太刀乱舞 弐
「燐子さん」と希望に満ちた瞳で彼女を見上げたエミリオは、その砥ぎ上げた刃物のように鋭い目つきに、かすかな恐れを抱いた。
ハイウルフが飛び掛かる隙を窺うように、彼女の周辺をウロウロしているが、燐子は太刀の柄に手を掛けることもなく眠そうに目を半開きにしている。
あの女は何をしているのだ、早くあの刀とかいう武器を抜いて、目の前の敵に備えるべきだ。
ただでさえ多勢に無勢の状況なのに、あんなに悠長に構えていては一斉に攻撃を受けて殺されてしまう。
折角エミリオが九死に一生を得たと思ったのに…!
ミルフィは他人事のようにぼうっとしている燐子に次第に腹が立ってきて、我慢の限界になった。
「何ぼさっとしてんの!早く戦ってよ!」
もう獣たちは見向きもしない。
燐子は初め何も聞こえていないかのように、ぴくりともしなかったのだが、ミルフィが彼女の元へ動き出したところでようやく口を開いた。
「私の太刀は、獣を斬るためにあるのではない」
あまりにも突き放した言いざまに、ミルフィは一気に頭に血が上り、大声で怒鳴りつける。
「あ、アンタねぇ、自分の腹を斬る剣はあるんでしょ!」
こんな奴に期待した自分が馬鹿だった、そもそもこいつは、何のつもりで舞台に上がったのだ。
燐子はミルフィの声を無視して、冷え切った目を一度閉じた。
それと同時にようやく鞘から刀を滑らせる。
鉄の刃が擦れる音が、緊張で張りつめていた空気を斬りつけるように高く鳴った。
その場にいた全員が、彼女を見ていた。
獣も、村人も、エミリオも、ミルフィも、おこぼれにあずかろうとしていた鳥も、何もかもが、彼女の優雅な抜刀に見惚れていた。
燦々と降りつける西日を反射した銀の輝きが、彼女がゆったりと構えるのに従って、根元から刃先へと生き物のように移動する。
顔の横に立てて構えた太刀が、ぴたりと動きを止めた。
その姿はまるで獰猛な狼が、燐子の指示によって食らいつく対象を見定めているようにも見える。
その刀身から放たれる同胞の死臭を敏感に感じ取った獣共が、一斉にまくしたてるように最大音量で吠え立て、そのうち先頭の二匹が燐子に躍りかかった。
左右からタイミングをずらして飛びかかってくる相手に対し、すり足で一歩進みながら、刀を振りかぶる。
まるで獣の方から燐子の描く閃光に身を委ねたかのようにして、飛び込んでくる。
凄い、とミルフィは思わず息を呑んだ。それはその剣速の速さでも、完璧な合わせであったことでもなかった。
ただ、その美しさゆえ。
刹那、血飛沫が舞い、一匹の獣が地面に落ちる。
まるで鮮血が描く放物線に意思でもあるかのように、返り血は燐子の体にまとわりつき、その美しい顔とシャツを汚した。
さらに続けて襲いくる獰猛な牙に向けて、先程とは逆方向に切り払い、一瞬のうちに二匹を血の海に沈めた。
誰もが目を見開き驚愕に体を硬直させていたのだが、ハイウルフのほうは同胞を瞬く間に殺された怒りか、見境なく襲いかかり始める。
しかし、その一匹も独楽のように体を回転させた燐子の一刀の元に即座に絶命する。
息を吐く間もなく三匹の獣を葬った燐子は、一度太刀を素早く振って、その刀身に付着した鮮血を払う。
その手慣れた所作が、彼女が殺めてきた命の数を体現しているようであった。
次々に仲間を奪われたハイウルフが、たじろぎながらもまだ反抗の光をその瞳に宿し彼女を見つめており、燐子の周囲を囲むようにうろつく。
初めは眠そうな目つきをしていた燐子も、今ではもう殺意に漲った、燃える氷のような鈍い輝きでその瞳を染めている。
そんな彼女を見つめていたミルフィは、自分が我も忘れて魅入っていたことに気がついて何だか恥ずかしくなってしまった。
弟の命がかかっているのに、それを最近知り合ったばかりの、赤の他人である燐子の手に任せてしまっている自分が許せなかったのだ。
我に返り、直ぐさま矢筒に手を伸ばして、弦に矢を番えようとしたミルフィに、燐子がぞっとするほど無感情な声で命じる。
「手出しは無用」
「え」とミルフィは弓矢を下ろして燐子を窺ったのだが、再び剣先を顔の横で水平に構えた彼女と目が合って、思わず息を呑んだ。
「よく見ておけ。日の本の剣士の戦い方を」
つい一瞬前までは、七、八匹の獣に四方から狙われている燐子に一抹の不安を感じていたのだが、今ではもう自分の杞憂だったのだと確信していた。
そして、不安の代わりにミルフィの胸に顔を覗かせていたのは、燐子への畏れであった。
一際大きく吠えた一匹を皮切りに、次から次へと彼女へ牙を向いて襲いかかるも、例外なく一太刀の元にその生命を散らしていく。
回避と同時に行われる流麗無比な太刀筋に、ほとんどのハイウルフが痙攣しながら骸と化す。
燐子は、数日前に森で戦った時点でこの獣の底を見切っていた。
そもそもの話、勝負中に他の獲物へ余所見をする程度の相手は、彼女にとって脅威でも何でもなかったのだ。
屍の数が二桁を越えたところで、残った数匹のハイウルフが尻尾を巻いて丘の方へと走り去っていった。
その背中を見送りながら、ミルフィはもう一度、今回の立役者ともいえる燐子へと視線を向けた。
夥しいほどの返り血を浴びた燐子が、刀から血を振り払い、胸元に手を突っ込んで何かを探すような仕草を取ったのだが、どうやらそれは見つからなかったようで彼女は動きを止めた。
かと思ったら、突然シャツを脱いで上半身サラシ一枚になって、その血濡れたシャツを使って太刀を拭った。
惜しみなく晒された彼女の真っ白の肌が、シャツや顔から滴る鮮血に徐々に侵されていき、白かったサラシはあっという間に真紅に変わった。
戦っているときは、どちらが獣なのかも分からぬほどに残酷で、おおよそ人とは思えぬ風だったのに…。
今の彼女は、自分なんかよりもよっぽど女らしい艶やかさを放っている。
ミルフィは、彼女がエミリオを伴って、周囲からの熱気と恐れに満ちた歓声を浴びながら自分の目と鼻の先に来るまで、何かに取り憑かれたかのように燐子から目が離せなくなっていた。
こんなにも綺麗な戦いは見たことがなかった。
命を奪う争いというのは、ミルフィにとって、どれもこれも意地汚く泥臭くて、まともな人間ならば目を背けたくなるほど醜悪なものでしかなかった。
それなのに、今の燐子はどうだ。
獣の返り血に全身を染めて、着ている服さえも刀のために脱ぎ散らかす、怪物同然の女。
真っ白な肌を美しく火照らせ、血を絢爛に纏い、舞うように命を攫っていく無慈悲な天使のような女。
そうしてコインの裏と表のように、怪物と天使をその内側に飼っている燐子。
不自然に高鳴る胸の鼓動が自分自身にも理解できず、いざ彼女に声を掛けられたときは思わず飛び上がってしまうほど困惑していた。
「おい」
「えっ、え?あ、なに」
「借りは返した」
「か、借り?借りって、なんの…」
「飯だ」とぶっきらぼうに返した燐子の言葉を聞いて、エミリオがしたり顔で「お姉ちゃんのご飯は美味しいもんね!」と笑う。
「あ、そ、そう。いや、そうじゃなくて、アンタ…本当に何者なのよ?」
燐子はその問いには答えず、眉間に皺を寄せてから「その呼び名、いい加減無礼だぞ」
と不愉快そうに口にした。
返り血で染まった顔を歪ませて呟く姿は、ほとんど人間を捨てているという気がしてならない。
「そうだよお姉ちゃん、いい加減、燐子さんに失礼だよ」
「最初に呼び捨てにしてきたお前が言うな」
血塗れで、サラシ一枚の女と自分の弟が、仲睦まじそうに会話しているのを見ていると、もう何が普通なのか分からなくなってくる。
次第に事態が落ち着きを取り戻しつつあって、周囲の人々も獣の死骸や壊れた物の片付けに専念し始めたのだが、燐子の近くを通り過ぎる人間のほとんどが、立ち止まって彼女にお礼を告げていた。
また後でお礼をしにくると言い残し去っていく村人を不思議そうな目で見送った燐子は、無言で首を捻っていた。
「燐子さんのお陰で皆無事だったんだから、お姉ちゃんもちゃんとお礼言いなよ!」
「あ、うん」と珍しくエミリオの勢いに飲まれたミルフィは、何も考えずに頷いた後に後悔するも、弟の無言の圧力に気がついて渋々口を開いた。
「ど、どうも」
「…お姉ちゃんまだ意地張ってるの?」
エミリオの茶化したような、でもしっかりと咎めるような言葉に「分かったわよ」とミルフィは燐子に体を向けた。
「あ、ありがとう、燐子」
燐子、とこっそりもう一度だけ心のなかで、指でなぞるように呟く。
白い肌を剥き出しにした燐子を、正面から見据えようとすればするほど、彼女の返り血で染まったように自分の顔が真っ赤になっていくのが分かる。
それでも何とかして伝えるべきことを伝え、燐子の次の言葉を待った。
「ミルフィ」彼女の凛とした、歳不相応の声音が耳朶をくすぐった。
生まれて初めて名前を呼ばれたみたいに、胸が鳴った。
私と変わらないぐらいの歳のくせに。
さっきから鳴り止まない不自然な拍動のせいで、気持ちが落ち着かない。
「水浴びをして、服を着替えたい」
真剣な顔をして告げる彼女の手に握られた、真紅のシャツに視線が定まる。
「っていうかそれ、私のシャツなのよ!なんてことしてくれるの!」