
それでは、またそのときにお会いできると嬉しいです。
ありがとうございました!
an-coromochi より