美しき獣の巣の中で
背筋をぴんと伸ばしたまま、燐子は件の収容所に戻っていた。光差す屋根の下には幾重にも蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
紫と黒の模様をまとった一匹の蜘蛛が、その中心で網にかかった蝶の体液をすすっている。
蜘蛛は、相手の体内に消化液を流し、ドロドロに溶かしてから体液をすするのだと聞いたことがある。
自分があの蝶のようにならないよう、気を付けなくてはと燐子は気を引き締めた。
つかつかと、正面入り口のほうへと向かう。守衛が二人、退屈そうに立ち話に興じていたのだが、燐子が寄って来たのを見て、慌てて姿勢を正して眉間に皺を寄せた。
「何用だ」敵愾心が伝わってくる物言いだ。「用がないなら立ち去れ」
「捕虜の顔を見に来た。私が捕らえた者もいるのだ。それくらいよかろう」
自分があまり良く思われていないことを承知した上で、燐子は冷ややかに答える。
「いや、しかしだな…」返答に困っている様子の守衛の脇を、もう片方の守衛が肘で小突く。「おい、通せって言われてるだろ」
ぴくり、とその言葉に眉をひそめる。
(通せ、か…。やはり、すでに私の動きなど見切られているか)
片方の守衛は不服そうだったが、燐子が黙って中に足を進めたことで、なし崩し的に許可した形となる。
彼らが仕事をしたのか、していないことになるのか…。どうでもいいことだが、それが不思議と気になった。
収容所の中は、嫌な臭いが漂っていた。人の糞尿だけではない。血や、嘔吐物。それから、諦めや恐怖、絶望の臭い。
収容所など、どこも同じだ。違いがあるとすれば、臭いの濃さか。
燐子が奥へと進む間、鉄格子の向こう側にいた男たちが声をかけてきた。
罵声や卑猥な言葉をぶつけられた燐子だったが、妙なことに心は風の穏やかな日の湖面の如く凪いでいた。
明鏡止水、という言葉が脳裏をよぎるも、そんな極意に達していると思い上がるほど、自分は愚かではない。
彼らを無視したまま、真っすぐ突き当りの牢屋に向かう。そこには、罪なき少女たち、竜神教の信徒たちが汚く冷たい石の床に蹲っているのだ。
どこからか、水滴の落ちる音が聞こえる。ぽたん、ぽたん、と響いてくる音は、強い雨風を待っているかのようだった。
「おい、竜神教徒の者たちか」
牢の前まで来てから、中の人々に声をかける。ほとんどが蹲っていたが、例の少女だけが天井近くにある窓を見上げていた。
明日の希望や外を懐かしんでではない。ただ、虚ろに光を見つめているだけだ。
幼い少女の瞳から、光が消える。
こんなことを許していいはずがない。
侍の娘として、そして、心優しき相棒に胸を張るため。
「お前たちが悪事を働かんと信じて、ここから出す。よいか、決して誰かを傷つけるような真似をするなよ」
顔を上げた数名を順番に見つめ、頷いてみせる。それから、錠前に手をかけて外れるか試すも、全くその気配はない。まあ、当たり前なのだが。
上手くやれれば、太刀で寸断できるかもしれない。そう考えて立ち上がり、太刀の柄に手をかけた、そのときだった。
「鍵ならここにあるわ」
ねちっこい声が、自分の右方向から聞こえてくる。振り向けば、そこには手を組んで壁によりかかる紫陽花の姿があった。
「紫陽花…」
やはりか、と頭の中だけで呟く。
紺に黒、紅の着物を身に付けた彼女の脇には、大鎌が刃を下にして立てかけられている。先日、力なき者たちを背中から斬りつけた刃は、毒々しい黒色の光を放っていた。
「はい、どうぞ?」ぽい、と紫陽花が鍵を放った。
犬に餌をやるみたいな動作が気に障ったが、それよりも、彼女の意図のほうが気になった。
「どういうつもりか、聞かせてもらおう」
「私はその人たちに興味なんてないの」紫陽花はそう言うと、少し顎を上げて、見下ろすように続けた。「今、私が興味あるのは、鏡右衛門様に似た貴方」
「…なるほど、斬るための理由が欲しいわけか。紫陽花、お前の思惑に乗るのは癪だが…」
鍵を拾い、錠前を開ける。開放された人々はどうしたらいいのか分からない様子で、未だに牢屋の中でじっとしていた。
「あぁ、危害は加えないよう守衛には伝えてあるわ。他の兵隊に会ったら処罰を受けるかもしれないけれど、ここにいてもどうせ処罰は受けるのだから、どこへなりとお逃げになられたら?」
抑揚のない淡々とした口調でそう告げた紫陽花の言葉を聞いて、牢の中の人々は互いに顔を見合わせた。やがて、一人ずつゆっくりと外に出てくると、逡巡した様子で走り去っていった。
ただ…あの少女だけは、依然として窓の外を見上げていた。鉄格子越しの空に、少女は何を想うだろう。
「本当だろうな」念のため燐子が確認する。「ええ、本当よ。少なくとも守衛からは何もされないわ」
どうやら、全ては彼女の独断で行われている計画のようだ。紫陽花が敬愛する鏡右衛門の許可すらも、下りてはいないのだろう。
それほどまでに、彼女が自分に興味を持っているのが理解できなかった。鏡右衛門と似た自分と刃を交えて何になるというのか。それで、何が満たされるというのか。
壁から背を離した彼女は大鎌を手にすると、くるり、と体を横に回転させた。
着物の袖がはためくと同時に、死の鎌が紫陽花の体の周りに満月を描く。白い煌めきに目を細める。
(蜘蛛の巣にかかったわけだ。いや、分かって飛び込んだのだから、少し話が違うか)
優雅に、艶やかに、紫陽花が花のように微笑んだ。彼女から放たれる奇妙な殺気に肌がひりついた。
鯉口を親指で押し上げ、ほんの少しだけ白の太刀に息を吸わせる。
勝てるだろうか、彼女の腕は間違いなく熟練の領域だ。正直な話、武芸においては自分よりも彼女が勝るだろう。
(それでも、勝たねばならない。紫陽花を倒し、少女を解放しなければ、私は胸を張ってミルフィには会えない。それに、そうしなければ彼女も私を軽蔑するだろう)
独特な鞘滑りの音を収容所内に響かせる。騒がしかった囚人共の声が小さくなった。
抜いた太刀を八双に構え、脇を締める。もっとも手慣れた構えを取ると、確かに心は静まった。
「さぁ、始めましょう…。お願いだから、私をがっかりさせないで頂戴ね?」
「…いざ、参る」
構えを取り合った二人は、数十秒、彫刻のように動かなかった。隙を見出そうとしている燐子に対し、紫陽花は、燐子のほうからかかってくることを望んでいた。
静寂が広がる。湖の底みたいだった。
そのうち、ぴちょん、とまたどこからか聞こえてきた。
瞬間、燐子は初めからそれを合図にするつもりだったかのように、真っ直ぐ紫陽花に踊りかかった。
稲妻のような動きから振り下ろされる、逆袈裟。
火花、舞い散り、紫陽花の大鎌の刃と衝突する。
続けて、右足を引きながら胴薙ぎ。鎌の柄で受け止められる。
この二撃を受けてもなお、紫陽花の表情は艶やかな微笑を浮かべたまま、何も変わらなかった。余裕の笑み、というよりも、楽しんでいる、余韻に浸っているという印象を受ける。
もちろん、燐子にとってそんなことは気にならない。
紫陽花ほどの相手なら、このような単純な連携、通らないと分かっていた。だからこそ、すぐにからめ手に移る。
右足を前に出し、体ごと深く前進しながら、小太刀を右手で抜く。
逆手に持った小太刀に視線が落ちたのを確認し、左手の太刀で袈裟斬りを放つ。
ほんの少し、彼女の表情が崩れた。真剣な面持ちになったのだ。
鎌で軽く弾かれるが、それも予想内。間髪入れずに、小太刀を素早く一閃。これもすんでで弾かれる。だが、これも燐子にとって想像の範囲内。
本命は――当身だ。
詰めた間合いをさらに詰める。体が密着するほどの距離に来ても、燐子はその勢いを弱めず、紫陽花の鎌越しに当身を放った。
深く潜り込んだのは、全てこのため。姿勢を崩せば、そこに一閃の隙ができる。
だが…。
ぐっ、と太刀を持った左手が紫陽花の右手に絡め取られる。そして、そのまま当身の勢いを利用される形で通路の奥へと投げ飛ばされた。
「くっ…!」
まさか、自分のほうが姿勢を崩されるとは思ってもいなかったが、それでも素早く受け身を取って立て直す。
追撃を防ぐため、すぐに紫陽花のほうへ向き直るが、彼女は追撃も試みず、ただ薄ら笑いを浮かべてこちらを見ていた。
「そう…。二刀流なんて、思ったよりも不思議な戦い方をするのね。他にも色々できるのかしら?」
「貴様、手を抜くのか」怒りに目元を吊り上げて、燐子が低く問いかける。
「そんなつもりはないから、怒らないで頂戴。愛らしい顔が台無しよ」
ふん、と燐子は鼻を鳴らした。相手の本心は分からないが、確かに構えから殺気は抜けていない。こちらの予期せぬ切り返しを恐れたのかもしれない。
「貴様も大鎌を使うくせに、柔術まで扱えるとはな。型破りがすぎるぞ」
「あら、どうもありがとう」
皮肉のつもりで言った言葉だったが、紫陽花は美しく笑うばかりか、少し眉を曲げたまま、「それにしても、貴方はもう少しお肉を食べて、体つきを女性らしくしたほうがいいわね」などとほざく始末だった。
もちろん、体型を気にかけている燐子は目くじらを立てて、声を荒らげた。
「黙れ、余計なお世話だ」
確かに…、紫陽花は女性らしい起伏に富んだ体つきをしている。だが、そんなことをとやかく言われる筋合いは絶対にないのだ。
立ち上がると、再び間合いを図る時間がやってくる。
柔術まで使ってくるとなれば、不用意な肉薄はむしろ悪手。素人に負けるほど下手ではないが、自分は組手が得意なほうではない。
(やはり、剣の間合いだ。そここそが、私の間合い)
太刀が届く、この一、二メートルほどの空間で勝負をしなければ、勝ち目はない。
少しでも離れれば、間合いの外から湾曲した刃に一方的に捉えられる。かといって近づき過ぎれば、投げ飛ばされるか、組み伏せられる。グラドバラン城で朱夏が抑え込まれていたように。
それにしても、長物の弱点とも言える、懐に飛び込まれたときの対応を柔術で行うとは…。紫陽花という女は、やはり芸達者な女だ。
だが自分だって、剣においてそう簡単に引けを取るつもりはない。剣術であれば、こちらの引き出しも少なくない自負がある。
小太刀をしまい、八双に構えていた太刀を霞の構えに持ち変える。それを見て、紫陽花も、「へぇ」と興味深そうに声を発した。
居合、最上段、腰構え…。これらは、より完成されたものを日頃から目にしているはずだ。あまり効果的とは思えない。
ならば、やはりこれだ。
素早く前進する。今度は相手も躊躇なく前進してきた。
ギリギリまで相手の剣閃を観察するべく、目を見開き、鎌の挙動を追う。
しかし、どれだけ距離が縮まっても、鎌の先は動きを見せない。
不意に、紫陽花の片手がぬっと伸びてきた。
(しまった、柔術か)
そう思って身をひねる。かろうじて魔の手から逃れるも、すれ違いざまに強烈な一閃をぶつけられて、よろめきながら相手と位置を入れ替えた。
今度は、紫陽花のほうも容赦がなかった。そのまま、反転、加速し、未だに体勢の整っていない燐子に接近してきた。
三日月が、天井からぶら下がった照明の光を反射して煌めく。
――くる。
唐竹で振り下ろされる一閃を、体を横にして回避する。身躱し斬りのための初動だったのだが、あまりに紙一重だったため、反応が遅れた。
躱せていなかったら、頭蓋から二枚卸にされたのではないか。
再度、振りかぶられた大鎌。次は胴薙ぎ一閃がくる。
屈んで避けるのは危険だ。弾き返す…は無理だ。力負けする。
考えがまとまらない間に、紫陽花が動き出す。
迫る刃、空を切る音。
やるしかない、と自分の左側面に太刀を構え、地面に突き立てる。
体からは力を抜き、集中する。
一瞬で、深くまで沈む。頭の奥にある、どこまでも深く暗い海に沈む。
鎌が太刀に触れた瞬間、両足を地面から離した。
手足を縮め、体を丸める。凄まじい力が体にかかる。
ぐるん、ぐるん、と体が何度も回転する。味気ない景色が二転、三転した後、冷たい床に着地した。
紫陽花が驚愕しているのが見なくても分かる。
この機を逃すことはない、と燐子は屈んだ状態から飛燕のような軌道で斬り上げを放った。
太刀を振り抜いた燐子は、ぎゅっと唇を噛み締めていた。剣先の感触が明らかに肉を裂くそれと違ったからだ。
「驚いたわ…」紫陽花の着物の胸元が裂かれ、傷一つない肌と、黒い下着が見えている。「とても機敏に動くのね。まるで、牙を持った兎みたいに」
こちらを見下ろす紫陽花の瞳が細められる。笑ったのだ。致命的な一閃を受けかけて尚、彼女は愉快そうに笑ったのだ。
肌が、ぞわりと粟立つ。
やはり、こいつは尋常ではない。
不意に、狭い間合いのままで紫陽花が大鎌を器用に振った。反射的に下がって躱すも、切っ先が右脇腹から左肩口にかけてかすめ、白いシャツがじんわり赤く染まる。
「ふふ、貴方に当てるコツが分かってきたわ」
「ちっ…」
こちらの攻撃は届かなかったのに、あちらは平然と軌道を修正してきた。それだけで彼女の地力の高さが窺えるわけだが、そもそも、身躱し斬りとはそういうものだった。
紙一重で躱し、相手の防御が間に合わないうちに、返しの一太刀を浴びせる。
これが一斬必殺の妙技である理由は、相手がこちらの手の内を知った頃には、言葉なき骸に成り果てているからだ。
それが失敗した今、自分は窮地に立たされていると考えるべきだった。
今までも、身躱し斬りを避けるような手練とぶつかったことは何度かあった。
ジルバー、朱夏、アストレア、鏡右衛門…。こちらの世界に来てからだけでも、それだけの人間がいたし、まともに対策を立ててこない朱夏を除けば、等しく苦戦を強いられ、敗北を喫することもあった。
(身躱し斬りだけでは…、足りないのかもしれん)
薄々気づいていたことではある。だが、認めたくないことでもあった。
「なぁに?手品はもう終わりなのかしら?」
「貴様、私の妙技を…!」
「ふふ、怖い顔」紫陽花はまた優雅に微笑む。「でも、そうこなくてはね」
口では強気な発言をした燐子だったが、やはり、明確な策は持ち得なかった。
一朝一夕で、彼女を破る技を編み出せるとも思えないし、まともにやって勝てる相手とも思えない。
まさに、絶体絶命。
それでも、ついつい心が踊るのは、剣士の性か、剣鬼の宿命か。
すると、長息を吐き、どう構えるかを思案していた燐子の首筋に、ぴちょんと、生ぬるい雫が落ちた。
(何だ?)
首をわずかに傾けて、頭上を見上げる。そこには、天井を這うようにして鉄パイプが並んでいた。その中の数本がくの字に折れ曲がり、小さな亀裂から水の雫が漏れ出しているようだった。
(危ないところだった。最上段や八双の構えを取って唐竹を繰り出せば、剣先が引っかかっただろう)
そのとき、まだ運も尽きていないな、と皮肉な笑みを浮かべかけた燐子の脳裏に、雲の隙間から顔を覗かせた月のように妙案が浮かんだ。
ふ、と笑いをこぼす。
どうやら本当に、まだ運が残っているようだ。
霞に構え、燐子は挑戦的な目と口調になって、紫陽花と相対する。
「どうやら、私も掴んだようだ」
不思議そうに紫陽花が小首を傾げる。どうでもいいが、歳不相応な仕草で少し可愛らしい。
「何を?」
燐子は不敵な微笑と共に紫陽花に言ってのけた。
「お前を倒すための隙だ。紫陽花」
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