星の居場所
これより三章の始まりです。
今後とも、ゆるりとお楽しみください。
じっとりとした夜の闇に、ミルフィはここにはいない相棒のことを思い出していた。
焦げ付くような星々の輝きは、彼女の鋭く、黒目がちな瞳を連想させる。
天から垂れた黒のベールは、彼女の美しい黒髪を思い出させる。
真っ白い下弦の月は、彼女の持つ美しくも恐ろしい刃を彷彿とさせる。
ミルフィは、現女王の私室にある窓枠に腰掛けてから、夜を見上げていた。本来なら、叱りつけられるような行為だったが、残念なことに、自分を叱りつけてくれる人はもういない。
ローザのことも心配だった。多分、ヘリオスが一緒にいる限り悪いようにはされないだろうけれど…、それでも、嫌な想像は消えない。
遠くを眺めていたミルフィの耳に、扉を遠慮がちに開ける音が聞こえた。それで少しだけ首を動かすと、視線の先にはしかめ面をしたアストレアの姿があった。
「…君か」アストレアは低い声でそう言った。ほんの少し、気を使うような響きを感じて、ミルフィは辟易とする。「お邪魔してます。アストレア王女」
彼女はすでに銀の長髪を垂らし、自らが女であることを隠そうとしていなかった。
もちろん、その国家騒然となる事態に周囲は驚愕したものだったが、今はこんな状況だ。王子が王女だったことより、自分たちの命の安全のほうが優先されているようだ。
後ろ手に扉を閉めた彼女は、すぐに執務机に突っ伏したセレーネに気づくと、すぐそばのソファにかけられていた毛布を持ってきて、その華奢な背中にかけてあげた。
「セレーネはいつ眠った?」
「さぁ、どうでしょう。私が来たときには眠っていましたから」
「そうか…」心底心配そうな声を発したアストレアは、そっと妹の頭を撫でた。「無理をし過ぎている。体でも壊したら大変なのに…」
ミルフィが、金糸が渦巻く場所へ、アストレアの視線が落ちていくのを見つめていると、ふと、彼女の視線に気づいたアストレアがバツの悪そうに顔を逸らし、手をのけた。
(別に、気にしなくていいのに)
無理な要望だとは分かっていたので、それは口にしない。
アストレアは少し考え込むように押し黙り、ぼうっと立っていた。かと思うと、おもむろにミルフィへ近寄った。
ふわり、と良い匂いがした。
こうして近くで彼女を見てみると、なるほど、確かにどう考えたって女性だ。しかも、私なんかよりもよっぽど女らしい、綺麗な女性だ。
「なにか、妹に用事だったのか?」言葉は相変わらず男口調だが、以前と違って、優しい響きがあった。「いえ、むしろ、セレーネのほうに用事があったみたいで」
すると、彼女は目を丸くした。
「セレーネ?」しまった、とミルフィは急いで説明する。「あ、いえ、違うんです。その、セレーネ、様が…」
しどろもどろになって、返答に困るミルフィ。いっそ、今セレーネが起きてくれればとも思って彼女を振り返ったが、規則的な寝息を立てるだけだ。
このままでは、アストレア王女に叱りつけられるかもしれない。そう考えていたミルフィだったが、すぐにそれが杞憂だと分かった。
「そうか…、いや、気にしなくていい」
「え、あ…いいんですか?」
「ああ。あの子がそれを望むなら、私に止める権利はない。それに、あの子の友人ならば多い方がいい」
「ゆ、友人」
恐れ多い、と思ったわけではないが、一介の猟師ごときが女王と友達などと…。名乗るだけで、不敬罪で斬られるのではないかと不安になる。
手持ち無沙汰にビロードのカーテンを握ったミルフィだったが、真面目くさった様相で自分を見つめてくるアストレアに言葉を失い、無言のまま視線をさまよわせる。
赤を基調にデザインされたこの部屋では、ミルフィの臙脂色の髪や瞳すらも、そのために設えたもののようにも見える。
「君にも、色々と迷惑をかけた」
凛とした声。否が応でも、彼女を思い出さずにはいられなかった。
「迷惑だなんて、そんな。関わろうと決めたのは、私たちのほうですから…」
自分で言って滑稽だった。私『たち』だなんて。
もう、ここには自分しかいないのに。
考えまいとしていたことが、せき止められていた河川の水流のように脳髄に押し寄せてくる。それに歯を食いしばって耐えていると、アストレアが囁くように告げた。
「あの女の行方なら、必ず見つける」彼女の灰色の眼差しは、夜空を貫くように向けられていた。「それが、私と妹の責務だ。いや、君にできる恩返し…というのは、エゴになるか」
それを聞いたミルフィは、ただ俯くようにして頭を下げるしかなかった。
ああ言ってもらって、嬉しくないわけではない。だが、探すあてもないのに、どうやって見つけるというのだろう?変な期待は抱かせないでほしい。
アストレアとミルフィは、窓枠のそばで話し合った。別にちょうどよい話題があるわけではない。ただ、静かにしていられない。それだけだ。
「そういえば、どうしてアストレア王女は、男装なんてしていたんですか?」ふと、気になってミルフィは聞いた。「女性でも、支配者にはなれるんですよね?前の女王がそうだったわけですし」
「…ああ、確かに君の言う通りだ。なれはするさ。なれるだけだがな」
含みのある言い方に、ミルフィは怪訝な顔つきになった。
「どういうことですか?」
「前王女が――僕の母が、体を壊して意識もろくにないことは知っているだろう」
「はい」
「あの女は、何もライキンスの影響でそうなったわけではない。この国の政治を牛耳ってきた重臣たちの心無い言葉、態度によってそうなったんだ」
どうやら、深刻な話が始まっているらしい。ミルフィもアストレアのほうへときちんと向き直り、本腰を入れて話を聞く準備を整えた。
「母は、そんな中でも懸命に戦った。女として国を統治することの重責を担いながら、いつか授かる子どもたちの未来のために。…だが、皮肉なことに、やがて授かった子どもは女の子だった」
アストレアの灰色の瞳に陰りが差す。彼女自身の話がここから始まるのだろう。
「僕が、自分と同じような苦難の道を行かずに済むように、母が取った行動は何だと思う?」
「…王女を、王子として育てる」
そうだ、と彼女は苦笑した。美しい微笑だったが、儚げにも、物憂げにも、そして、疲れ切っているようにも見えた。
「そうして僕は王子として育てられた。別に、それに関して恨みはしていない。母も良かれと思ってやったことだ。僕自身、別に女という性に未練はなかった…つもりだ」
カチャリ、と彼女が佩いている剣が音を立てた。白く、細やかな指先が触れたのだ。
何か、不安に備えているみたいだ、とその仕草を見てミルフィは思った。そして、燐子にも同じ癖があったことを思い出した。
「日々、政と剣術に明け暮れた。政についてはまるで才能はなかったが、幸い、剣術に関しては兄弟の中で誰よりも抜きん出ていた。
鍛錬ばかりで、冗談一つ言わない僕を、どうしてかセレーネはとても気に入っていた。そのうち、僕は、セレーネに嘘を吐いているのを心苦しく思うようになった。兄として慕ってくれる妹に対し、罪悪感を抱いたのかもしれない」
ミルフィは、一切口を挟まず、アストレアが深々と語るのを聞いていた。それがどこか懺悔のように感じ始めたのは、アストレアの眉間に刻まれた溝のためだろうか。
「セレーネは、僕が本当は女なのだと明かしても、まるで驚いたりしなかった。『性別でその人の本質が変わるわけではない』。年端もいかない少女が告げた言葉は、深く、僕の胸に響いた」
そこでアストレアは深いため息を吐いた。それから、口を開いて、閉じて…。何かを言おうかどうしようか、迷っているような態度を取った後、諦めたふうに肩を落とし、目蓋を閉じてから話を続けた。
「僕たちが恋仲になったのは、僕が望んだからだと、そう思っている…。姉妹か、恋人か…。きっと、セレーネにとっては、僕たちの関係など些細な問題だったろう」
「それは、違うんじゃないの…?」
突然、自虐的な笑みを浮かべたアストレアに我慢ならなくなって、ミルフィは口を挟んだ。礼儀正しい言葉など、彼女の胸のわだかまりが消し飛ばしていた。
「それなら、あんなふうに泣いたりしないし、抱きしめたとき、幸せそうな顔はできないはずよ」
少なくとも、ミルフィはそう信じていたかった。
あれが、一方的な愛が生み出すものだとは、信じたくなかった。
自分もまだまだ青いのだろう、とぼんやり頭の隅で考えていると、ミルフィのフォローを耳にしたアストレアがぼそりと、「ありがとう」と答えた。
月明は未だ強く、室内を照らしている。揺れるシャンデリアの光が、とても無粋なもののように感じられる。
「僕たちの母が、君のように広い心を――偏見を抱かぬ心を持っていたなら、僕はずっと、セレーネのそばにいられただろう」
「じゃあ、アストレア王女が国を出たのは…?」
「そうだ。母がそうさせた」
アストレアは閉じていた瞳をゆっくりと開いた。グレーの瞳が月光を吸い込んで、美しく、残酷に輝く。そこには、苦渋に満ちた過去が波打っていた。
「僕とセレーネの関係に気づいた母は、王の間に僕を呼び出し、こう言った。――『貴方を男として育てたのは、間違いだったわ』と。そうして、母は僕とセレーネが離れることを強要した。そうしなければ、僕たちを国から追放すると」
「そんな…勝手な」
「ああ、勝手だ。母は、僕という人間の歴史を否定したのだからな。…でも僕は、それでも良かったんだ。
セレーネと共に外の世界に出て、二人だけで生きる…。どれだけ甘美で、明るい道程だったろうか。
だが、僕は知っていた。彼女が――責任感の強い妹が、それを望まないことも」
皮肉なことに、王女として何も知らずに生きてきたセレーネは、すくすくと潔白な為政者として混じり気なく成長した。国の裏側、沼の底のような澱みでもがいてきたアストレアと違って。
「そうして、僕は国を出た。嵐の夜、僕を引き止めるセレーネを置いて」
アストレアは、自嘲気味に笑い、俯いた。
幼いセレーネがアストレアに語った、女王としての夢が、どれだけ彼女を苦しめたことだろう。
それを想像してしまったミルフィは、瞳が潤んでいることを悟られないように視線を下に向けた。
「暗い話をしてしまったな。忘れてくれ」とアストレアは苦笑しながら言った。そこに彼女の孤独が写り込んでいるような気がして、こらえきれずミルフィは首を振る。
「忘れないわ」声が震えないようにするだけで、必死だった。「話してくれて、ありがとう。アストレア王女のこと、ちゃんと知られて良かった」
頑張ってはにかんだミルフィを、アストレアは意外そうに見つめた。燐子と一緒にいる彼女の日頃の言動が、些か乱暴に見えていたため、王女はミルフィのことを暴力的な人間だと思い込んでいたのだ。
それから二人は、セレーネ女王が目を覚ますまで飲み物でも飲んで待とう、と椅子に腰掛けた。
王女と対等に卓を囲むことは承諾したミルフィだったが、アストレアがこちらの分まで紅茶を淹れかけたときは、さすがに無理やりポットを奪い取り、役目を交代した。
時間にして、半刻ほど過ぎた頃だろうか。不意に、部屋の窓が独りでに開いた。
(ん…、風?)
立ち上がり、夜風にスカートをなびかせながら窓に近づく。物音一つせずに開いた窓がどうしても気になり、ミルフィは身を乗り出して外を覗いた。
夜の向こうは、月明かりに照らされた庭園以外は何も見えない。思い違いか、とミルフィが前傾になった体を戻したとき、ぴりり、と勝手にうなじを走った緊張に、弾かれるように上を見上げる。
ミルフィは最初、月の銀光を浴びて佇むその影を見て、およそ同じ人間だとは思えなかった。
魔物の如き真紅の双眸、白よりも白い肌。
丈の短い黒装束から伸びる二本の足も、どういうからくりか、垂直に見える城の壁を使って全身を支えている。
色の白い蝙蝠を彷彿とさせるその姿を見て、ミルフィは一瞬固まったが、すぐに我に返ると素早く後退し、アストレアのそばで声を上げた。
「お、王女!外に、外の壁に何かいる!」
「なに…っ!?」
慌てて剣の柄に手をかけたアストレアが窓枠に近づこうとした刹那、窓の外から、人の形をした影が女王の私室に降り立った。
(敵襲だ!)
弓は今用意していない。あるのは、色んな意味で心もとないナイフだけだ。
どう動くべきか。まず、セレーネを庇うべきか。それとも、アストレアと連携してナイフで躍りかかるべきか。
自分の半端な近接戦闘技能に自信がなかったミルフィが躊躇していると、唐突にアストレアが声を発した。
「し、シルヴィア…?」
土足で部屋に上がり込んでいた人影は、ぺこり、と軽く頭を下げたのだが、アストレアと目が合うや否や、驚いたように目を丸くして口を小さく開けていた。
魔物か何かかと思っていた人影は、よくよく見てみると、若い女性だった。自分よりもいくつか幼い、少女、と形容しても差し支えないことだろう。
見慣れぬ肌の青白さに加えて、およそ人の目とは思えないほどに色濃い、真紅の瞳。自分も赤みがかった瞳の色をしているが、彼女のように月明かりを吸い込んで、爛々と輝いたりはしない。
(なんか、不気味…)ミルフィは、アストレアのほうに近づきながら考えた。
アストレアは少女にゆっくりと近づきながら、早口で言葉を発する。
「安心しろ、ミルフィ。彼女は帝国の密使だが敵ではない」
「帝国の…!」ナイフを握る手に力がこもる。「よせ、僕が世話になった相手だ」
目線と言葉でミルフィの動きを制した彼女は、腕を組み、一音、一音丁寧なアクセントで続けた。
「どうして、こんなところにシルヴィアがいるんだ。国のほうは大丈夫なのか」
「はい、鏡右衛門様からのご命令で参った次第です」そう言うと、シルヴィアと呼ばれた少女は片手を懐に伸ばし、中から白い封筒を取り出してアストレアに手渡した。「こちらを。ライキンスの件に関する密書でございます」
「ライキンス…」ミルフィは、聞き慣れた忌々しい名前が聞こえて、思わず呟きを漏らした。
それによって、シルヴィアがミルフィのほうを向いた。彼女は自分を見つめるミルフィの眼差しに、忌避的な何かがあるのを感じ取って、ほんの少しだけ眉をひそめた。だが、すぐに普段の能面を被ると、身じろぎしているセレーネのほうを向いた。
「…早々に退散します。私のほうも、国に心配事を置いてきていますので」
「待て、密書はこの場で確認したほうがいいのか?」
「いえ、そのような指示は受けておりません。それでは…」
シルヴィアは驚くべき身軽さで窓枠に飛び乗った。一体、何者なのかと問う間もなく、彼女は再び夜闇に消えるようだ。
そのまま飛び立つかと思われた彼女だったが、何か後ろ髪でも引かれたかのように再び部屋の中を振り向くと、無感情な声で言った。
「まさか、本当に『王女』だとは思いませんでした」
すぐに何のことだか理解したらしいアストレアは、鼻を鳴らしながら後ろ髪をかき上げた。
「ふん、我ながら上手に騙せていたものだと感心する」
銀糸が一本、一本、呼吸をしているみたいに煌めき、彼女の美しさを際立たせた。
部屋の中に置かれた質の良い絨毯、ビロードのカーテン、純白のシーツ…それらをもってしても、一ミリたりともアストレアに太刀打ちできそうにもない。
「もう騙す必要もないがな」とアストレアは胸を張って微笑む。女性的なラインとは言い難いが、軽鎧を着けているために彼女の曲線美が分からないだけかもしれない。
そうして不思議と誇らしげだった彼女だったが、徐々に表情を曇らせると、「おい、誰に私が女だと聞いた?」と訝しんだ。
「…貴方が追い出した流れ者です」
「流れ者…?」
「妙な女です。刀を使う――」
“刀”という言葉を耳にした途端、ミルフィの鼓動が一つ、強く鳴った。
瞳の奥、脳髄が刻み込んだ『彼女』の姿。その中でも一番多いのは、やはり、三日月を模したような異世界の武器――太刀を一閃する姿だ。
「燐子…?」ぼそり、とミルフィが独り言のように言った。
「…確か、そんな名前でしたね」
ぐらり、と立ちくらみがした。膝から崩れ落ちかけたものの、なんとか椅子の背もたれに掴まってこらえ、荒い呼吸を整える。
驚いていたのはミルフィだけではない。アストレアも、同じように興奮気味の口調で問いを投げかける。
「シルヴィア。その女は、黒髪の剣士で間違いないか?」
こくり、と少女は頷いた。その仕草が、どれだけの希望と興奮、そして、わずかながらの不安をミルフィに与えたことだろうか。
――燐子が、帝国にいる。
ぐっと、上体を起こし、シルヴィアのほうを見据える。その向こう側で、今更眠りから覚めたらしいセレーネが、小さな悲鳴と共に立ち上がっていた。だが、そんなことはそっちのけでミルフィは相手を見つめた。
これから聞かなければならない、いくつもの質問を頭に思い浮かべながら。
みなさん、お疲れさまです。
みなさんのちょっとした楽しみになれればと、執筆しておりますが、
一ミリくらいはそうなれているでしょうか?
何はともあれ、ご覧になって頂きありがとうございました!