討ち入り
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鼻につくのは、残飯の嫌な臭いだった。周囲は夜の闇に沈んでおり、黒のベールの向こう側からは野良猫の卑屈な鳴き声がしていた。
燐子は曲がり角に身を潜め、少し離れたところに立っている四角の形をした建物を見張っていた。彼女と建物の間の遮蔽物の陰に朱夏と紫陽花の姿があった。
呑気な顔つきの紫陽花に対し、朱夏は何か不機嫌そうに紫陽花を罵っていた。子どものすることだと思っているのか、紫陽花は軽くあしらっている。
集会所の中からは人の気配がいくつも感じられた。気配に気を使えるような人間ではないのか、それとも油断しているのか、定かではない。
ただ、できれば後者のほうがいい。下手をすれば、一方的な殺戮になりかねないからだ。
燐子は迷った末に、集会所への討ち入りに参加することを決めた。
ライキンスの手がかりが少しでもこの手にできればと思ったのもあるが、もしも、虐殺が行われるようなことになったときは、止めねばならないと考えたからだ。
(…今回の討ち入りに参加している朱夏と紫陽花は、およそ誉れある戦いができる人間ではない。スラムに愛着のあるガラム、理知的な桜狼はおそらく心配ないだろうが、アイツらは別だ)
口を真一文字に結び、しかめ面で二人の背中を見ていた燐子だったが、背後から人が近寄ってくる気配を感じて、素早く振り返った。
視線がぶつかったのは、桜狼だった。急に振り返られて、彼は酷く驚いた顔をしていたが、すぐに落ち着いた表情に戻ると口を開いた。
「燐子さんも来られたのですね」
「まあ、な」
桜狼は隣に並ぶと、燐子の視線の先を辿り続ける。
「二人が暴走しないか、心配ですか?」
心の内を読んだような発言だった。あえてそれを無視していると、彼は困ったような感じで口元を歪めた。
「朱夏はさておき、紫陽花は鏡右衛門様の命令には背きませんから、予想外の行動は起こさないと思いますよ」
「お前たちにとっては、だろう」
「不服ですか?」
「必要ならば、無力な者も斬り捨てると聞いた」
「それは違います」桜狼は些か気分を害した様子で、目に力を込め続けた。「僕たちが斬るのは、この国を脅かす可能性を秘めたものだけです」
「そんなもの、お前たちが主観で決めるのだろうが。証拠がなくともな」
「では、どうするのですか?疑わしくとも証拠がなければ、罪に問わないと?」
「当たり前だ」と燐子が頷くと、桜狼はわずかな嘲りを感じさせる口調で言った。「その甘さの結果として、より多くの人間が傷ついたとしても、貴方はそれが正しいと言い張りますか?」
見ようによってはか弱い少女のような印象を受ける桜狼が、こんなにもきっぱり自分の考えを言い切ったことには、少しばかり燐子も驚いた。
見た目に反し、男らしく、意志の強いタイプなのだろうか、と女らしさの欠片もない自分が考えたことは滑稽だった。
彼の言い分は理解できる。為政者として考えれば、崩壊の火種は、それがどんなに小さくとも消すべきだ。
(だが、本当にそれでいいのだろうか…)
父ならそうはしない。民は国益だと、相手が剣を取って襲ってこない限り、寛大な心で許すだろう。
しかし、と燐子は目を閉じた。
彼女の目蓋の裏に映るのは、自らの盾となり命を落とした、少女の姿だ。やがてそれは、彼女が葬った兄弟、幼い兵士にまで姿を変えた。
深淵を覗き込む燐子のこめかみが、鈍く痛む。
元の世界にいた頃には、なかった後悔。いや、直視することから逃げていただけだろうか。
それが、こちらに来てから変わっていった。
誇りのために戦い、勝利し、そして、死ぬべきときに死ぬこと。
信じていた。それが正しいのだと。そのために葬る命は、等しく美しく、しょうがないことなのだと。
死にたくないと考えながら、戦場に立つ者たちのことなど、ほとんど考えたこともなかった。
全ては、ミルフィに出会い、ぶつかり合い、こぼれ落ちる涙の一滴に意味を見出してから変わった。
燐子は、色を変えた瞳でその深淵をじっと見つめた。
(この状況、今の『私』はどう捉える。どうするべきだと、いや、違う。どうしたいと考えるのだ…)
考えに没頭していた燐子の様子を見た桜狼は、一つため息を漏らしてから、「すみません」と頭を下げた。
「燐子さんの考え方を否定するつもりではなかったんです。もちろん、貴方の言うところは、正しいと思います。ですが、正しいばかりでは国は成り立たない」
思考を中断された燐子は、桜狼の顔を一瞥すると、すぐに視線を逸らした。
「詭弁だ」それが誰に向けての言葉なのかは、燐子自信曖昧だった。
やがて、ガラムが苦渋に満ちた顔で燐子たちがきた道からやって来た。月の薄明かりに照らし出された日に焼けた顔は、嫌な迷いと苦しみに満ちている。
作戦としては、まず、ガラムが一人で集会所に顔を出す。その時点で何か確証が掴めれば、ガラムが合図を出し、他の特師団と燐子を呼び立てる。確証が持てるまで、燐子たちは待機を言い渡されているが…。
緊張を感じさせるガラムの背中を送り出す。彼が紫陽花の横をすり抜けるとき、彼女が何か言葉を放ったようだったが、それを聞いたガラムの背中は、いっそうの緊張と不安に丸くなったように見えた。
彼は上手くやれるだろうか、と不思議と燐子も気にかかった。桜狼も同じ気持ちだったようで、そわそわと太刀の柄をさすっていた。
どれくらい時間が経っただろう。夜の声に耳を澄ますための静寂は、集会所から聞こえてくる話し声に阻害されていた。それ以外の話し声は、数メートル前方でぶつぶつ言っている朱夏の声ぐらいなものだ。
やがて、中の声が激しさを増し始めた。ガラムの強い声が聞こえる気がするが、何を言っているかまでは分からない。
「行ったほうがいいのではないか?」
「そうですね…――いや、待って下さい」
物陰に潜んだままで桜狼が指さしたのは、集会所から忍び足で出てきた三つの人影だった。
真っ直ぐこちらに向かってくる。そのうち、それが子連れの男女だということが分かった。子どもは幼く、十歳足らずといったところだろう。
未だ、ガラムの声は集会所から聞こえてくる。先程よりも激しさは収まっているようだったが、事態が好転しているとは思えない。
「あの三人は、逃げ出して来たのだろうか」
「どうでしょう、事情を聞いてみましょうか」
桜狼はそう言うと、燐子と共に物陰から姿を見せた。やはり、印象通り理知的な男だと、燐子も再認識する。
だが…、彼女らよりも先に三人組の前に姿を現した者たちがいた。朱夏と紫陽花である。
「はいはい、ストーップ」
頭の後ろに両手を当てた朱夏は、のほほんとした口調で彼らの行く手を遮った。
それで驚いた彼らは足をぴたりと止めて、二人の女をまじまじと恐怖のこもった眼差しで見つめていたのだが、ややあって、紫陽花が発した言葉を聞いて顔色を変える。
「貴方たち、竜神教って知っているかしら?」
刹那の沈黙が流れた。張り詰めた空気が酸素を奪うように夜道を覆った直後、燐子の隣にいた桜狼が、「まずい」と呟いた。
沈黙を打ち破ったのは、紫陽花の背負った鎌が血を求めるように開いた音だった。続けて、朱夏も大太刀を抜く。
空気を切り裂く鋭い音に、とうとう女は集会所のほうを振り返りながら叫び声を上げる。
「みんな!特師団よ!早く逃げてっ!」
焦燥が音となって空気を震わすような、必死の叫びだった。しかし、その声はすぐに泡ぶくまみれの断末魔に変わった。
女の言葉を聞いた紫陽花が、一閃、彼女の首に大鎌を走らせたのだ。
「目標発見。さぁ、帝国特師団諸君、殲滅開始よ」
巻き上がる血飛沫に父と娘が絶叫するも、男のほうは女同様、すぐに永遠の沈黙を余儀なくされた。
男を葬ったのは、朱夏のほうだ。あどけない面持ちに不似合いな鮮血を浴びても、彼女は愉快そうに笑うだけだ。
「うふ、ゲームスタート、だね!」素早く血振るいして、大太刀を肩に担ぎ直す。「ふふふ!綺麗なお姉さん、いるといいなぁ」
何名かの人間が、外の様子を見に集会所から出てきていた。その中にはガラムも混じっていたが、彼は声にならない声を出し、瞳を震わせるばかりだった。
朱夏と紫陽花が集会所の中に飛び込んでいくのを見て、燐子も慌てて駆け出す。行く先は別の場所、膝から崩れ落ちて座り込んでしまっている少女の元だ。
「おい、しっかりしろ」すぐに桜狼も駆け寄ってくる。「君、大丈夫かい?怪我はしてないようだけど…」
「大丈夫なものかッ!目の前で親を殺されたのだぞ」虚ろになった少女の瞳から目を離し、桜狼を鋭く睨みつける。「あのうつけ者共は、一体何をやっている!殲滅だと?馬鹿も休み休み言え!…それとも、それが鏡右衛門殿の命令なのか」
燐子の激した口調に怯んだのか、それとも、彼自身、鏡右衛門の命令に疑問を抱いているのか、とにかく桜狼は口を閉ざして、バツが悪そうに俯いた。
彼の情けのない様子に、ぎりり、と歯ぎしりしながら燐子は吐き捨てる。
「その太刀は飾りか…!武士の誉れ高い魂は、お前の中にはないのか!?」
もういい、と言い切り、燐子は少女の体を桜狼に預ける。幸い、華奢な体を抱きとめる腕はしっかりとしたものだった。
(無用な殺戮は止める)
そう決意し、燐子は集会所に駆け込んだ。
中はすでに、混沌の様相を呈していた。壁や床一面に飛び散った鮮血や内臓からは、数分にも満たない時間で彼女らが暴れ回ったことが窺い知れる。
実際、部屋を二分するような形で、朱夏と紫陽花は武器を振るっていた。ガラムが懸命に止めるよう呼びかけているが、馬の耳に念仏、聞く耳持たない様子だ。
「朱夏!何人かは、逃げられないように生かしておきなさい!」
「えぇ、どうやってよぅ」
「足の健でも切ればいいでしょう。全員殺しては駄目よ」
「もぅ、そんな器用な真似できないってば…」
ぶぅ、と不服そうに喉を鳴らした朱夏は、背を向けて逃げようとしていた女に軽々と大太刀で足払いをしかけ、両足を寸断した。
「きひひ、こうすれば、どうせ逃げらんないよね」聞くにたえない悲鳴を上げる女性を見下ろしながら、朱夏は口元におぞましい三日月を描く。「えへへ、綺麗なお姉さんゲット。全部片付けたら、たーっぷり、遊ぼうねぇ?」
歪んだ恍惚に浸る少女の背中を見て、燐子はぞわりとした感覚で震えた。
「んじゃぁ、次は貴方だよ!」
鬼子の所業に腰が抜けたのか、もう一人、自分と変わらないぐらいの女性が朱夏の前で動けなくなっていた。
「綺麗なお姉さん、二人目ゲット!」大太刀が、照明を反射して銀の光を朱夏の頭上に輝かせる。
再び朱夏が惨たらしい犠牲を生み出すとすれば、それは――…。
燐子の体は、脳が指示を出す前に朱夏の前に飛び出していた。
振り下ろされる大太刀の剣閃を逸らす。
油断していたのだろう、朱夏は思い切り木の床を叩く形となり、妙な悲鳴を上げていた。
――それは…、あの日、朱夏を殺せなかった私の咎なのではないだろうか。
下から恨みがましく覗き込んでくる朱夏の瞳を見据えながら、荒ぶる魂のままに燐子も大声を上げる。
「やめろ、もうっ!」握り込んだ太刀が、カタカタと怒りで震えた。「このような殺戮が、許されるものかっ!」
「殺戮ぅ?」心底不思議そうに、朱夏が小首を傾げる。「私、男か婆さんしか殺してないよ」
「よく見ろっ!」
燐子が示す先には、先程、朱夏が両足を断ち切った女の姿があった。大量の出血によってすでに息絶え、死後の痙攣だけがほんの少し、生の残骸として残っていた。
「彼女だって、もう死んでいる。抵抗する気のない人間を殺めるのはやめろ」
しかし、朱夏は燐子の真剣な忠告を受けても、あっけらかんとした表情のままで、頭をかいていた。そのうえ彼女は、びくん、びくんと痙攣する女性のほうを見やると、満足そうに相好を崩して言った。
「まぁ、足から上が綺麗に残ってれば、最悪、死んでても生きててもどっちでもいいしぃ」
信じられない一言に、燐子は開いた口が閉まらなくなる。
朱夏が女性を嬲る、狂った嗜虐趣味があるのは知っていたが、まさかそれが、生死を問わず発揮されるものだとは考えもしなかった。仮に考えていたとしても、驚愕を禁じ得なかっただろう。
憤りに呼吸を浅くしながらも、陰鬱な冷静さを取り戻しつつあった燐子は、ゆっくりと八双に構え、朱夏を睨んだ。
「…あのとき、お前を殺しておくべきだった。そうすれば、このような犠牲を生み出すことはなかった」
燐子の悲壮すら滲んだ眼差しを真っ直ぐ見つめ返し、朱夏はにやり、と笑う。
「できるの?燐子ちゃん」嘲りを含んだ、嫌な笑みだった。「子どもの私とまた殺れる?本気で殺ってくれる?そうだと嬉しいんだけど…そんなふうには見えないなぁ」
内心、ドキリ、としながら、それを気取られぬよう、太刀を握る手に力を込める。
「できるさ」
「嘘だね、つまんない嘘」
「嘘ではない」
「じゃあ、斬ってみてよ」
朱夏は芝居がかった様子で大きく手を広げ、燐子を挑発した。菫青石の瞳が好奇で爛々と輝くのを目の当たりにしながら、同時に、背中を冷たい汗がつたうのを感じていた。
(安い挑発だ。私が躊躇うのを知って、嘲笑っているのだ)
周囲は喧騒に満ちているはずなのに、何も聞こえなかった。聞こえるのは、自分の鼓動だけ。
たった一人、自分の心臓だけが今の私を見つめている。
繰り返される拍動が、私に問いかける。
『斬れるのか、斬れないのか』
太刀の波紋が、波にさらわれる砂浜のように蠢く。
――うるさい。少し黙れ。
心の中でそう唱え、燐子は高く太刀を振りかざした。
朱夏の表情は、にやけ面のまま一切変化しない。こちらが躊躇することを確信している。
(ここまで小馬鹿にされて、斬れぬとあっては武士の恥だ)
燐子は、殺意をもって唐竹割りを放った。朱夏の頭蓋骨を叩き割るべく、真っすぐ、垂直に刃が振り下ろされる。
何千、何万回と繰り返してきた技。それを放つ瞬間だけは、確かに迷いはなかった。
だが…、その刹那、朱夏の姿が記憶の中のララの姿と重なった。
「…ッ」
息を止めた燐子の耳の奥、鼓膜のさらに奥のほうで追憶の声が響く。
――…燐子、お前は侍にはなれない。
落雷の如き一閃は、朱夏のブロンドの髪に触れるか、触れないかのところで止まった。
「ほぅら、斬れない」朱夏の言葉も、今の燐子には届いていなかった。「だから言ったじゃん。今の燐子ちゃんは弱っちいって。殺気もないし、目がもう迷ってるもん」
目を丸く見開き、愕然とする燐子。彼女には、自分の体が自分の意思に反して動かなかったことが信じられなかった。
膝の力が抜けそうになる。それを食い留めたのは、燐子の精神に宿る誇りの高さであった。
一つ、目の前で朱夏がため息を吐いた。がっかりしたよ、と彼女の目が生意気にもそう語っている。
燐子と朱夏が相対している間に、紫陽花のほうはひとしきり仕事を終えていた。
返り血塗れになった着物は少しはだけ、きめの細やかな肌が覗いているも、血飛沫のために艶やかさは消えていた。
じっとこちらを見つめていた彼女は、ゆったりとした口調で燐子に言う。
「意外と甘いのね、燐子。まさか、ガラルではなく貴方が私たちの邪魔をするなんて」
返す言葉もないまま、歯ぎしりする。紫陽花の煽り文句のためではない。自分自身、何をしたいのかがハッキリとしていないからだった。
このような迷いの中に身を置いた経験は、燐子には一度もない。
誰が相手でも、戦いさえ始まれば、斬るべきか悩むことはなかった。それこそ、エレノアが言ったように刀を握れば気は静まるのだ。
そうして顔面蒼白で俯いていた燐子に、紫陽花は続ける。
「でもいいわ。そのおかげで、少し面白いことになりそうだもの」
「…何?」
顔を上げて、紫陽花のほうを見やる。彼女は顎で燐子の後方を示した。
燐子が寸前で命を救った女性が、瞳に涙と憎悪を浮かべて三人を見上げていた。その手には、赤色の液体が入った容器が握られている。
嫌な予感がした。ミルフィに聞いていた話をすぐに思い出す。
人が、魔物に変わる薬…。
「絶対、許さない…!」女性は呪詛の言葉を呟いたかと思うと、容器の蓋を開けて口をつけた。
気づいたときには、燐子は手を伸ばし叫んでいた。「よ、よせっ!」
燐子の指先が触れる前に目の前でのたうち回り始めた、華奢な体。やがてそれは、ぬらりと光る体皮をもって、ゆっくりと立ち上がる。
異様な姿だ。まるで、蛙が両足で立ち上がったかのよう。
部屋のあちこちでは、同じような異形が何体もこちらを見つめていた。
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