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竜星の流れ人  作者: null
四部 三章 成すべきこと
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人か魔物か

「どうしてこうなる…ッ!」太刀を八双に構え、嘆きを漏らす。相手は様子を窺うようにこちらを凝視してくる。


「うげぇ!気持ち悪ぅい!」朱夏が高い声で悲鳴を上げた。「もぅ!折角のお姉さんが台無しだよぅ、最低!」

「朱夏。どうして貴方はそう節操がないのかしら?綺麗なお姉さんなら、私や燐子で十分でしょうに」


「うるさいよ、アバズレ!燐子ちゃんやパパにちょっかい出したら、殺すからね!」

「出してないから…、そのアバズレという不名誉な呼び名を撤回してくれないかしら」

「いぃーだっ!ヤダよ!」


 この混沌とした状況下に相応しくない、冗談なのか、本気なのか分からない発言を二人は繰り返していた。


 相手の一挙手一投足に集中していた燐子も、あまりに能天気な様子に苛立ち、声を荒げる。


「お前たち、いい加減にしろっ!敵に囲まれているんだぞ」


 そう言って、燐子がわずかに視線を逸らした瞬間、蛙のほうに動きがあった。


 音もなく、蛙が燐子に飛びかかった。人に近い骨格をしているように見えたが、その跳躍力には雲泥の差があった。


 吹き抜けの天井付近まで飛翔した蛙は、真っ直ぐ、燐子目掛けて落下する。


「くっ!」相手の飛びかかりを横に躱し、太刀を抜き払う。「たあっ!」


 イボだらけで、深緑の背中を切り裂かんとするも、奇妙なぬめりによって太刀筋が乱される。


「何だ、こいつは…!?」


 返す太刀で斬り上げを放つも、再びぬるりとした感覚が刃をつたい、致命傷どころか、まともな手傷にもなっていない。


「ああん、こいつキモい!刃が通らないよぅ」どうやら、朱夏のほうも同じようだ。彼女の年相応の愛らしい声が聞こえる。


「二人とも、まともにやっても体液で防がれるわ。斬撃ではなく、刺突で仕留めなさい」


 冷静な助言を行ったのは紫陽花だ。一瞬だけ彼女のほうを見やると、すでにその足元には二体の蛙が横たわっていた。


「むぅ!命令しないで!」朱夏は自分のやり方にこだわり、大きく横薙ぎに大太刀を振るったが、やはり、有効打にはなっていない。「うぅー!」


 意地っ張りの朱夏と違い、燐子はすぐに紫陽花の助言を受け入れ、突きを繰り出しやすい正眼に構え直した。


 一瞬で両腕を引き、蛙の首元目掛けて素早く刺突を繰り出す。


 蛙は後退し、機敏にそれを回避した。しかし、燐子もすでに相手の敏捷性の高さを把握しており、続けざまに二発、三発と連続して突きを放った。


 喉に二発、燐子の太刀の切っ先が食い込む。

 不気味な悲鳴と共に、蛙が崩れ落ちた。元が人だったとは思えない緑色の血溜まりの中でバタバタとのたうち回った後、泡を吐いて絶命する。


 憐れむ暇もなく、二体目が飛びかかってくる。それを紙一重ですり抜けるように躱し、そちらを振り向かずに、逆手で持った太刀で背面突きを放ち、一撃で仕留める。


 体勢を整え、懐から懐紙を取り出す。そのまま太刀の汚れを拭った。ドロリとした冷えた感触が紙を通して伝わってくるが、気にしている場合ではない。


 紫陽花のほうは心配無用のようだ。鎌の先端で器用に蛙の首筋を串刺しにし、無造作に床へと放り投げている。


 対して、朱夏は違った。件のゴリ押し戦法で一体撫で斬りにしたようだが、肩口を爪で切りつけられたようだ。出血している。


「馬鹿っ!キモいんだってば、魔物のくせに!」崩れ落ちた蛙を蹴りつけていた朱夏の背後に、次なる相手が忍び寄る。「朱夏!後ろだ!」

「へ?」


 呑気に振り返っていた朱夏の眼前に蛙の両手が迫る。慌てて後ずさった朱夏だったが、先程打ち倒した蛙の体液に足を取られ、そのまま転倒した。


「きゃっ!」高い悲鳴に、燐子と紫陽花が反応する。「燐子!フォローを!」

「分かっている!」


 駆け出し、倒れ込んだ朱夏を襲う両手に狙いを定める。


(刺突では、両手同時には止められん。ならば…!)


 踏み込み、重心が前に移動する力を利用し、全力の唐竹割りを叩きつける。

 角度は正確に、蛙の両手に対して垂直に力を加えることを意識する。


 ――…唐竹一閃。


 直後、蛙の両腕が見事な切り口を残し、宙を舞った。


 正確無比で、芸術の域に達しているその技は、幼少期から繰り返しきちんとした指導を受け続けてきた彼女だからこそ、繰り出すことができるものだった。


 死を纏う斬撃に絶叫し、後ろへと下がった蛙は、背後から紫陽花の大鎌で心臓を貫かれ、ぐったりと倒れ込んだ。


「その子に、汚い手で触れないでもらえるかしら」


 ぞっと底冷えするような呟きを漏らす紫陽花の死角から、また別の蛙が飛びかかっているのが見えて、燐子は飛び出した。そのまま急速接近し、素早く刺突で葬る。


「あら、ごめんなさい。貴方がいなければ危なかったわ」絶対に嘘だと分かる言葉だった。「白々しい。どうせ私の動きを予測していたのだろう」


 ふふ、と笑った紫陽花は、辺りから敵が一掃されたのを確認すると、倒れ込んだまま唇を尖らせていた朱夏に手を差し出した。


「立てる?朱夏」

「…助けてもらえなくても、やれたし」

「はいはい。さぁ、手を取って」


 子ども相手にするような甘い声音でそう言った紫陽花に対し、朱夏はぷい、と顔を背けた。それからややあって、燐子のほうを振り向くと、「燐子ちゃん。手、手出して」と不服そうに言った。


 直前のやり取りの中で朱夏に挑発されたことを根に持っていた燐子は、「どうして私が」と、しばらく渋っていたものの、結局は粘り負けて朱夏の手を握った。


 華奢で小さな朱夏の手は、気持ちの悪い蛙の体液で濡れていて、正直、不愉快だった。


「…お前の言ったこと、やったこと、決して忘れぬぞ」

「うん。楽しみに待ってるよ」


 脅しで言ったつもりの言葉だったが、朱夏はむしろ嬉しそうにそう答えた。彼女の漏らした言葉の意味が何なのか、深くは考えたくない。


 騒ぎはそう時間を要さず収束した。どうやら、外にいた桜狼がすぐに帝国兵を指揮し、残党の拘束を迅速に行なったようだった。


 残党――何をもってして、そう呼ぶのかは分からない。ただ、表に待たせていた少女さえも連行されたことから鑑みるに、あまりに厳しい基準であることは間違いないだろう。


 呆然自失としたガラムの横をすり抜けるとき、燐子は奇妙な罪悪感に苛まれた。


 ああしなければ、より多くの犠牲が生まれていた…。まさに、桜狼が言ったように。

 成すべきことを成した。子どもの命は救った。殺めた怪物は、もう人ではないものだった。


(それなのに、この拭えない罪悪感は何だ…?)


 燐子は固く拳を握りしめたまま、遠ざかっていく少女の背中を見送る。離れていくときに、少女がこちらを振り向いた。それに対し、言葉はおろか表情一つ変えてやれず、目を背けた自分を酷く忌々しく思うのだった。





 遅い時刻に天地家に帰り着いたが、エレノアはいつもと変わらず台所にいて、燐子と朱夏のための食事を用意してくれていた。


 帰ってくる時間を予期していたかのような手際の良さに脱帽しながら、燐子はこんな状況でも空腹感を覚える自分に辟易とした気持ちを抱く。


 食事を手早く済ませた燐子は、縁側に一人座し、月明かりに照らされる庭を見つめていた。


(命令を果たし、禍根は断った。なのに…、どうにもやるせなさが消えない)


 ため息一つ、広がる闇に消える。蛍の光のように呆気なく。


 朱夏はあんなことの後だというのにあっさり眠りに就いてしまい、エレノアも、物憂げな燐子をそっとしておこうと早々に部屋に下がっていた。


(こんなとき、ミルフィならばそばにいてくれるのだろう)


 不思議な確信と共に、今それが手元にない喪失感が胸に湧いた。燐子は、何か縋るものを求めるようにして太刀を鞘から引き抜く。


 鞘滑りの音が虚空に飛び込む。


 青い月明かりを刃に帯びた太刀は、物言いたげに主を見つめ返していた。しかしながら、その声に耳を傾けることもできないまま、彼女は目を閉じ、目蓋の裏の暗闇に身を投じた。


 どれくらいの時が経っただろうか。不鮮明な後悔の濁流に追い詰められていた燐子には、その時間は永劫のようにも感じられていた。


 ふと、何者かの気配が縁側の闇に現れた。息を潜めているわけではないのに、どこか暗澹としていて、戦場の香りを彷彿とさせるものだった。


 太刀を握ったまま、気配のするほうを向く。警戒を解かずにいた燐子だったが、暗闇から現れた姿を見て、思わず声を出してしまった。


「鏡右衛門殿…!」急いで太刀を鞘に納めつつ、言葉を続ける。「今日はお帰りになられたのですか」


 燐子は手を床につき、礼儀正しく問いかけた。しかし、彼は闇の中からじっと見つめ返してくるばかりで、何も答えはしない。


 襖と障子の間で彫像のように佇んでいる鏡右衛門のことを訝しんでいると、とうとう彼が口を開いた。


「今夜の任務、ご苦労であった」

「いえ…、滅相もございません」嫌なことを思い出し、顔をしかめる。「力なき者の安全、ここに置いて下さっていることへの対価、そして、ライキンスにまつわる情報の共有…。そのために必要なことをしたまででございます」

「ふ、その割には、苦虫でも噛み潰したような顔をしているな」


 彼はそう言うと闇から出て、燐子の隣に腰を下ろした。


「…そんなにも、私は分かりやすいでしょうか」


 図星を突かれた燐子は、やや疲弊した面持ちで項垂れた。それを見て、鏡右衛門は苦笑する。


「このような夜闇に独り向かい合うのだ。何の悩みもないとは思えまい」


 それもそうか、と頷く。ややあって、鏡右衛門が続ける。


「今回の任務、どう思った」


 相手の意図が読めず、すぐには答えられずにいると、「遠慮はいらん。正直に申せ」と念押しされた。


 十秒ほど沈黙した後、燐子はありのままを彼に吐露した。


 あのようなやり方では、罪なき者も苦しんでしまうこと。

 朱夏の嗜虐趣味は度を超え過ぎているということ。

 朱夏を――子どもを斬れなくなっていること。

 自分が、甘くなってしまっているということ。いや、冷酷になることを恐れてしまっているということだ。


 鏡右衛門は、燐子のありのままの言葉を受けて、しばらく黙り込んでいた。答えに窮しているのではなく、頭の中を完全に整理し終えるまで口を閉ざしているのだと、何となく理解できた。


「それで迷っているのか」

「迷い…。これは、迷いなのでしょうか」

「武士が戦いのときでもないのに、刀を抜き、それを見つめるというのは、往々にして自分の中で何かを決めあぐねているときだ」


 そう言うと、鏡右衛門は脇に置いた太刀を燐子と同じように抜いた。高く、澄んだ音が夜を鳴り、思わず、燐子はその美しい刀身に視線を奪われた。


 峰が程よく反り、刀身には何の曇りも欠けもない。優れた業物だと、一目で分かる。


 すると燐子は、刀身を見つめる彼の横顔に、自分では計り知れぬような感情の渦が見えた気がした。


「鏡右衛門殿も、何かを決めあぐねているのですか?」


 彼はすぐには答えなかった。紫陽花が言っていたように、これが彼の癖のようだ。


「まあ、そうなるな」としばらくして、彼が答える。「一体、何を迷われているのですか?」


 質問してから、しまった、と燐子は顔をしかめた。何も考えずに足を踏み入れていい領域とは思えなかったからだ。


 案の定、彼は苦笑したまま口をつぐんだ。彼に礼儀知らずと思われるのは、どうにも嫌だった。


「失礼しました。詮索しようと思ったわけではないのです。ただ…」

「ただ?」鞘に刀を納めつつ、鏡右衛門が繰り返す。


 率直に告げると無礼なのでは、と迷いつつ、それでも、本心のままに彼と言葉を交わしたいという欲求に負けて、燐子は胸の内を鏡右衛門に伝えた。


「鏡右衛門殿は、迷いとは無縁の方とお見受けしておりました」

「私が?はは、そうか」短く、彼が笑った。よく考えてみれば、鏡右衛門がまともに笑ったのを見たのは、これが初めてだった。「申し訳ないが、私も人の子だ。迷いもする」

「いえ、それが当然でございます。おかしなことを申し上げてしまいました」


 一礼した燐子を一瞥した鏡右衛門は、軽く首を振った。そして、燐子が再び自分を真っ直ぐ見つめていることを確認すると、腕を組み、「しかし」と話を進めた。


「私も一人の侍として、このような迷いは捨てたいと願い続けてきたものだ。まぁ、中々難しいものだがな。燐子にもこの気持ちは分かるのではないか?」


「はぁ…、いえ、私は…」煮え切らない返事をした燐子に、鏡右衛門が質問を重ねる。「どうした、燐子が抱えているという『甘さ』がまさにそれなのではないか?」


 確かに、彼の言うことは的を射ている。しかしながら、問題はそこではないのだ。


 燐子は彼の発した、侍、という単語に気が引けるような想いがして口を閉ざしていた。


 元々、生まれついて侍にはなれないと教えられてきた上に、最近は自分の行いに自信を失いつつあった燐子だ。


 そんな彼女が、侍と同じ土台で話を進められて困惑したのは、言うまでもあるまい。


 しかし、燐子から説明を受けた鏡右衛門は、同情するどころか、むしろ嘲笑うように鼻を鳴らして、体の向きを真っ直ぐ燐子へと向けた。


 深い知性を象徴する黒目が、ほんの少しだけ綻んだような気がした。


「侍の娘が、侍にはなれない…か。随分、私のいた時代とは勝手が違うようだ」

「そうなのですか?」

「ああ。むしろ、私の生きていた頃の日本では、紛い物の侍が闊歩していた。お前のように由緒正しい血統を持つわけでもなく、また、武術に秀でているというわけでもなくな」

「馬鹿な!そのようなこと…とてもではありませんが、信じられません!」


 眼尻を吊り上げて大声を発した燐子に向け、鏡右衛門は人差し指を口の前で立てた。眠っている家族に配慮したのだろう。


 彼は燐子が幾分か落ち着いたのを確認すると、「だが、それが事実だ」と冷徹な声音で断言した。


「まあ、それも私がいなくなる頃には、あまり意味のないものに変わり果ててしまっていたが…」

「意味が、ない?」


 やっと平静を取り戻しつつあった燐子だったのに、今度は、先程よりも聞き捨てならない発言が鏡右衛門よりなされて、矢継ぎ早に言った。


「そんなはずがない。侍というものに意味がないのなら、私は、父はどうなる。いや、違う、違います!貴方自身、無意味なものに成り果てるのではないですか!?」


「それが許せないから、戦ったのだ」


 ぼそり、と鏡右衛門が応じる。その言葉には、彼の刀のように研ぎ澄まされた意思が十分に感じられて、思わず言葉を失う。


 黒い瞳の奥で、見果てぬ夢を追った男の執念が燃えていた。勝手にそう感じただけかもしれない。だが、あながち間違いとも思えない。


 しかしながら…、彼が今この場にいるということは、おそらくは、その夢も元の世界で燃え尽きたのだろう。


 そう思うと、鏡右衛門の長い沈黙は、どこか重苦しいものにも感じられた。


「きっと、お前と私が同じ時代に生まれたのであれば、良き戦友になれたであろうな」


 その言葉には、素直な喜びと賛同を覚え、燐子は頭を縦に振った。


「事情を深くは知りませんが、私も、そのように感じます」


 同じ形なき誇りのために戦い、そして、同じように散ったのだろう。


 やがて、鏡右衛門は言葉もないままに腰を上げた。それから、煌々とした光を放つ月を見上げたかと思うと、風を読むように目を閉じた。


「迷うがいい、燐子」


 小さい呟きなのに、低く、どこまでも広がるような声が燐子の鼓膜を打つ。


「私はな、お前がそうして見出す道に、私の迷いを晴らす光明がある気がしているのだ」

「鏡右衛門殿の迷いを、晴らす…?一体、どういう意味ですか」


 相手の意図が読めず、尋ね返す。しかし、彼はとうとう最後まで何も答えないまま、背中を向けて廊下の闇に消え去った。


 すっと伸びた背中が消えるまで見つめていた燐子は、夜のしじまに独り取り残されたまま、無意識のうちに弱音を吐いた。


「自分の迷いも晴らせないものに、他人の迷いが晴らせるとは思えん…」


 月と星だけが、彼女の嘆きを聞いていた。ただ、彼らが彼女に何かを教えてくれることはなかった。

明日も定時の更新を予定しています。


絶えず更新していますので、毎日見る暇などないよ!という方は、

週末にまとめて読んで頂けたらな…なんて考えてしまいます。


時間という対価に見合うだけのクオリティを生み出せるように、日々精進して参ります。


よろしければ、ブックマークや感想、評価など頂けると、励みになります…。

当然、目を通して頂けるだけでも十分ですよ!

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