食卓
招待された食卓の上には、こんがりと焼き目の付いた魚が三匹並んでいた。丸々と身が付き、脂の乗った魚からする香ばしい香りは、忘れ去られていた食欲を呼び覚ますには十分だった。
だが、並べられた食事を見下ろした燐子の中には、食欲を凌駕する想いがあった。
玄米、焼き魚、味噌汁…。そっと添えられた梅干しを見て、胸が熱くなるのは避けようもない。座卓だって、こちらに来てからと言うものの、久しく見ていなかった。
「…まるで、故郷に帰ったようだ」
ぼそり、と燐子の口から呟きがこぼれた。その一滴に、望郷の念が花咲かせていた。
朱夏は、ガツガツと品のない作法で誰よりも先に朝食をかき込み始めていて、燐子の呟きなど気にも留める様子はなかった。しかし、燐子が箸に手を付けるまで動くまいとしていた女性は、丁寧にそれを拾う。
「あら、貴方の故郷も同じような食事が出るの?」
「同じような、というよりも…」自分が流れ人だと聞いていないのか、女性は驚いた顔つきだ。「同じです。まさに。質素で、慎ましい。私が家で食べていたものと、同じです」
「そう、なの?えっと…」
女性は困惑した様子で朱夏を見た。説明を求めるみたいな視線に気付いた彼女は、にんまりと笑ってみせてから、自分の母親の梅干しを素早く盗んだ。
「あ、こらっ!」
娘の狼藉に目くじらを立てた女性だったが、叩かれるよりも先に朱夏が言った言葉に目を丸くする。
「燐子ちゃんはパパと同じだよ。流れ人」
「え、嘘、本当!?」
「うん。しかも、パパと同じところから来たみたい」
「はぁ!?」
突如響いた女性の声に、燐子は眉を曲げた。一見すると奥ゆかしそうな女性に見えるのに、品なく大声を出したことが驚きだった。
朱夏の母は、燐子のことを忘れたみたいに怒鳴り声を上げる。
「ちょっと、朱夏!どうして、そういう大事なことを先に言わないの?」
「えー?ママに言わなかったけ?私」
朱夏は、母の説教を半分聞き流しているようだ。その証拠に、視線はずっと箸先でつくじっている焼き魚に注がれていた。
「聞いてないわよ!鏡右衛門さんと同じなんて、とんでもないことじゃない」
「そうかなぁ」ぶすり、と朱夏が焼き魚の眼窩に箸を突き刺す。行儀が悪い。「そうかなぁ、じゃなくて…。それ、鏡右衛門さんは知ってるの?」
「うん。ジルバーが言ってた…と思う」
「と思うって、どうしてそう他人事なの」
ため息交じりでそう告げた母に対し、唇を尖らせて朱夏が応じる。
「だって、私には関係ないしぃ」
「あぁもう、本当に、この子は…」
とうとう言葉を失った女性は、額に手を当てたまま首を振っていた。それを盗み見るようにしていた燐子は、二人の会話の中で繰り返し口にされていた名前を反芻する。
(――…鏡右衛門。それが奴の名前か。なるほど、確かに同郷らしい)
日の本では聞き慣れた響きだったはずだが、今ではとてもなつかしく感じられる。忘れていた時間を思い出したみたいな温かみを覚えて、燐子は思わず口元を綻ばせた。
「あ、燐子ちゃんが笑ってる」
燐子の表情の変化を目ざとく察した朱夏が声を高くして言う。それを聞き、客人そっちのけで行われた自分たちのやり取りを恥じたらしい女性は、頭を下げながら頬を赤らめた。
「あ、ごめんなさい、恥ずかしいところを見せてしてしまって…」
「あ、いえ…。美味しいなと思っただけです」燐子が誤魔化すと、朱夏の母はホッとしたような顔つきになって、自分の食事を進めた。
やがて、三人が朝食を終えると、絹代と呼ばれていた女性が食器を片付けにやって来た。
彼女が自分を見る目には、物言いたげな、責めるような陰湿さを感じたが、憮然とした態度で受け流す。
それからすぐにお茶が運ばれてきたのだが、これもまた故郷で口にしていたものと似通った味をしていた。ほんの少しだけ渋みが薄いが、これはこれで趣深い。
燐子が二口ほど湯呑に口をつけたところで、朱夏の母がそわそわとした様子で燐子を見つめていたことに気づく。何か話をしたいことがあるようだ。
こちらとしても望むところだ。聞きたいことが山ほどあるのに、朱夏ではまるで話が進まないのでちょうど良い。
それに今は、何か考え事をするか、体を動かしていないと余計なことを思い出してしまいそうだった。
単身海を越え、修羅の道を進んだ自分にとっては余計なことを。
「何から何まで、本当に感謝致します」膝を揃え、深く頭を下げる。お礼をやんわりと断る女性に対し、それでも燐子は続けた。「こんな得体も知れない人間の世話をしてもらえること自体、恩義を感じて当然です」
しかも、自分は帝国に仇なすものなのだ。将軍の妻ともなれば、こちらのことを『敵』と認識しても、本来おかしくはない。
だが、彼女から与えられたものは、今のところ温み一つだ。その娘からはろくでもないモノばかり与えられているが、別問題と考えるべきだろう。
女性は燐子の仰々しい素振りを見て、初めは困ったような顔をしていたのだが、そのうち、懐かしむように目を細めていた。
「本当に、あの人と同じ場所から来たみたいね」砕けた口調になったのは、きっとそれが独り言だったからだ。「真面目腐った感じが懐かしいわ」
「パパは今も真面目腐ってるよ。堅すぎて、息苦しいもん」
「アンタは黙ってなさい」
愚痴を垂れた朱夏を咎めると、女性は燐子と同じように膝を揃え、真面目な顔つきになった。
「申し遅れました、私は天地エレノアと申します。天地朱夏の母で、帝国軍総大将、天地鏡右衛門の妻です」
女性――エレノアは、深々と頭を下げた。洗練された仕草だった。まるで、用意されたような感じだ。
「燐子と申します。改めて、色々とお礼申し上げます」燐子も再び頭を下げて応じた。そして、すぐに本題に移った。「早速ですが、お聞きしたいことがいくつかあります」
そのやり取りには興味がないのか、朱夏は部屋の隅に移動すると、大太刀を鞘から抜き出して手入れを始めた。
鼻歌混じりで手を動かし、刃に息を吹きかけてうっとりしている姿は、お気に入りの玩具を扱う少女のようだった。まぁ、彼女にとっては同じようなものなのかもしれない。
「まず、ここは帝国所領内で間違いありませんか?」
「はい。そうです。ここは帝国本領、グラドバラン領となります」
「本領…」と燐子は呟いた。「燐子さんは、船で運ばれてきたと聞いています。鏡右衛門さんが、朱夏がどうしてもとうるさいから、家に置いておいてくれと話されたの」
「では、ここは天地家の屋敷ということですか?」
「ええ、そうです。あぁ、燐子さんには別に部屋を用意するよう、絹代さんには伝えていたのですが…すみません」
「え?あ、いえ、はぁ」
よく分からない脈絡で謝られ、とりあえず適当な相槌を打っていると、隅のほうで武器の手入れをしていた朱夏が声を上げた。
「私が絹代に言ったの。『そんなのいらない。燐子ちゃんは私と寝るの』って」
「まぁ」と朱夏の言葉に対して、エレノアが眉をひそめる。「はしたない子。誰に似たんだか…」
「さあね。少なくとも、パパじゃないよ」
「朱夏!」と声を荒らげたエレノアは、恐ろしい形相で娘を睨みつけたのだが、朱夏はまるで気にする様子もなかった。おそらく、これが天地家での日常なのだろう。
ため息と共に、エレノアが肩を落とした。なんとなく、見てはいけないものを見てしまった気がして、燐子も視線を湯呑に落とす。ちょうど、茶柱が立っていた。
幸運の予兆として、茶柱は有名だが、果たして今の自分は幸運だろうか。
大事な相棒に失望され、置き去りにした。
少女を犠牲にして敵地に飛び込んだつもりが、的外れな上、返り討ち。
(全く、情けのない…。父上が今の自分を見たら、どう思われるだろうか)
叱りつけ、檄を飛ばした後、いつも、『期待しているぞ』と言うのが父の癖だった。その言葉は本心からだと信じていたが、それも今となっては分からない。
諦観の嵐に飲まれたような顔をしていた燐子だったが、元からシリアスな顔立ちの彼女だったので、幸い、エレノアは気づかずに話を続けた。
「ごめんなさいね。この子、ちょっとアレなのよ…」
「はぁ、アレ、ですか」
アレとはどれだ、という問いが喉まで出かかるも、何とか制した。
最近の燐子には、言語化されていない部分を補足しようとする習慣がほんの少しだけ身に着いていた。これはひとえに、プリムベールでの日々が彼女にもたらしたものである。
(アレ、に該当する言葉…)
『頭がおかしい』、『イカれている』、『狂っている』。
『理性がない』、『俗欲が強すぎる』、『うつけ者である』。
どれも、母が娘に使う表現ではないが、適当である気もする。
「何と言うか、そのぉ…、ちょっと、頭のネジが足りないのよ」
お言葉の通りです、と口にしかけるが、どうにか堪える。苦笑いだけが抑えきれず、燐子の口元に浮かんだ。
「むぅ、どういう意味ぃ?それ」一応、話は聞いているらしい。朱夏が唇を尖らせて問いかけた。
「言葉通りよ。貴方は昔から乱暴で、ワガママで…。あぁもう、ネジはどこに落としたの?」
「ふん、そこじゃない?」と朱夏が大太刀の先で、エレノアのお腹を示す。「もう!行儀が悪いでしょ!」
再び朱夏の頭の上に雷が落ちたが、例によって、彼女はまるでこたえる様子もない。ただ、エレノアが燐子に、「何か朱夏が迷惑をかけなかった?」と問いかけたときだけは、慌てていた。
身振り手振りで自分の身の潔白を口にするよう朱夏が頼んできたので、少し迷ってから、「何もありませんでしたよ」と大きな嘘を吐いた。
どこまでエレノアが知っているかは分からないが、自分の娘が、罪もない人間を切り刻み、その上に凌辱の限りを尽くしていたと知れば、正気ではいられまい。
早くに母を失った燐子の細やかな思いやりであった。
ひとしきり朱夏が叱られた後、再度、本題に戻った。
「エレノア殿。私はこれからどうなるのでしょうか?」
燐子が恐れているのは、このまま幽閉されてしまうことだった。もっと言うと、朱夏の飼い犬にされてしまうことだ。
(もう、鳥籠は御免だ)
相手の返答次第では、争う覚悟をしなければならない。そう考えていた燐子の耳に、エレノアは嬉しい知らせをもたらした。
「そのことであれば、心配はいりませんよ。鏡右衛門さんが、燐子さんが目を覚まし次第、城に呼ぶよう言っていたので。もちろん、客人として」
「左様ですか…。随分と寛大な処置ですね」
「あれ、嬉しくないですか?」
「いえ、そういうことではありません。もちろん、ありがたいことこの上ありません。ただ…、何を考えているのか、と不思議に思うところはあります」
燐子の正直な感想を聞いたエレノアは、どこか嬉しそうな微笑を浮かべると、小さく息を吐きながら続けた。
「きっと、同郷の貴方と話したいのでしょう」
「そうでしょうか?あの人は、私を斬ることに一切の躊躇いがなかったように見えましたが」
「ふふ、そういうものだと聞いています」また脈絡のない返事だった。
「何がでしょうか?」
今回は想像のしようもないと思い、すぐさま聞き返す。
すると、エレノアは含みのある笑みで悪戯っぽく言葉を続けたのだが、どうにもやはり、その顔つきに見覚えがある気がしてならなかった。
「刀を抜いているときと納めているときとでは、まるで違う人間なのだと。貴方たち、日本の侍という生き物は」
燐子も、これにはどうにも言葉が出ず、痛みが内包された影を顔に宿す以外はなかったのだった。
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