放つ矢は当たらず、心の矢は抜けず
これより四部、第二章が始まります。
今回はミルフィ視点になっています。
長々と続けている本作品ですが、
ゆっくりと思い出したときにでも呼んで頂けると幸いです。
それでは、どうぞお楽しみください。
バスッ、という鋭い音と共に、分厚い木で出来た的に鉄の鏃が付いた矢が突き刺さる。
的から数十メートルほど離れた場所で鋼鉄の弓の弦を絞り、金切り声のような音を響かせていた女性は、再び狙いを定めて、矢を放った。
迅雷の如く空を直進した矢だったが、的には当たらず、そのままの勢いで石の壁に衝突して、虚しく落下した。
それを見て、女性は眉間の皺を深くする。間髪入れずに三射目を射るも、放たれた矢の軌道はさらに的から外れ、石の壁を軽々と飛び越えていく。
「ああもうっ…」女性は苛立ちを込めて、呟きを漏らす。「どうして当たんないのよ、いつもなら、いつもなら…!」
今にも弓矢を放り捨てそうな表情で的を睨みつけていたのは、燐子と相棒と呼べる関係を築いていた女性、ミルフィだった。
臙脂色の髪をおさげで一本に束ねて、ブルーのマントやジャケット、白のスカートを履いたミルフィは、額の汗を拭うと、的に近寄って突き刺さった矢を抜いた。
矢筒がいくつか並べてある東屋の下まで移動し、ベンチに腰かける。
それから、おさげの先のほうで揺れる夜緑色の髪紐にそっと触れると、水底にまで沈み込んでしまいそうな重苦しいため息を吐いた。
目を閉じれば、目蓋の裏側にあのときの光景がくっきりと浮かび上がる。
横たわる幼い少女の死体。溢れかえる血液。
少女の慟哭。連れ去られていく友達。
私に言葉の矢をぶつけられ、ショックで呆然自失としていた燐子の顔。
酸素を失い、苦しむような横顔のまま、走り去っていく燐子の後ろ姿。
「あんな顔、今まで一度も見たことなかった…」
いつも無愛想で、傍若無人な振る舞いをしていた燐子が。
一度刀を抜けば、青い炎のように冷徹な激情をまとう燐子が。
向かってくるものであれば、他人の命を奪うことにも躊躇がなかった燐子が。
深いため息を吐き出しながら、ミルフィは両手で顔を覆う。
(傷ついていた…。傷ついていたんだよね、燐子)
打ちひしがれるミルフィの頬を優しく撫でる秋風に、彼女の臙脂色の髪が揺れる。
それでも、一週間ほど前のあの日から、止まったままのミルフィの時計を動かすことは出来そうにもなかった。
眠りの浅い日々が続いている。そのためか、頭は酷くぼうっとする。それなのに、燐子の苦しげな表情だけは鮮明に、呼びもせずとも脳裏に蘇っていた。
(燐子の言っていたことが、間違っていたとは言わない。だけど、正しいとも思えないのよ…)
何が正解だったのか、幾度となく月と太陽が入れ替わっている間に考えてみたが、やはり答えは出ない。
(ライキンスを捕まえないと、また誰かが犠牲になる。ローザだって、無事でいられる保証はない。分かってるわ、でも…)
自分を慕ってくれていた、ルルとララを思い出す。にこやかに笑い、ムードメーカーの役割を担っていたララを。
燐子とルルと彼女とで一緒にケーキを食べた日のことを、今でも鮮明に思い出せる。少女たちのおかげで、私と燐子は仲直りが出来たのだ。
そんな彼女が、瞬きをする間もなく死んだ。…燐子を庇って。
小さな体に似合わぬ勇猛さで私の大事な人の命を守ってくれたララは、その相手に冥福を祈られることもなく、冷たい土の下に消えた。
(敵を殺すために追うことが、ララの冥福を祈ることよりも大事…?ララが残していった人たちが落ち着く時間も待たずにいることが?)
ぐっ、とミルフィは両手の拳を握った。誰かの冷酷さを捻り潰すように。
「現実を見ろって?時間の無駄って?」抑えきれない怒りが、噛み締めた唇の隙間からこぼれ出す。「クソくらえだわ、そんなものッ…!」
ミルフィが呪詛の言葉を吐き捨てたそのとき、不意に、東屋のすぐそばで、木の枝が折れるような乾いた音が聞こえた。
音のしたほうを反射的に振り向くと、目を丸くして驚いた顔を浮かべているセレーネ王女が立っていた。
「ごめんなさい、驚かせましたか?」
「…いいえ、大丈夫です」
王女はたった一人だった。いくら国内の状況が落ち着きを取り戻しつつあるとは言え、不用意過ぎるのではないだろうか。
セレーネは、金色のビロードみたいに美しく風を吸い込む髪を手で抑えながら、「隣、座ってもよろしいですか?」と問いかけた。
気を遣われているのがありありと感じられ、どこか卑屈な気持ちになりながらも、片手を差し出して了承する。
過去の自分が、すっかり王族と話すことに慣れてしまった自分を見たら、度肝を抜かすことだろう。
「もう、秋の匂いがしていますね」
「そうですね」
「秋も盛りを迎えれば、城内の庭園は赤く色づくんです。それこそ、ミルフィさんの髪色みたいに美しく」
話の主題ではないことは分かっていたので、曖昧に頷く。早く本題に入ればいいのに、と億劫な気持ちになる。
「冬になれば、その親衛隊のスカートでは寒くてたまらなくなりますから、防寒性に優れたタイツを支給しますね」
「あの、普通にズボンでいいんですけど…。スカートは、やっぱり履き慣れなくて」
「そうですか…。残念です」セレーネが、全く残念そうではない笑みを浮かべる。「気が変わったら言ってください」
苦笑いで返すミルフィだったが、思ったよりも表情筋が動かなかったことに驚く。よくよく考えれば、最近は全く笑えていない。
笑えるはずもない。
燐子が、ここにいないのに。
再び顔を俯けて、石の床を見つめる。うっすらと積もった砂塵は、今の私の心に層を成している後悔みたいだった。
「それに、いつまでここにいるかも分からないもの…」
漏れ出た言葉は、ほとんど無意識的なものだった。
「ミルフィさん…」と王女の心配そうな声が聞こえる。それすら今は煩わしくて、ミルフィは八つ当たりするみたいに吐き捨てた。
「私、何してるんだろ、こんなところで。城の中にいたって、意味なんかないのに」
伝わったかどうかは分からないが、今のミルフィの言葉には、セレーネへの皮肉も込められていた。
いつまでも自分は城の中にいて、それで問題を解決出来ると考えている彼女への。
ミルフィの気持ちがきちんと伝わったのか、セレーネは小さくため息を漏らすと、「そうですね」と呟いた。
どこか飽き飽きした調子に、ミルフィは眼尻を吊り上げてセレーネを捉えた。文句の一つでも言おうかと思っていたのだが、それよりも早く、王女が口を開く。
「竜王祭も終わり、燐子もいない。ミルフィがここで親衛隊を務める理由は、このプリムベールの街並みと共に崩れ落ちてなくなりました」
どうやら、気分を害したようだ。語気が少しだけ強くなっている。それに、セレーネが自分や燐子のことを敬称無しで呼ぶときは、説教がましくなっているときだ。
王女はそこで一呼吸置くと、石の壁を見つめた。方角的に、あちらは城下町があるほうだ。未だに復興作業が続いていて、ミルフィも朝から昼にかけてそちらに出向いていた。
「それなのに、どうしてミルフィはここにいるのですか」じろり、と横目で睨まれ、一瞬怯む。「どうしてって、こんな状況じゃ、当たり前じゃない」
「無理をすることはありません。貴方はカランツに帰って、また猟師でもしていればいいでしょう」
さすがにこれにはムッとして、ミルフィも噛みつき返す。
「何で私が責められなきゃいけないのよ。私はただ、現実の話をしただけでしょ!」
「現実?」と嘲笑を含んだ声で返される。「現実とは、燐子の行方も分からなくて、町も酷い状況のままであることですか?それとも、当たりもしない矢を木の的に放ち、それを拾い続ける日々のことですか?」
「ああもうやめてよっ!私だって、色々あってパンクしそうなんだから!」
勢いよく立ち上がって怒鳴りつけるミルフィだったが、いつものような気迫はなく、切羽詰まった表情には哀れみさえ感じさせるものがあった。
その怒号に鳥たちのさえずりは止まったが、セレーネの美しい声は止まない。
「この状況において、色々ない人間など誰一人としていません」
「それは…」
「もちろん、辛さの度合いは違いますし、過酷な環境下で、誰もが前向きに歩き続けられるはずもありません。実際、多くの民が気力を失い、鬱屈とした時間を過ごしています。このままではいられませんから、こちらとしても、アズールやシュレトールのような他の街への避難も呼びかけるつもりです」
つらつらと言葉を並べる王女を見て、ミルフィは自分だけが何もしていないような錯覚を覚えて、歯ぎしりする。
王女は王女で、しっかりと考えている。心の底では分かっていたことだ。
「それでもプリムベールに留まり、復興やライキンスの捜索のために力を貸そうという人も一定数います。それに…」
セレーネはそこで言葉を区切ると、言葉に迷うように口を開け閉めした。彼女が言うべきかどうか迷っていることは自明である。
今の今まで自分を鞭打ってきたセレーネが、突然気遣う素振りを見せたことで、むしろ、ミルフィは苛立ちを覚える。半端な優しさや厳しさなら、初めから口にしないでほしかった。
「いいよ、なに。早く言って」
すっかり敬語を使うことも忘れ、ミルフィは相手の言葉を急かした。それでようやく気持ちが固まったらしく、セレーネは決然とした顔つきで話を続けた。
「ララの同僚であった使用人たちも、ここに残ることにしたそうです」
「…ルルたちが?」
「ええ。しかも、ルルに至っては、武器を取ることを望んでいます」
「本当なの、それ?」
当たり前のようにこくり、と頷くセレーネを見て、ミルフィの中の激しい感情が再燃する。
あるまじき行為だったが、ミルフィは弾かれるようにしてセレーネの胸倉を掴んでいた。市民が王女に暴力的な行為を働くなど、厳罰を言い渡されても仕方ないことだった。
それでも、セレーネは驚きなど微塵も表に出さず、淡々とした灰色の瞳で、煌々と燃えるミルフィの瞳と対峙する。
「何で、どうしてそうなるのよッ…!止めなかったの、アンタ!?」
「もちろん、止めました。ですが、彼女がどうしてもと願い出たのです」
「それが何よ?アンタは王女でしょう。使用人なんかの言葉、突っぱねなさいよ!」
「今の彼女を誰が止められますか?受け止めきれない喪失の苦痛を、彼女は怒りや憎しみの刃として吐き出すことにしたのです」
到底、同年代とは思えない毅然としたトーンで言葉を口にするセレーネに、さすがのミルフィも気勢を削がれる。
「そうしなければ、生きられない、耐えられないことを知ってしまったから」
「…それで、こんなことを繰り返すの?死ぬべきじゃない人間が、いつの間にか死のレールに乗せられて、惨めに死ぬ。こんなことを、いつまでも?」
「死ぬべき人間など、いません」
ぴしゃり、とセレーネが言い放った。それがミルフィにとっては、王族への怒りに満ちた過去を思い出す引き金になってしまう。
「そうよ、分かっているわよ、そんなの。でもね、私の父親は、アンタたち王族が出した徴兵令のせいで死んだ。この世の果てみたいな砂漠で、遺品の一つも戻らないままに死んだのよ」
これにはセレーネも顔色を変え、言葉を失った。
時期的に見て、ミルフィの父親を死なせたのは現女王であってセレーネ本人ではない。
しかし、そんなことは関係なかった。
ミルフィにとっても、セレーネにとっても。
王族と市民。各々がその代表のような存在だった。
狡いのは分かっていたけれど、一度恨み言を紡ぎ出した口は激流のように止めどなく動いた。
「兵士でもない人間を戦わせた奴らが、そんな綺麗事、二度と口にしないで。少なくとも私の前では」
「…申し訳ございません」
別に、謝罪が欲しかったわけではない。ミルフィは怒りのボルテージが徐々に下がっていくのを感じた。
こんなの、ただの八つ当たりだ。ルルに関することだって、私が彼女を止めようとすることだって出来るはずだ。
「…はぁ、ごめん」額に手を当て、首を左右に振る。「今のはズルかったわ。アンタが悪いわけじゃないのに…」
「いえ、構いません。前女王の罪は、私の罪です」
寛大な処置だな、と頭の中だけで皮肉を唱えているうちに、ふと、セレーネが口にした言葉に違和感を覚えて、小首を傾げる。
「前女王?それって、もしかして…」
ミルフィの大きく見開かれた瞳から注がれる視線を受けて、セレーネは上品に微笑んだ。誇らしげな顔つきは、少し珍しい。
「ええ、無事、即位しました。こんな状況です、まともに意識もない母を最高権力者に添えているより、いくぶんかマシでしょう」
「そうね…、おめでとう、ございます」
「ありがとう、ミルフィ。貴方も晴れて女王親衛隊に昇格です」
「はぁ、センスの悪い皮肉ですね」
徐々に冷静さを取り戻し、普段どおりの言葉遣いに戻りつつあったミルフィだったが、セレーネは彼女の涙ぐましい努力を断った。
「ミルフィ、無理して喋り方を変えずともいいですよ」
「え!?あぁー…いやぁ、そういうわけにも…」
「どうせ貴方は、感情が高ぶると素に戻るじゃないですか」
「うっ…」言い訳のしようもない指摘に、ミルフィは言葉を詰まらせる。
「まぁ、さすがに公式の場では控えてほしいですが、プライベートの時間は気にせずとも構いません。私も気にしませんし」
こうなった王女――もとい、女王は梃子でも動かない。それは、この数ヶ月の間に身にしみて学んでいた。
後頭部をかきながら、渋々それを受け入れる。自分がそう器用に切り替えられるとは到底思えないが、頷くまでセレーネは話を進めないだろう。
ほんの少しの時間、セレーネと今後の復興作業について話し合った。瓦礫の撤去や、避難の手続き、死の臭いに引き寄せられた敵性魔物の駆除…。
やることは山積みだ。本当ならば、こんなところで動かない的に矢を放っている場合ではないのである。
(…本当に、コイツの言う通りね)
やがて、セレーネはベンチの上に膝立ちになると、東屋の窓枠に腕を乗せて庭園のほうを眺め始めた。
しなやかな体に曲線を作った彼女は、いつものドレス姿ではない。ライキンスが事件を起こして以降は、白と金の薄い装甲が施された軽鎧を身に着けている。
実際、外に出て戦うこともあるので、このほうが色々と都合が良いのだろう。
「燐子さんが乗ったという船ですが、調べてみても、行方は分からずじまいでした」
唐突に燐子の名を出され、息が詰まりそうな心地になるも、何とか気持ちを持ち直し、短い相槌を打つ。
「一体、どこに行ったのでしょう…。無事だと良いのですが…」
一瞬で憂いに染まったセレーネの横顔から目を逸らし、ミルフィは的のほうを見据えた。力なく横たわる矢からは、どこか哀愁を感じられる。
「燐子なら無事に決まってるでしょ…アイツ、鬼のように強いんだから。変なこと言わないでよ、セレーネ」
ミルフィの角度から、セレーネの顔は見えなかった。しかし、沈黙の海が横たわった長さから考えて、彼女が驚きで言葉を詰まらせていることは間違いない。
思い切り過ぎただろうか、と不安に思っていると、ややあって、セレーネがくすりと笑う声が聞こえてきた。
「そうですね。あの人が簡単に負けるわけもありませんもの」
隣に座り直したセレーネが、ぎゅっとミルフィの片手を握った。セレーネの冷えた両手に心臓が跳ねる。
「早く見つけて、文句を言ってやりましょう。理由は…何でもいいです。難癖をつけてでも、文句を言ってやるのです。いえ、それだけでは足りません。一発、ぶちかましてやりましょう。ね?ミルフィ」
あっという間に同年代の女としての顔を覗かせたセレーネに、救われるような心地になったミルフィは、先程よりもずっと自然な苦笑いを浮かべるのだった。
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